第23話 西へ向かう軍勢
雪斎が西三河へ向けて大軍を率いるという知らせが、駿河に届いたのは朝のことだった。
家臣が駆け込んできて、息を整えながら言った。
「若殿……雪斎様が、三河西部へ進軍されます。吉良、西尾、安祥の織田勢を討つために」
胸が静かに熱くなる。
ついに動いた。
西三河は、ずっと荒れていた。
村が焼かれ、田畑が踏み荒らされ、商人が怯え、道が壊れ、民が疲れ果てていた。
その原因のほとんどは、織田の侵攻だった。
雪斎が動くということは――
**今川が本気で三河を守るということだ。**
「氏真」
義元が呼んだ。
「雪斎の軍勢に、そなたも同行せよ」
家臣たちが一瞬息を呑む。
十一歳の若殿を戦場へ出すなど、常識ではありえない。
だが義元は続けた。
「そなたは三河を見た。三河を育てると言った。ならば――三河が抱えている現実を、もっと深く知る必要がある」
俺は静かに頷いた。
「承知しました」
◆
三河へ向かう軍勢は、静かに、しかし圧倒的な気配をまとっていた。
雪斎は馬上で何も言わない。
ただ前を見ている。
その背中は、僧でありながら武将であり、そして今川家の頭脳そのものだった。
俺は雪斎の少し後ろを進んだ。
家臣が心配そうに声をかける。
「若殿……本当に同行されるのですか」
「行く」
「昨日も戦われたばかりです。今日は雪斎様の大軍です。危険は――」
「危険なのは分かっている」
俺は馬の手綱を握り直した。
「だが、三河を育てると言った以上、三河が抱えている現実から逃げるわけにはいかない」
家臣は何も言えなかった。
◆
軍勢が西へ進むにつれ、景色は変わっていった。
東三河はまだ穏やかだった。
田畑が広がり、村人が道の脇で軍勢を見送っていた。
だが――
西へ進むほど、空気が変わった。
道は荒れ、土は削れ、荷車の跡が深く残っている。
焼けた家が見える。
壊れた柵が見える。
村の入口には、誰もいない。
雪斎が馬を止めた。
「若殿」
「はい」
「これが、西三河でございます」
雪斎は焼け跡を指した。
「戦が通れば、土地は必ず荒れる。直そうとしている道も、支えようとしている村も、戦が通れば壊れる」
その言葉は、昨日家臣が言った言葉と同じだった。
だが、雪斎の声は重かった。
「若殿は、三河を育てると言った。ならば――壊れる現実も見ねばなりませぬ」
俺は静かに頷いた。
「分かっています」
◆
そのときだった。
前方から、家臣が駆けてきた。
「雪斎様! 安祥の手前で、織田の小勢が道を塞いでおります!」
雪斎は馬を進めた。
「数は?」
「二十ほど。しかし、村の入口を荒らしております!」
雪斎は振り返り、俺を見た。
「若殿。…後ろに下がってもよいですぞ」
その言葉は、優しさだった。
だが――俺は首を振った。
「前へ出ます」
雪斎の目がわずかに細くなる。
「昨日も戦ったばかりでは?」
「昨日、三河の民が俺を守りました」
雪斎は黙った。
「俺は三河を育てると言いました。ならば、三河を荒らす者を前で止めるのが筋です」
雪斎はしばらく俺を見つめ――やがて頷いた。
「よろしい…では、参りますぞ」
◆
安祥の手前。
織田の小勢が村の入口で荷を奪い、家を壊していた。
雪斎の軍勢が姿を見せると、織田の兵は慌てて槍を構えた。
「今川の軍勢だ!」
「雪斎か!」
雪斎は馬上から静かに言った。
「退け」
その声は怒号ではなかった。
だが、圧倒的だった。
織田の兵が一瞬怯む。
その隙に、俺は馬を進めた。
「ここは三河の村だ! 荒らすなら――俺が止める!」
織田の兵が驚く。
「子どもが前に出てきたぞ!」
槍が向けられる。
その瞬間だった。
「若殿ぁぁぁぁ!」
昨日の村人たちが、また駆けてきた。
鍬を持ち、棒を持ち、雪斎の軍勢の後ろから押し寄せる。
「今川様が三河を守ってくださるなら、俺たちも戦う!」
「道を直してくださったんだ!」
「三河は今川様の国だ!」
雪斎の家臣たちが驚く。
「民が……雪斎様の軍勢に加勢している……!」
雪斎は静かに言った。
「若殿。そなたが動かしたのだ」
俺は槍を構えた。
「行くぞ!」
雪斎の軍勢と三河の民が一斉に押し寄せる。
織田の兵は数が少ない。
すぐに押し負けた。
「くそっ、退くぞ!」
織田の兵は逃げていった。
◆
戦が終わると、雪斎が俺の前に馬を進めた。
「若殿」
「はい」
「そなたは……三河を動かした」
雪斎は村人たちを見た。
「民が若殿を守るなど、今川家では初めてのことだ」
俺は静かに答えた。
「三河を育てると言いました。育てれば、民は立ち上がります」
雪斎はゆっくり頷いた。
「ならば――そなたは三河を任されるべきだ」
その言葉は、雪斎からの“認可”だった。
義元に続き、雪斎も俺を認めた。
◆
夜、安祥の近くで陣を張った。
焚き火の前で、俺は地図を広げた。
今日戦った場所に、印をつける。
その印は、
**雪斎の軍勢と三河の民が共に戦った場所**
だ。
戦国の現実は重い。
だが――
育てれば、民は立ち上がる。
支えれば、民は味方になる。
守れば、民は共に戦う。
俺は静かに呟いた。
「三河は……必ず強くなる」




