第2話 父・今川義元
案内された部屋に入ると、そこには一人の男が座っていた。
立派な衣をまとい、静かにこちらを見つめている。
その姿を見た瞬間、俺は思わず息を止めた。
今川義元。
歴史の教科書に載っていた名前。
桶狭間で織田信長に討たれ、今川家の衰退を決定づけた人物。
それが今、俺の目の前にいる。
「氏真か」
「……はい」
声を聞いて、ようやく現実感が湧いてきた。
夢ではない。
本当に俺は、今川氏真になっている。
「先ほどから妙な顔をしているな。何かあったのか?」
「いえ……少し、考え事を」
「そうか」
義元はそれ以上追及しなかった。
俺は父親になった男を、改めて観察した。
威圧感がある。
ただ怖いというわけではない。こちらの様子をじっと見ているような、油断ならない目だった。
そして、思っていたよりもずっと落ち着いている。
俺の知っている歴史では、この人は桶狭間で死ぬ。
その事実を知っているだけに、目の前にいる義元を見ると妙な気分になった。
「氏真」
「はい」
「駿河の政について、最近どう考えている?」
「……政、ですか?」
「ああ」
突然の質問に、俺は言葉を失った。
氏真として生きていた頃なら、何か答えられたのかもしれない。
だが、今の俺は現代人だ。
戦国時代の政治について聞かれて、すぐに答えられるわけがない。
「まだ、十分に考えられていません」
正直に答えた。
すると義元は、わずかに目を細めた。
「珍しいな」
「珍しい?」
「お前は以前なら、分からぬことを分からぬとは言わなかった」
胸が跳ねた。
どうやら、俺が知っている今川氏真と、今の俺には微妙な違いがあるらしい。
当然だ。
中身が別人なのだから。
下手に取り繕えば、かえって怪しまれる。
「少し、考え方を変えたいと思っています」
「ほう」
義元が興味深そうにこちらを見る。
「何を変える?」
すぐには答えられなかった。
俺の頭の中には、これから起きることがいくつも浮かんでいる。
桶狭間。
武田信玄。
徳川家康。
そして、今川家の滅亡。
でも、いきなりそんな話をしたところで信じてもらえるはずがない。
「まずは、今川家のことをもっと知りたいと思っています」
「今川家を?」
「はい」
「具体的には?」
「兵の数や武具だけではありません。米がどれだけあるのか。領地からどれだけ年貢が入るのか。商人がどれだけいるのか。道や港はどうなっているのか。そういうことを知りたいです」
義元は黙って俺を見た。
何かまずいことを言っただろうか。
だが、やがて義元は小さく笑った。
「面白いことを言うようになったな」
「……そうでしょうか」
「武士が米や商いの話ばかりするのは、あまり好まれぬものだ」
「ですが、国を動かすには必要です」
口にしてから、自分でも驚いた。
国を動かす。
そんな言葉が自然に出てきた。
義元はしばらく考えるように黙っていた。
「氏真」
「はい」
「お前は、何を目指している?」
その問いに、俺は答えられなかった。
今川家を救いたい。
父を死なせたくない。
歴史を変えたい。
だが、それを今ここで言うわけにはいかない。
だから、俺は別の言葉を選んだ。
「今川家を、もっと強くしたいと思っています」
義元の目が鋭くなった。
「武力でか?」
「それだけではありません」
「では?」
「戦わなくても勝てる国にしたいです」
部屋が静かになった。
言ってしまった。
だが、撤回するつもりはなかった。
戦国時代だからこそ、戦だけで国を守ることはできない。
兵を増やすには米が必要だ。
米を作るには農民が必要だ。
商売をするにも道がいる。
人が動けば金が動く。
金があれば兵も雇える。
そして何より、国が豊かになれば、周囲の国から奪う必要もなくなる。
俺が知っている現代社会の仕組みを、そのまま持ち込めるわけではない。
それでも、考え方くらいは使える。
義元はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「好きに調べてみるがいい」
「え?」
「今川家の財政や領地のことを知りたいのであろう?」
「はい」
「必要な資料は用意させる」
思わず顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「自分の国を知りたいというのなら、止める理由はない」
そう言って、義元は部屋を出ていった。
一人残された俺は、しばらく動けなかった。
まさか、こんなに簡単に許可が出るとは思わなかった。
だが、喜んでばかりもいられない。
ここからが本当の始まりだ。
俺は歴史を知っている。
けれど、歴史の教科書には書かれていないことのほうが、きっと多い。
今川家には、どれだけの米があるのか。
どれだけの借金を抱えているのか。
どんな家臣がいるのか。
どこに問題があるのか。
それを知らなければ、何も変えられない。
「まずは、今川家の中身を全部調べるか」
俺はそう呟いた。
桶狭間まで、あとどれくらい時間が残されているのか。
それすら、まだ正確には分からない。
ならば急ぐしかない。
歴史を変えるための最初の一歩は、剣でも兵でもなかった。
自分の家が、今どんな状態なのかを知ることだった。




