第19話 戦国時代の現実
三河の道を直すための準備が進み始めたころ、俺は再び地図を広げていた。
昨日まで描いていたのは、俺が歩いた道だけだ。
だが、三河はもっと広い。
そして――もっと荒れている。
地図の西側に筆を置いたとき、案内役の家臣が静かに口を開いた。
「若殿……西三河のことを、お伝えしておかねばなりません」
「西三河?」
「はい。織田方が、たびたび攻め込んでおります」
その言葉に、俺は筆を止めた。
「どれほどの規模だ?」
「村が焼かれ、田畑が荒らされることもあります。商人は道を避け、荷車は戻らず……」
家臣は少し言葉を選んだ。
「……戦が通れば、土地は必ず荒れます」
その言葉は、妙に重かった。
俺は地図の西側を見た。
まだ描いていない空白の部分。
そこに、家臣が指を置いた。
「安祥、西尾、吉良……このあたりは織田の勢力が強うございます。松平家の家臣も割れており、守りきれておりませぬ」
「松平家が……割れている?」
「はい。広忠様の死後、家臣の中には織田へ通じる者もおります。岡崎は今川の庇護で保たれておりますが、西は……」
家臣は言葉を濁した。
だが、言わなくても分かった。
西三河は、戦の通り道だ。
戦が通れば、村は荒れる。
田畑は踏み荒らされる。
商人は荷を失い、道は壊れ、兵糧は届かない。
俺が昨日まで描いていた「三河の疲れ」は、ほんの一部にすぎなかった。
◆
「若殿」
別の家臣が地図を見ながら言った。
「三河を育てるというお考え……立派なことだと思います。しかし――」
「しかし?」
「戦が続けば、育てたものも壊れます」
その言葉は、胸に刺さった。
俺は道を直そうとしている。
村を支えようとしている。
商人が安心して商売できるようにしようとしている。
だが――
戦が通れば、全部壊れる。
昨日見た村の老人が言った言葉が頭に浮かんだ。
――戦があれば、また変わりますからな。
あれは、ただの愚痴ではなかった。
あれは、戦国の現実だった。
◆
「氏真様」
そのとき、竹千代が部屋に入ってきた。
「また三河の地図を描いているのですか?」
「ああ。だが……」
俺は地図の西側を指差した。
「ここは、まだ描けていない」
「西三河ですか?」
「そうだ。織田が攻めている場所だ」
竹千代は静かに地図を見つめた。
「父上が……守れなかった場所です」
その言葉は、あまりにも静かだった。
だが、その静けさが逆に重かった。
「氏真様」
「なんだ?」
「三河は……戦が来るたびに壊れます」
竹千代は地図の上に手を置いた。
「道も、村も、田畑も……守ろうとしても、戦が来れば壊れます」
俺は何も言えなかった。
六歳の少年が言った言葉とは思えなかった。
だが、それは三河の現実だった。
そして――戦国の現実だった。
◆
「氏真様は、三河を育てると言いました」
「ああ」
「でも……育てても、戦が来れば壊れます」
竹千代は俺を見た。
「では、どうすればいいのですか?」
その問いは、昨日までの俺なら答えられなかった。
だが、今は違う。
俺はゆっくり答えた。
「壊れるなら……また作ればいい」
竹千代が目を見開いた。
「壊れるたびに、また作る。戦が通っても、また直す。村が荒れても、また支える」
俺は地図の上に新しい線を引いた。
「戦が壊すなら、俺たちは育て続けるしかない」
竹千代はしばらく黙っていた。
そして――小さく頷いた。
「氏真様……それは、とても大変なことです」
「大変だろうな」
「でも……それができれば、三河は強くなりますか?」
「強くなる」
竹千代はゆっくりと笑った。
「では……氏真様。三河を強くしてください」
その言葉は、昨日よりもずっと強かった。
◆
竹千代が去ったあと、俺は地図を見つめた。
戦が荒らす。
戦が壊す。
戦が奪う。
それが戦国の現実だ。
だが――
壊れるなら、また作ればいい。
育てるなら、何度でも育てればいい。
それができる家なら、三河は今川を選ぶ。
そして――家康も、今川を選ぶ。
俺は筆を取り直し、地図の西側に新しい線を引いた。
それは、戦が荒らす土地に向けて伸びる線だった。
そして――未来へ伸びる線でもあった。




