第18話 道を直すということ
翌朝、まだ空が薄い青のままの時間に、俺は机の前に座っていた。
昨日、義元から正式に役目を与えられた。
――三河の道を整える案をまとめよ。
戦のためではなく、国のための道。
その言葉が、ずっと胸の奥に残っていた。
俺は紙を広げ、筆を取った。
昨日描いた三河の地図を横に置き、道の状態を一つずつ思い返す。
ぬかるんだ場所。
荷車が沈んだ場所。
商人が避けていた分岐点。
村人が「人手が足りない」と言っていた道。
それらを一つずつ書き込みながら、俺は考えた。
「どこから手をつけるべきか……」
全部を一度に直すことはできない。
人手も、時間も、金も限られている。
だからこそ、優先を決めなければならない。
俺は筆を止め、地図の上に手を置いた。
「まずは……ここだな」
三河へ向かう街道の中で、荷車が最も深く沈んでいた場所。
兵糧を運ぶ荷車が必ず通る道だ。
ここが遅れれば、兵糧も遅れる。
商人も避ける。
村も疲れる。
俺はその場所に印をつけた。
次に、商人が足を止めていた分岐点。
ここは道が細く、馬がすれ違うのも難しい。
荷車が通れば、さらに道が削れる。
ここにも印をつけた。
そして、村人が「人手が足りない」と言っていた道。
そこは村の入口で、荷車が通るたびに道が崩れていた。
ここにも印をつける。
紙の上に、三つの印が並んだ。
「まずは、この三つだ」
俺は深く息を吐いた。
道を直すというのは、ただ土を盛ればいいという話ではない。
人を集める。
道具を用意する。
村の負担を減らす。
商人の往来を確保する。
そして、兵糧が滞りなく届くようにする。
それは、戦の準備と同じくらい大切な仕事だ。
◆
「若殿、呼ばれましたか」
家臣が部屋に入ってきた。
「三河の道を直すための案をまとめた。見てくれ」
俺は紙を差し出した。
家臣は地図を見て、目を見開いた。
「……これは、道の修繕の順番ですか?」
「ああ。全部を一度に直すことはできない。だから、まずは三つに絞った」
家臣は紙をじっと見つめた。
「若殿……これは、戦のための道ではありませんな」
「そうだ。暮らしのための道だ」
家臣は静かに頷いた。
「では、まず人手を集める必要があります」
「村の負担を増やすわけにはいかない。駿河から人を出すことはできるか?」
「可能です。ただし、人数は限られます」
「それでいい。少しずつ進めればいい」
家臣は紙を持ったまま、俺を見た。
「若殿……このようなことを考える方だとは、誰も思っていなかったでしょうな」
「俺自身も思っていなかったよ」
そう言って笑った。
だが、胸の奥には確かなものがあった。
三河を育てる。
そのための最初の一歩が、この道だ。
◆
その日の午後、義元のもとへ向かった。
「氏真、案はできたか」
「はい」
俺は紙を差し出した。
義元はゆっくりと目を通す。
「三つに絞ったか」
「はい。全部を直すことはできません。まずは、兵糧と商人の往来に関わる場所からです」
義元は紙を置き、俺を見た。
「……よい」
その一言で、胸が熱くなった。
「人手は駿河から出す。三河の村の負担は減らせ」
「承知しました」
「それと――」
義元は少しだけ笑った。
「そなたの考えは、戦とは違う。だが、国を守るためには必要な考えだ」
昨日と同じ言葉だった。
だが、今日はその意味が少し違って聞こえた。
俺は深く頭を下げた。
◆
部屋を出ると、廊下の向こうに竹千代が立っていた。
「氏真様」
「どうした?」
「三河の道を……直すのですか?」
「ああ。まずは三つだ」
竹千代は少し考えるように目を伏せた。
「道が直れば、商人が来ますか?」
「来るだろうな」
「米も届きますか?」
「届くようになる」
竹千代はゆっくり顔を上げた。
「では……三河は、少し強くなりますか?」
「少しずつだが、強くなる」
竹千代は小さく頷いた。
「氏真様……ありがとうございます」
その言葉は、六歳の少年が言ったとは思えないほど重かった。
俺は竹千代を見た。
「三河を強くする。それは、三河の人たちが自分の暮らしを守れるようにすることだ」
竹千代は静かに頷いた。
「また、教えてください」
「ああ。いつでも来い」
竹千代が去っていく。
その背中を見ながら、俺は思った。
三河を育てること。
今川家を強くすること。
そして、この少年が「ここにいたい」と思える家を作ること。
その三つは、やはり全部つながっている。
俺は拳を軽く握った。
「次は、人だ」
道を直すための人手。
三河を支えるための人。
そして、未来を変えるための人。
そのすべてを動かすために、俺は歩き出した。




