第16話 三河の地図を描く
駿河へ戻った翌朝、俺は早く目が覚めた。
昨日見た三河の景色が、まだ頭の中に残っていた。
荒れた道。
疲れた村。
不安を抱えた商人。
そして、兵糧を積む場所で聞いた「これだけでは足りない」という言葉。
どれも帳面の数字では見えなかったものだ。
俺は机に向かい、紙を広げた。
筆を取る。
そして、昨日歩いた道を思い出しながら、ゆっくり線を引いた。
「若殿、何を……?」
部屋に入ってきた家臣が驚いたように声を上げた。
「地図を描いている」
「地図、でございますか?」
「ああ。三河の道を見てきた。どこが荒れていて、どこが人手不足で、どこが商人の往来が止まっているのか……全部まとめてみたい」
家臣はしばらく黙って俺の手元を見ていた。
俺は筆を進める。
昨日通った村。
荷車が沈んだぬかるみ。
商人が足を止めていた分岐点。
兵糧を積んでいた広場。
それらを一つずつ紙の上に置いていく。
「若殿……これは、軍の者が作るものでは?」
「軍の者が作る地図は、戦のためのものだろう」
俺は紙から目を離さずに答えた。
「これは、暮らしのための地図だ」
家臣は息を飲んだようだった。
俺は続けた。
「三河を守るには、まず三河がどうなっているのか知らなければならない。どこで米が止まり、どこで荷車が壊れ、どこで人が困っているのか……それを知らずに兵を動かしても意味がない」
筆を置く。
紙の上には、まだ粗いが、昨日歩いた三河の道が形になり始めていた。
「これを見れば、どこを直せばいいのか分かる。どこに人を送ればいいのかも分かる。兵糧を運ぶ道も、商人が通る道も、村の暮らしも……全部つながっている」
家臣は深く頭を下げた。
「若殿……このようなことを考える方だとは……」
「俺自身も、少し驚いているよ」
そう言って笑ったときだった。
「氏真様」
襖の向こうから声がした。
竹千代だった。
「入っていいぞ」
竹千代は静かに部屋へ入ってきた。
昨日より少しだけ表情が柔らかい。
「何をしているのですか?」
「三河の地図を描いている」
竹千代は紙の上をじっと見つめた。
「ここが……昨日、氏真様が行かれた村ですか?」
「そうだ」
「ここは……商人が困っていた場所ですか?」
「そうだ」
竹千代は紙に描かれた線を指でなぞった。
「三河は……こんなふうにつながっているのですね」
「つながっている。だから、どこか一つが壊れれば、全部が困る」
竹千代はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「氏真様は……三河を守るために、これを描いているのですか?」
「守るためでもあるし、育てるためでもある」
竹千代は俺を見た。
その目は、昨日よりもずっと強い光を宿していた。
「父上は……こういうことをしていたのでしょうか」
「広忠殿は、三河を守ろうとしていた。だが、守るだけでは足りなかったのかもしれない」
竹千代は小さく頷いた。
「氏真様」
「なんだ?」
「三河を……強くしてください」
その言葉は、六歳の少年が言ったとは思えないほど重かった。
俺は紙の上の地図を見た。
まだ粗い。
まだ足りない。
けれど、この地図は三河の未来を変えるための最初の一歩だ。
「分かった」
俺は竹千代を見た。
「三河を強くする。必ずだ」
竹千代は深く頭を下げた。
その姿を見ながら、俺は思った。
この少年が、いつか今川家を離れる未来を知っている。
だが――
もし三河を強くし、今川家を強くし、そしてこの少年が「ここにいたい」と思える家を作れたなら。
未来は変わる。
歴史は変わる。
俺は筆を取り直し、紙の上に新しい線を引いた。
それは、三河の道であり――
今川家の未来へ続く道でもあった。




