第15話 三河を自分の目で見る
「三河へ行きたい?」
義元は、少し意外そうに俺を見た。
「はい」
俺は父の前で頭を下げた。
「三河のことを考えるなら、記録だけでは分からないことがあると思います。実際に道を歩いて、村を見て、そこで暮らしている人たちの話を聞いてみたいのです」
これまで俺が見てきたのは、米の帳面や兵糧の記録だった。
数字を追えば、何が足りないのかは分かる。
けれど、その数字の向こう側にいる人たちが、どんな暮らしをしているのかまでは分からない。
義元はしばらく黙っていた。
「三河は今、落ち着いておらぬ」
「承知しています」
「それでも行くか」
「はい」
義元は俺を見たあと、小さく息を吐いた。
「分かった。ただし、大勢を連れていく必要はない。目立つような真似もするな」
「ありがとうございます」
こうして俺は、数人の家臣とともに三河へ向かうことになった。
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駿河を出てしばらくすると、道の様子が変わってきた。
街道と呼ばれる道ではあるが、場所によっては地面が深くえぐれている。
雨が降ったあとらしく、ぬかるんでいるところもあった。
荷車が通った跡が残っているものの、車輪が深く沈んでいる。
「この道は、いつからこの状態なのですか?」
俺が尋ねると、案内役の家臣が答えた。
「ここ数年、十分な修繕ができておりませぬ」
「人手が足りない?」
「それもありますが、村ごとに負担が違います。街道に近い村ほど人足を出すことが多くなりますので」
俺は道を見ながら考えた。
道が悪ければ荷車が遅れる。
荷車が遅れれば、米が届かない。
修理も増える。
人手も必要になる。
帳面の中では、それぞれ別の問題に見える。
けれど、実際には全部つながっている。
少し進んだところで、小さな村を通った。
田畑には人の姿がある。
しかし、活気があるとは言い難かった。
畑を耕している男も、こちらを見ようとはしない。
家の前に立っていた老人に、俺は声をかけた。
「この辺りでは、米は足りていますか?」
老人は一瞬、警戒するように俺を見た。
「今年は、何とか」
「何とか、というのは?」
「戦があれば、また変わりますからな」
それだけ言うと、老人は視線を落とした。
俺はそれ以上、聞けなかった。
村を出てしばらくすると、今度は商人たちが集まっている場所に出た。
荷を積んだ馬が何頭か並んでいる。
商人の一人に話を聞くと、思った以上に不安を抱えていることが分かった。
「道中で兵に出会えば、何かと面倒になります」
「織田の兵ですか?」
「どこの兵かは関係ありません。荷を止められれば商売になりませんから」
商人は苦笑した。
「三河は、今どうなるか分からない。それが一番困るのです」
その言葉が妙に印象に残った。
三河の人たちにとって、今川は遠い。
織田も遠い。
どちらが勝つのかという話より、自分たちの暮らしがどうなるのかのほうが大切なのだ。
さらに進んだところで、兵糧を集めている場所を見せてもらった。
積まれている米は、決して少なくない。
それでも、十分とは言えなかった。
「三河の兵を動かすとなると、これだけでは足りません」
担当の者が説明する。
「遠くから運ぶとなれば、さらに人手と荷車が必要になります」
俺は積まれた米を見た。
駿河から送ればいい。
そう考えるのは簡単だ。
だが、運ぶためには道が必要になる。
荷車がいる。
馬がいる。
人がいる。
そして、その人たちにも食事が必要だ。
戦をする前から、これだけの負担が生まれる。
俺は以前、駿河で米の記録を見ていた。
数字だけを追っていたときには気づかなかったことが、今なら少し分かる。
三河では、米が足りないだけではない。
道も、人も、商売も、暮らしも疲れている。
そして、その状態を支える側の今川家は、三河から見れば遠い存在なのだ。
帰り道、俺はずっと考えていた。
今川家は三河を支配しようとしている。
それは間違いではない。
けれど、支配するだけで、この土地は本当に安定するのだろうか。
俺には、そう思えなくなっていた。
「氏真様」
隣を馬で進んでいた家臣が声をかけてきた。
「何か気になることでも?」
「はい」
俺は三河の村を振り返った。
「今川家は、もっと三河の人たちに近づかなければならないと思います」
「近づく、ですか?」
「はい。兵を置いて、命令を出すだけではなくて」
俺は少し考えてから続けた。
「困ったときに頼られる存在になる必要があります」
それは、俺自身にも言い聞かせるような言葉だった。
支配する。
守る。
それだけでは足りない。
必要とされる存在になる。
そのためには、道を直すことも、米を届けることも、商人が安心して商売できるようにすることも必要だ。
そして、その先にあるのは、三河そのものを育てることなのだろう。
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駿河へ戻ると、俺は竹千代を呼んでもらった。
少しして、竹千代がやってくる。
「氏真様、お呼びでしょうか」
「ああ。少し話したいことがある」
竹千代は俺の前に座った。
まだ六歳の少年だ。
けれど、その目には年齢以上のものを感じることがある。
俺は三河で見てきたものを、少しずつ話した。
荒れた道。
疲れた村。
不安を抱える商人。
足りない兵糧。
竹千代は黙って聞いていた。
そして、しばらくしてから尋ねた。
「父上は、三河を守れなかったのでしょうか」
俺はすぐには答えられなかった。
竹千代の父、松平広忠はもういない。
六歳の少年にとって、父親を失ったことがどれほど大きなことなのか、俺には想像することしかできない。
「どうして、そう思う?」
「父上は三河を守ろうとしていたと聞きました。でも、守れませんでした」
竹千代は俯いた。
「では、どうすれば三河を守れるのでしょうか」
俺は少し考えた。
そして、ゆっくり答えた。
「守るだけでは、足りないと思う」
竹千代が顔を上げる。
「では、何をすればいいのですか?」
「育てるんだ」
自分でも、少し意外な言葉だった。
けれど、今はそれが一番しっくりきた。
「道を直す。田畑を増やす。商人が安心して商売できるようにする。村の人たちが、明日の暮らしを心配しなくていいようにする」
俺は竹千代を見た。
「そうやって、少しずつ強くしていくんだ。国というものは、城や兵だけで強くなるわけじゃない」
竹千代は何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見ている。
「三河を守るというのは、三河の人たちが自分たちの暮らしを守れるようにすることでもあると思う」
しばらくして、竹千代が尋ねた。
「氏真様は、三河を育てるのですか?」
「俺一人ではできないよ」
俺は笑った。
「父上や家臣たちと相談して、少しずつやっていくしかない」
竹千代は小さく頷いた。
「分かりました」
そう言ってから、もう一度俺を見る。
「もっと、氏真様のお話を聞きたいです」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「俺の話を?」
「はい」
竹千代はまっすぐ俺を見ていた。
「三河のことを、もっと知りたいです」
俺は頷いた。
「分かった。また話そう」
竹千代が帰っていく。
その小さな背中を見送りながら、俺は思った。
史実では、この少年はいつか今川家を離れる。
けれど、その未来を知っている俺が、今ここにいる。
ならば、変えられるものもあるのかもしれない。
三河を変えること。
今川家を変えること。
そして、この少年との関係を変えること。
その三つは、もしかすると全部つながっているのかもしれなかった。




