第14話 三河をどうするのか
竹千代と別れたあとも、俺はしばらくその場を離れることができなかった。
六歳の少年。
まだ幼い。
けれど、俺は知っている。
この少年が、やがて徳川家康と名乗ることを。
そして史実では、その家康は今川家の庇護を受けながら成長し、やがて今川家から離れていく。
俺が知っている歴史では、それは避けられない流れのように見えていた。
だが、本当にそうなのだろうか。
「氏真様」
後ろから声をかけられて振り返る。
先ほどまで一緒にいた家臣だった。
「父上がお呼びですか?」
「はい。先ほど三河から新しい報せが届きました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し重くなった。
三河。
今まで俺は、米や荷の流れを調べる中で三河を見ていた。
けれど、これからはそうはいかない。
三河そのものが、今川家にとって重要な場所になる。
俺は家臣とともに義元のもとへ向かった。
部屋に入ると、すでに何人かの重臣が集まっていた。
義元は手元の書状から顔を上げる。
「氏真、来たか」
「はい」
「三河のことで話がある」
俺は父の前に座った。
義元の表情は、いつもより少し厳しい。
「松平広忠が亡くなった」
その言葉に、俺は息を止めそうになった。
知っていた。
史実としては知っている。
だが、実際に父の口から聞くと、その重みはまるで違った。
松平広忠。
竹千代の父親だ。
「岡崎は、これからどうなるのでしょうか」
俺が尋ねると、義元はすぐには答えなかった。
「それを考えている」
重臣の一人が口を開く。
「松平家の内情は安定しておりませぬ。織田も三河への影響を強めております」
「安祥城も織田の手にある」
別の家臣が続ける。
「このまま放置すれば、岡崎まで織田に圧迫されることになるでしょう」
俺は黙って聞いていた。
安祥城。
織田信広。
松平家。
今川家。
頭の中に、これから起こる出来事が浮かんでくる。
史実では、このあと今川家は三河への軍事的な関与を強める。
そして安祥城をめぐる戦いが起こる。
その結果、織田信広が捕らえられ、竹千代との交換につながる。
俺はちらりと義元を見る。
「父上は、三河をどうされるおつもりですか?」
義元は俺を見た。
「どうする、とは?」
「松平家を支えるのか。それとも、今川家が直接三河を治めるのか」
部屋の空気が少し変わった。
重臣たちがこちらを見る。
俺は続けた。
「三河を取ることだけを考えるなら、兵を出して城を押さえればいいと思います。でも、それだけでは長く続かないのではありませんか」
義元は黙っている。
俺は言葉を選んだ。
「三河の人たちが、今川に従うことで何が変わるのか。それを示せなければ、兵を引いたあとにまた争いになります」
「では、何を示す?」
「まずは、暮らしです」
俺は答えた。
「米が届く。道が整う。商人が安心して商売できる。争いが起きても、家族を守れる。そういうものがあれば、今川の支配を受け入れる理由になります」
重臣の一人が少し困ったような顔をした。
「氏真様。三河は戦の最中です。道や米の話だけで収まるとは思えませぬ」
「分かっています」
俺もすぐに答えた。
「だからこそ、戦うことだけを考えるのは違うと思うんです」
義元が静かに口を開いた。
「氏真」
「はい」
「そなたは、三河をどうしたい?」
思わず言葉に詰まった。
どうしたい。
その問いを、俺はまだ考えたことがなかった。
歴史を知っているから、今川家を滅ぼしたくない。
桶狭間で父が死ぬことも、その後に今川家が崩れていくことも知っている。
だから、何とかしたいと思っている。
だが、そのためには何を変えればいいのか。
俺は少し考えてから答えた。
「今川家が、三河の人たちにとって必要な家になればいいと思います」
義元の目が細くなる。
「必要な家、か」
「はい」
俺は続けた。
「兵を出して守るだけではなく、守ったあとに何をするのか。それを考えるべきだと思います」
しばらく沈黙が続いた。
やがて義元は書状に目を落とした。
「面白いことを言うようになったな」
「まだ、考えているだけです」
「それでよい」
義元はそう言ってから、重臣たちに視線を向けた。
「三河については、軍勢の準備を進めよ。ただし、兵を出すことだけを目的とするな。現地の様子を調べ、道、米、城、村の状況も報告させる」
「承知しました」
俺はその言葉を聞きながら、少し驚いていた。
父は俺の意見をそのまま採用したわけではない。
けれど、考える材料として受け取ってくれた。
それだけでも十分だった。
評定が終わり、部屋を出ようとしたところで、義元に呼び止められた。
「氏真」
「はい」
「竹千代のことだが」
俺は足を止めた。
「松平家の跡継ぎとして、今後の扱いを考えねばならぬ」
やはり、その話だった。
俺は黙って父を見る。
「まだ幼い。だが、松平家にとっては重要な存在だ」
「はい」
「そなたも、あの子と話しておけ」
「分かりました」
部屋を出たあと、俺は廊下を歩きながら考えた。
史実では、竹千代は今川家の人質になる。
そして長い時間を今川のもとで過ごす。
けれど、俺が知っている歴史では、その先に別の道がある。
竹千代が今川家を離れ、徳川家康として独立する未来だ。
ならば。
俺にできることは、戦をなくすことだけではない。
この少年が成長したとき、
「今川家を離れなければならない」
と思わないような関係を作ることもできるのではないか。
それはまだ、遠い先の話だ。
だが、歴史を変えるというのなら、こういうところから始まるのかもしれない。
俺は廊下の先に見える庭を眺めた。
今日会ったばかりの六歳の少年。
その少年との関係が、この先の今川家を変えることになるかもしれない。
そう思うと、これまで見ていた三河の景色が、少し違って見えた。




