第13話 竹千代との出会い
三河から戻った兵たちが駿府へ入ってきたのは、それから数日後のことだった。
大きな戦にはならなかったらしい。
織田方との間でいくつか小さな衝突はあったものの、双方が大軍をぶつけ合うような戦には至らなかったと聞いている。
俺としては、それを聞いて少し安心した。
父上も無事。
兵の損耗も大きくない。
兵糧も、予定していたほどは消費しなかった。
最初に聞いたときは、そう思った。
ところが、実際に兵糧の記録を見せてもらうと、俺は少し考え込んでしまった。
「これだけ、か?」
「はい」
目の前に置かれた帳面には、三河へ送った兵糧と、戻ってきた兵糧について記されている。
五百俵近い米を動かした。
実際に消費されたのは、その一部にすぎない。
それでも、運搬に使った荷車。
馬。
人足。
道中の宿。
途中で必要になった縄や車輪の修理。
さらに、兵が動けばその分だけ人手も必要になる。
「戦そのものは、大したことがなかったんですけどね」
記録をまとめていた家臣が言った。
「それでも、これだけかかります」
「そういうことか……」
俺は帳面を閉じた。
戦というと、どうしても敵と味方がぶつかる場面を想像してしまう。
けれど、実際にはその前後に、これだけ多くの人間が動いている。
兵が一日動けば、その一日分の食料が必要になる。
荷車を使えば、車輪も傷む。
馬を使えば、飼料がいる。
人間が動けば、その人間にも食事が必要になる。
戦が終わったからといって、すべてが元に戻るわけではない。
「……戦は、安くないな」
思わず口から出た。
「はい?」
「いや、何でもない」
俺はもう一度、帳面を見た。
今回の戦で大きな被害は出なかった。
それでも、今川家は確実に金と米と人手を使った。
もし、これが大きな戦になったら。
もし、何度も戦が続いたら。
その負担はどれほどになるのだろう。
そして俺は、ふと父上のことを思った。
義元は、この規模の軍を動かしている。
俺が想像していたよりも、今川家というものはずっと大きかった。
◆
その日の午後、俺は城内を歩いていた。
兵糧の記録を見たあとだったからか、いつも見慣れている風景まで違って見える。
行き交う家臣。
荷物を運ぶ人足。
馬の世話をする者。
それぞれが自分の仕事をしている。
俺はその中を歩きながら、ふと一人の少年がこちらへ近づいてくることに気づいた。
年は俺よりかなり下だ。
着物も簡素で、まだ少年らしさが残っている。
だが、姿勢は妙に落ち着いていた。
俺の前まで来ると、少年は頭を下げた。
「氏真様」
「君は……」
「竹千代にございます」
その名前を聞いて、俺は一瞬言葉を失った。
竹千代。
後の徳川家康。
歴史の教科書で何度も見た名前だった。
もちろん、今の彼はまだ家康ではない。
ただの少年だ。
俺が知っている未来からすれば、あまりにも小さな存在に見える。
「どうしたんだ?」
「先ほど、兵糧の蔵の前におられましたので」
「見ていたのか?」
「はい」
竹千代は素直に答えた。
「何をしているのかと思いまして」
「兵糧を見ていた」
「戦のための米ですか?」
「ああ」
竹千代は少し考えるような顔をした。
「戦が終わったのに、まだ調べているのですか?」
「戦が終わったからこそ、分かることもあるからな」
「分かること?」
「どれだけ米を使ったのか。どれだけ人が動いたのか。どこに無駄があったのか」
話しながら、俺は少し驚いた。
こんなことを少年相手に話している。
以前の俺なら、もっと違う話をしていたのかもしれない。
「氏真様は、最近ずいぶん変わられましたな」
竹千代が突然そんなことを言った。
「……そうか?」
「はい」
少年はうなずいた。
「以前は蹴鞠や和歌のお話をされていることが多かったように思います」
「よく知っているな」
「駿府では皆が知っています」
そう言って、竹千代は少し笑った。
「ですが、最近は米や道のお話ばかりです」
「そう言われると、確かにそうかもしれないな」
俺も笑った。
「君は、そういう話が嫌いか?」
「いいえ」
竹千代は首を横に振った。
「面白いと思います」
「面白い?」
「はい。戦をするにも、米が必要なのですよね」
「そうだ」
「では、米をどうするか考えることも、戦をすることと同じくらい大切なのではありませんか?」
俺は少し驚いた。
そんなことを、こんな少年が考えるのか。
「……その通りだと思う」
俺が答えると、竹千代は嬉しそうに笑った。
「では、またお話を聞かせてください」
「ああ。俺でよければな」
「ありがとうございます」
竹千代は一礼すると、そのまま去っていった。
俺はその後ろ姿をしばらく見送った。
あれが、後の徳川家康。
俺が知っている歴史では、いずれ今川家から離れ、独立することになる男だ。
そして、今川家にとっては大きな脅威になる。
けれど、今はまだ違う。
彼は俺の前で頭を下げ、俺の話を聞きたいと言った。
俺は、ふと考えた。
歴史では、家康は今川家から離れていく。
それは本当に変えられないことなのだろうか。
もし俺が今までとは違う今川家を作ることができたら。
もし、この少年が「今川家の下にいることに意味がある」と思えるような家を作ることができたら。
未来は変わるのではないか。
もちろん、そんな簡単な話ではない。
人の気持ちも、家同士の関係も、そう簡単には変わらない。
それでも、今まで考えたことのなかった可能性が、初めて目の前に浮かんだ。
俺は廊下の先を見た。
竹千代の姿は、もう見えなくなっている。
歴史を変えるというのは、戦で誰かを倒すことだけではないのかもしれない。
こうして人と話し、その人がこの先どう生きるのかを変えることも、歴史を変えることにつながる。
そんなことを考えながら、俺は自分の部屋へ戻った。




