第12話 動き始めた兵糧
翌朝、俺はまだ日が昇りきらないうちに城を出た。
昨日、父上から言われた兵糧の準備を見るためだ。
「こちらです、若殿」
案内役の家臣についていくと、城下の一角に設けられた米蔵が見えてきた。
普段から米を扱っている場所なのだろう。
だが、昨日とは明らかに様子が違った。
朝早いというのに、人が多い。
米俵を運ぶ男。
荷車を準備する男。
馬の様子を確かめる者。
倉の中から次々と俵が運び出されている。
「ずいぶん早いですね」
「三河へ送る準備ですから」
家臣が答える。
「何俵ほどになります?」
「まずは五百俵ほどを予定しています」
「五百……」
思わず数字を繰り返した。
五百俵。
これまで俺が帳面で見ていた数字とは桁が違う。
「これは一度に運ぶんですか?」
「まさか。何度かに分けます」
そう言いながら、家臣は荷車の列を指差した。
「一台に積める量にも限りがあります。それに、途中で別の荷を運ぶ必要もありますから」
俺は荷車を見た。
思ったより小さい。
一台に載せられる量にも限界がある。
五百俵を運ぶとなれば、相当な数の荷車が必要になる。
「何台くらい必要なんです?」
「正確な数は、これから決めます」
「まだ決まっていない?」
「道の状態や、途中の宿場で何を受け取るかによっても変わりますから」
なるほど。
帳面の上なら、五百俵を三河へ送る、と書けば終わる。
しかし、実際にはそう簡単ではない。
荷車がいる。
馬がいる。
それを扱う人間もいる。
さらに、途中で休ませる場所も必要になる。
俺はしばらく黙って作業を眺めていた。
そのとき、一人の男が走ってきた。
「若殿!」
俺のところへ来ると、深く頭を下げる。
「どうした?」
「二台目の荷車ですが、車輪の具合が悪いようです」
「修理できるのか?」
「すぐには難しいかと」
俺は思わず荷車へ目を向けた。
まだ出発すらしていない。
それでも、すでに予定どおりには進んでいない。
「別の荷車は?」
「今、探しています」
「分かった。見つかったら荷を移してくれ」
男が頭を下げて戻っていく。
俺はその背中を見ながら、昨日のことを思い出していた。
川沿いで壊れた荷車。
途中で移された米。
記録に残らなかった二俵。
あのときは七俵の話だった。
だが、戦の準備となれば、同じことが何十回、何百回と起きるかもしれない。
「若殿」
隣の家臣が声をかけてきた。
「何か?」
「難しい顔をされていますが、問題がありますか?」
「いや……」
俺は倉から運び出される米を見た。
「これだけの米を動かすのが、どれだけ大変なのかと思って」
「兵を動かすとなれば、これくらいは必要になります」
「そうなんですね」
「今川家が大きくなればなるほど、必要なものも増えます」
その言葉を聞いて、俺は周囲を見回した。
目の前には、何十人もの人間がいる。
その向こうにも、別の仕事をしている人間がいる。
さらに遠くでは、農民が米を作っている。
その米が集められ、蔵へ運ばれ、今度は兵糧として三河へ向かう。
今川家というものが、急に大きな組織として見えてきた。
俺はその中の一人にすぎない。
しかも、跡継ぎという立場にいるだけで、すべてを知っているわけではない。
昨日までなら、米をどう運ぶかを考えればいいと思っていた。
でも、それだけでは足りない。
「この米は、どこを通って三河へ行くんですか?」
「遠江を抜けて向かいます」
「道は大丈夫ですか?」
「今のところは」
「今のところ?」
家臣が苦笑した。
「雨が降れば変わります。川の水が増えれば、また別の道を使うこともあります」
俺は黙ってうなずいた。
なるほど。
戦というのは、戦場だけで起きるものではないらしい。
そのずっと手前から始まっている。
米を集めるところから。
荷車を用意するところから。
道を確保するところから。
そして、そのすべてが上手く繋がって、ようやく兵が動ける。
◆
昼前になると、最初の荷車が出発した。
米俵を積んだ荷車が、一台、また一台と城下を離れていく。
俺はそれを見送った。
「若殿、戻られますか?」
「もう少し見ていきます」
俺は答えた。
すると、少し離れたところで別の荷車が止まった。
「どうした?」
「縄が切れました!」
またか。
俺は思わず苦笑した。
出発したばかりなのに、もう一つ問題が起きている。
周囲の男たちが慌てて荷を押さえ、縄を結び直している。
誰かが怒鳴る。
誰かが別の縄を探す。
別の者が荷車を支える。
その様子を見ながら、俺は思った。
帳面には、こういうことはほとんど残らない。
出発した。
何俵運んだ。
どこへ届けた。
数字だけなら、それで終わる。
けれど、その数字の間には、これだけ多くの人間が動いている。
そして戦になれば、その一つ一つの遅れが積み重なっていく。
俺は、今までとは違う意味で米を見るようになっていた。
「若殿」
案内役の家臣が声をかけてくる。
「はい」
「そろそろ城へ戻りましょう」
「そうですね」
俺は最後に、三河へ向かう荷車を見た。
小さな荷車だった。
けれど、その荷車の上には、兵の命を支える米が積まれている。
そして、この荷車が向かう先では、織田と今川が争っている。
まだ大きな戦が始まったわけではない。
それでも、歴史は少しずつ動き始めている。
俺はそのことを、初めて実感していた。




