第11話 三河から届いた報せ
その日の夕方、俺が帳面を整理していると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
普段の駿府城なら、この時間には仕事を終えた家臣たちがそれぞれの持ち場へ戻り始めている。急いでいる様子の足音が響くことは珍しい。
「若殿、失礼いたします」
襖の向こうから声がした。
「入ってくれ」
入ってきたのは、評定で何度か顔を合わせた家臣だった。いつもより表情が硬い。
「義元様がお呼びです。三河から急ぎの報せが届いたそうです」
「三河から?」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまで見ていた帳面のことが頭から離れた。
俺は立ち上がり、家臣の後について父のもとへ向かった。
義元の部屋には、すでに数人の重臣が集まっていた。
いつもの評定とは様子が違う。
誰も余計なことを話さず、部屋の中央に置かれた一通の書状を見ている。
「来たか、氏真」
「はい。三河から報せがあったと聞きました」
「そうだ」
義元は書状を手に取った。
「織田方が三河方面で動きを見せている。まだ大きな戦になったわけではないが、国境付近の緊張が高まっているようだ」
織田。
その名前を聞いて、俺は無意識に背筋を伸ばした。
俺が知っている歴史では、この先、織田と今川の争いはさらに激しくなる。
そして、その先に桶狭間がある。
もちろん、今の俺がそれを口にすることはできない。
「今川方はどうするのですか?」
「備えを進める」
義元が答えると、隣に座っていた重臣が口を開いた。
「すでに三河へ向かう兵の準備を始めております。兵の動員についても各所へ知らせを出しました」
「兵糧は?」
「それも手配を進めております」
兵糧。
その言葉を聞いたとき、俺はふと、このところ調べていた帳面を思い出した。
米が何俵届いたのか。
途中で荷車を替えたのか。
川を渡るのに時間がかかったのか。
今までなら、それは単なる荷物の記録にしか見えなかった。
けれど、戦となれば話は違う。
兵が動く。
兵が動けば、食料も武具も必要になる。
それらを運ぶ荷車も必要になる。
もし途中で荷車が壊れれば、荷物を別の荷車へ移さなければならない。道が悪ければ予定より遅れる。川の水が増えれば、渡ることさえできなくなる。
俺が調べていたことは、思っていた以上に戦と繋がっていた。
「氏真」
義元の声で我に返った。
「何か考えているのか?」
「はい。兵糧について、少し気になっています」
「兵糧が?」
「先日、遠江から届いた記録を調べました。荷物は途中で移し替えられることがありますし、予定どおりに届かないこともあります」
「それは以前、お前が調べていた件か」
「はい」
義元は黙って俺を見ている。
「戦になれば、普段より多くの米を運ぶことになりますよね」
「そうなる」
「でしたら、一度、実際の準備を見せてもらえないでしょうか」
重臣の一人がこちらを見る。
「若殿が兵糧の準備を?」
「はい。今まで見てきたのは、平時の荷の動きです。戦のために大量の兵糧を動かすとなれば、同じようにはいかないと思います」
義元は少し考えてから、うなずいた。
「よいだろう」
「ありがとうございます」
「ただし、軍の指揮をする必要はない。まずは兵糧がどこから集められ、どこへ運ばれるのかを見てみろ」
「分かりました」
「現場を知らずに口を出すな。お前が以前、米のことで言っていたことだ」
思わず苦笑した。
「覚えておられましたか」
「忘れるものか」
義元もわずかに笑った。
「七俵の話から始まって、今度は戦の兵糧か。ずいぶん米に詳しくなったものだな」
「俺自身も、こんなことを調べるようになるとは思っていませんでした」
「以前のお前なら、そうだったかもしれぬな」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
周囲の人間から見れば、俺は最近になって急に内政へ興味を持ち始めたように見えるのだろう。
以前の氏真なら、蹴鞠や和歌に夢中になっていた。
そんな男が、今では米の帳面を眺め、荷車の話を聞き、兵糧の心配までしている。
自分でも不思議なくらいだった。
「明日、兵糧の準備を見に行きます」
「そうしろ」
義元はそれだけ言うと、再び三河からの書状へ目を落とした。
俺も一礼して部屋を出た。
◆
城の外へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
駿府の町はいつもと変わらない。
店先には商品が並び、人々が行き交っている。
少し離れたところでは、荷車を引く馬の蹄の音が聞こえる。
けれど、俺の目にはさっきまでと違って見えた。
あの荷車も、戦になれば兵糧を運ぶことになるかもしれない。
あの米も、誰かの腹を満たすためだけではなく、三河へ向かう兵を支えることになるかもしれない。
そう考えると、これまで見てきた小さな問題も、少し違った意味を持ってくる。
七俵の米が記録から消えていた。
荷車が一台余計に必要になった。
予定より一日遅れて米が届いた。
平時なら、その程度のことだと思う人もいるだろう。
しかし、戦の最中ならどうだろう。
一日遅れた兵糧が、兵たちにとってどれほど大きな違いになるのか。
俺にはまだ分からない。
戦場を見たことなどないのだから、当然だ。
だからこそ、明日は実際に見てみようと思った。
三河では、織田方が動いている。
今川家も、それに備えて兵を動かそうとしている。
そして俺は、その今川家の跡継ぎだ。
これまで俺は、歴史を変えるために何をすればいいのか分からなかった。
けれど、少なくとも一つだけ分かったことがある。
今川家がこの先も生き残るためには、戦だけではなく、その戦を支えるものまで知らなければならない。
俺は城を振り返った。
明日から、今までとは少し違うものを見ることになりそうだった。




