第九話 冬月朔の正体
世界終了まで、残り三日。
黒く染まった空を見上げながら、冬月朔は校舎の屋上に立っていた。
フェンス越しに見える街は静かだった。
だが、その静けさは不自然だった。
信号は止まり、遠くのビル群では何棟かの窓明かりが消えている。空気そのものが重く、世界が少しずつ息を引き取っているように感じられた。
普通の人間には見えない。
けれど朔には見えていた。
【世界終了まで 残り三日】
巨大な文字が空に浮かんでいる。
まるで神が宣告した死刑執行の日付のように。
その下には、さらに残酷な文字。
【世界】
【星乃紬】
【どちらか一つを選択してください】
朔は拳を握り締めた。
爪が食い込むほど強く。
そんな選択を認めるつもりはなかった。
世界か。
星乃か。
どちらかしか救えないなど、誰が決めた。
「絶対に違う」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
「百二十七回も繰り返したんだ」
ここまで来て諦めるつもりはない。
隣に立つ星乃が、そっとこちらを見る。
風に揺れる長い黒髪。
少し前までクラスで誰とも話さなかった少女。
だが今の朔は知っている。
彼女がどれほどの孤独を抱えてきたのか。
百二十七回。
百二十七回もの世界の終わりを、一人で覚え続けてきたことを。
「星乃」
朔は静かに呼んだ。
「ひとつ聞いていいか」
「……うん」
「お前は最初から知ってたんだろ」
星乃は答えない。
その沈黙が答えだった。
「俺が管理者だってことも」
風が吹く。
長い沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。
「知ってた」
予想していたはずなのに。
胸が少しだけ痛んだ。
「どうして言わなかった」
「言ったこともあったから」
その言葉に、朔は眉をひそめる。
「言ったことも?」
「うん」
星乃は寂しそうに笑った。
「二十一回目も」
「五十三回目も」
「百回目も」
そこで言葉を切る。
「でも全部駄目だった」
夕暮れの風が二人の間を吹き抜ける。
「思い出した瞬間、あなたは全部一人で背負おうとした」
「世界を救うのは自分の責任だって」
「私なんかより世界を優先しようとした」
星乃の声は震えていた。
「だから今回は黙ってた」
その言葉に朔は何も返せなかった。
確かにそうするかもしれない。
誰か一人と世界を天秤にかけるなら。
自分なら世界を選ぶ。
以前の自分も、きっと同じだったのだろう。
「でもな」
朔は空を見上げた。
「今は違う」
星乃が顔を上げる。
「お前を見捨てて世界を救っても意味がない」
百二十七回の記憶。
文化祭。
卒業式。
放課後の教室。
雪の日の帰り道。
思い出の断片が脳裏をよぎる。
どの世界でも、そこには星乃がいた。
笑っていた。
泣いていた。
隣にいた。
そして最後には必ず消えた。
もうたくさんだった。
同じ結末は。
同じ別れは。
「今度は両方救う」
朔は言った。
「世界も」
「お前も」
その言葉を聞いた瞬間、星乃の瞳が大きく揺れた。
まるで信じられないものを見るように。
「無理だよ」
かすれた声だった。
「百二十七回失敗したんだよ」
「百二十八回目だけ成功する保証なんてない」
「あるさ」
朔は笑った。
「今までと違うことがひとつだけある」
「……何?」
「俺が全部思い出した」
その瞬間だった。
世界が揺れた。
ゴォン、と巨大な鐘を鳴らしたような音が響く。
空に浮かぶ文字が一斉に崩れ始めた。
【観測者覚醒確認】
【管理者権限復元開始】
【記憶同期率 97%】
頭痛が走る。
膝が折れそうになる。
だが今回は耐えた。
逃げなかった。
むしろ目を閉じて、その記憶を受け入れる。
すると見えた。
白い部屋。
巨大なモニター。
何千枚もの画面。
そこに映る無数の世界。
その中央に、一人の青年が立っている。
白衣姿の青年。
少し年上の自分だった。
青年は疲れ切った顔でモニターを見つめている。
その画面には、病院のベッドで眠る一人の少女が映っていた。
星乃紬。
今と同じ顔。
今と同じ優しい瞳。
そして青年は震える声で言った。
『絶対に助ける』
誰に向けた言葉でもない。
自分自身への誓い。
『世界が何回終わっても』
『必ず助ける』
そこで記憶は途切れた。
朔はゆっくり目を開く。
涙が流れていた。
理由は分からない。
ただ胸が苦しかった。
ようやく理解したからだ。
世界脚本計画は、人類を救うために始まった。
それは間違いない。
だが、その最初の願いはもっと個人的なものだった。
たった一人。
どうしても失いたくない少女を救うこと。
それが始まりだったのだ。
そして今、その願いの結末が目の前まで迫っていた。
空に新たな文字が浮かび上がる。
【最終話へのアクセスを許可します】
世界が静かに震えた。
百二十八回目の最終話が、始まろうとしていた。
空に浮かぶ文字を見上げながら、朔はゆっくりと息を吐いた。
【最終話へのアクセスを許可します】
その一文は、まるで長い旅路の終着点を示しているようだった。
百二十七回。
数え切れないほどの失敗。
数え切れないほどの別れ。
そして今。
ようやく最終話へ辿り着いた。
だが、朔にはまだ分からないことがあった。
隣に立つ星乃を見る。
彼女は空を見上げたまま、どこか諦めたような表情を浮かべていた。
その顔を見た瞬間、胸騒ぎがした。
「星乃」
呼びかける。
彼女は小さく振り返った。
「まだ隠してることがあるだろ」
風が吹く。
黒髪が揺れる。
そして星乃は静かに目を伏せた。
その仕草だけで分かった。
あるのだ。
まだ。
言っていないことが。
「……どうしてそう思うの?」
「分かる」
朔は苦笑した。
「百二十七回分の記憶を思い出したわけじゃない。でも」
胸に手を当てる。
「お前が今、泣きそうな顔をしてることくらい分かる」
星乃の肩が小さく震えた。
やがて彼女は観念したように微笑む。
その笑顔はあまりにも儚かった。
「ずるいな」
小さな声だった。
「最後だけ思い出して」
「最後?」
「うん」
星乃は頷く。
そして。
とうとう口を開いた。
「私ね」
少しだけ空を見上げる。
「本当は、この世界の人間じゃないの」
朔は息を呑んだ。
予想していなかった。
いや。
予想したくなかった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
彼女は静かに笑う。
「私はシミュレーション世界の住人じゃない」
その言葉と同時に。
朔の頭の中で何かが繋がった。
病室。
白い天井。
無数の医療機器。
眠る少女。
星乃紬。
現実世界の彼女。
「まさか……」
「うん」
星乃は頷いた。
「私は本物の星乃紬」
世界が止まったような気がした。
「そんなこと……」
「できるんだよ」
彼女は笑う。
「管理者権限なら」
管理者。
その言葉で全てが繋がる。
世界脚本計画。
シミュレーション。
観測者。
そして管理者。
かつての自分は。
この世界へ彼女を送り込んだのだ。
「私はずっと眠ってる」
星乃は静かに言った。
「現実の病院で」
「五年前から」
朔は言葉を失う。
「でも意識だけはここへ来られた」
「管理者だったあなたがそうしたから」
胸が苦しくなる。
それは希望だったのだろう。
救うための。
諦めないための。
最後の手段。
だが。
同時に残酷でもあった。
百二十七回もの終わりを。
彼女は全部見てきたのだから。
「だから覚えてたのか」
「うん」
星乃は微笑む。
「私だけリセットされなかったから」
その笑顔は綺麗だった。
けれど。
とても悲しかった。
「馬鹿だな」
気付けばそう言っていた。
「え?」
「一人で抱え込むなよ」
星乃の瞳が揺れる。
「百二十七回だぞ」
「そんなの誰だって壊れる」
すると彼女は少しだけ困ったように笑った。
「壊れたよ」
その言葉に。
朔は何も言えなくなった。
「何回も」
星乃は続ける。
「諦めそうになった」
「逃げたくなった」
「もう終わりでいいって思ったこともある」
ぽろりと涙が落ちる。
「でも」
彼女は朔を見た。
「あなたが諦めなかったから」
胸が締め付けられる。
「毎回言うんだもん」
涙を流しながら笑う。
『次は絶対に救う』
『次なら間に合う』
『次こそハッピーエンドだ』
「本当に馬鹿みたい」
そう言いながら。
彼女は泣いていた。
朔も笑った。
涙が滲む。
たぶん。
百二十七回前から。
ずっとこうだったのだろう。
二人とも。
諦めが悪かった。
だからここまで来られた。
その時だった。
世界が大きく揺れた。
空に無数の文字が現れる。
【管理者権限確認】
【最終話起動】
【世界終了まで四十八時間】
数字が表示される。
残り二日。
いよいよ終わりだ。
だが。
最後に現れた文字を見て、二人は息を呑んだ。
【最終話改変条件】
【代償を支払ってください】
文字が増える。
【管理者 冬月朔の消去】
風が止んだ。
時間が止まったようだった。
星乃の顔から血の気が引く。
「……嘘」
震える声。
朔は空を見上げたまま動けなかった。
理解してしまったからだ。
なぜ百二十七回失敗したのか。
なぜ誰も成功できなかったのか。
最後の代償。
それは。
世界でもない。
星乃でもない。
自分自身だった。
空には最後の文字が静かに浮かんでいる。
【第十話 最終話を書き換える】
【世界終了まで四十八時間】
百二十八回目の最終決戦が始まろうとしていた。




