第六話 隣人、来たる
十歳にもなると、村の中で起きる出来事は大抵把握できるようになる。
良くも悪くも、この村は狭い。
誰それの家で羊が逃げただの、誰それの畑が豊作だっただの、そういった話は一日も経てば村中に広まる。
そして今日の話題は、ただ一つだった。
「クロバーナ家がやって来る」
わたしは丘へ向かう道を歩きながら、父の言葉を思い出していた。
(面倒を見てやれ―)
わたしはクロバーナ家の子どもの人物像を、何一つとして知らない。
学者気質か、はたまた戦闘狂か。個人的にはもう戦闘狂は間に合っているので、できれば落ち着いた子どもが来てくれると嬉しいが。
その日も、わたしは本を持って丘へと歩んでいた。
いつも通り、大木の下に腰掛けて本を開く。
呼んでないのにファレリアが来た。
まあ、いつものことだ。特に気には留めない。
「ねー、アッシュー?」
わたしは、本からちらりとも視線をあげずに言う。
「なんだ」
「今日、新しい友達が来るみたいだよね。会いに行ってみない?」
率直に言うと、非常に面倒くさい。
わたしの持論として、絶対的に人間が逃げられないものは三つ存在する。一つ、老い。二つ、死。三つ、近所付き合い。
一つ目と二つ目は、当面心配する必要はないだろう。残るは一つ、近所付き合い。逃げられぬなら逃げる必要はない。
それに、父からの望みもある。
やらねばなるまい。
「…ああそうだな、行くか」
自分で切り出したくせに、ファレリアはまさかわたしがそう言うとは思っていなかったらしい。
「あ、うん。…行こっ!」
わたしは、丘を駆け下りるファレリアを見守りながら本を脇に抱えた。
新たな出会いに向けて、わたしは一歩踏み出した。
クロバーナの家は、わたしの家と隣り合っているそうだ。必然的に、来た道を戻る必要がある。やはり、面倒くさい。
クロバーナ家の前まで来ると、すでに数人の村人が集まっていた。
引っ越しというものは、どこの世界でも珍しいらしい。
荷車が一台。荷台には木箱や家具が積まれている。
村人たちはそれを降ろすのを手伝っていた。
実に牧歌的な光景である。
前世であれば、近所付き合いとは大抵面倒事の種だったのだが。
「あっ、いた!いたよ、アッシュ!」
ファレリアの呼ぶ声に反応して、わたしはその視線の先に目を向ける。
第一印象は、「普通の少年」だった。
黒髪、黒目。若干顔色が悪いようにも見えるが、それも普通という範囲から出ていないだろう。しかし、その瞳は確かな知性に満ちている。利発なのだろう。
派手でもないが、地味でもない。もし人間に中央値がつけられるなら、彼こそが平均だろう。
両親の引っ越し作業を黙々と手伝っている。
その姿を見て、わたしは密かに安堵した。
よかった。少なくとも戦闘狂ではなさそうだ。
「こんにちはー!」
ファレリアが突撃していく。彼女のコミュニケーション能力の高さには、わたしも見習うべきところがあるかもしれない。
クロバーナ少年はびくっと肩を震わせながら、わたしたちの方を振り向いた。
「あっ…こ、こんにちは…」
控えめな挨拶。ますます好感がもてる。なよっちい男は嫌いだが、この子の奥底にはどこか硬い芯があるように感じられた。
「わたし、ファレリア・ラングレー!あなたは!?」
少年は、ファレリアの好奇的な視線の圧に怯えながら答えた。
「クリエト・クロバーナです…よろしくお願いします」
わたしも横から挨拶する。
「ヴィルバード・アッシュだ。」
…そういえば。ふと何か疑問に思った。そうだ、名字だ。わたしの姓はヴィルバードで、名前がアッシュ。
しかしファレリアやクリなにがしは、最初が名前で後が姓。
およそ日本では考えられない話だが、異世界の常識というやつだろうか。
どうでもいいことを考えるうちに、ファレリアとクリエトはすでに親交を深めていた。いや、ファレリアのほうがグイグイと深めようとしている、と言ったほうが正しいか。
「そっか、同い年だもんね!これからよろしくね!」
ファレリアが差し出した手を、クリエトは照れながら、しかし拒むことなく受け入れる。
「ほら、アッシュも!」
わたしはその一言で思考の海から引きずり出される。
なんだ、今何をしていたんだ。ああ、握手か。
「あ、ああ。…よろしく」
わたしとクリエトが手を結んだ瞬間、不思議な感覚が脳内に走った。
ピリッとしたような、刺激のある感覚。
静電気だろうか。いや、この季節に静電気なんてまず起きない。では何なのだろうか。
待て待て、と己に言い聞かせる。この世界はそういうものなのかもしれん。姓と名が逆転しているように、人同士が握手を交わしたら電流が走る…くらいの常識があってもおかしくない。
郷に行っては郷に従え、というだろう。元の世界の常識とこの世界の常識は同一ではない。
クリエトもその感覚を感じたらしく、少しだけ眉根を寄せる。ほら、わたしだけじゃないじゃないか。現にクリエトも感じている。ファレリアは…まあ鈍感なので、こういう感覚が分からないかもしれないが。
そのまま気まずい沈黙とともに互いに手を離す。
こういう場を温める要因たるファレリアは、状況を飲み込めず困惑している。肝心な時に役に立たない。
わたしは、つとめて明るい声で言った。
「まぁ、あれだ。我々の仲間内に新たな友が参入したことだし、祝いといこうじゃないか。どうだ、クリエト。今日うちで夕食でも」
クリエトは、迷うようにちらりと作業を続ける両親を見た。彼らは「行ってきなさい」とでも言うように、にっこり笑って頷く。
「わかった。お邪魔させていただくことにするよ」
そう言って、頭をペコリと下げる。なんと、この世界には少ない常識人ではないか。まともな同年代がやっとできたということに、わたしは軽く感動した。
夜。わたしとクリエトと、なぜかついてきたファレリアを伴ってうちに帰る。急に祝いをするとか言った時の母の反応がすこし心配だが、
「母さん。今日、ファレリアとクリエトをうちの夜ご飯に招待してもいいかな?」
と聞く。母はすこしびっくりした顔をしたが、怒っている様子はなかった。
「いいわよ〜。じゃ、ちょっと多めに作らないとね!」
わたしは、律儀に外で待機している二人を家の中へと誘う。
「お邪魔します…」
「おっじゃましまーす!」
子どもが一気に二人も増えた家の中は、暖かい空気に満ちていた。
しばらくすると、父が家に帰ってきた。
いつもよりも格段に賑やかなその光景に、父の目が丸くなる。
「あ、クロバーナさんの…お、ファレリアちゃん!久しぶり!」
さすがは父だ。他人の子に対する扱いがうまい。ちなみに褒めてはいない。
その日の夕食は、かなりの賑わいだった。
わたし、母、父。そしてファレリアとクリエトが加わる賑やかな夕食。
夕食を口に運びながら、ふと思いつく。
これが、わたしの求めていた「幸せ」なのではなかったか?
平和と安寧を枕にし、当たり前のように施される食べ物を友愛を箸として食す。
これがかねてからわたしが望んでいた幸福の完成形だ。たしかにそうだ。わたしは求めていたものを手に入れた。
…しかしなんだ、この不安感は。今わたしを囲んでいる幸せが、じつに不安定な存在のように思える。
杞憂だろうか。…いや、杞憂に違いない。
何せ、こんなに心地よいとき。疑うことなど、できるはずもない。
「やぁ」
あまりに唐突に聞こえた脳内音声に、わたしは素で
「うぉっ!」
と驚いた声を発してしまう。
さっきまで談笑していた家族とファレリア、そしてクリエトが一斉にこちらを振り向く。
「あ…いや、何でもない。思ったより魚の身が大きかったもので」
「へんなのー」と笑うファレリアの声にふっと空気が弛緩し、先ほどのことが、なかったかのように会話が再会される。わたしは深呼吸を一つし、心の声へと入れ替えた。
「なんだ、急に。…十年ぶりに話しかけてきおって。わたしはもう一生貴様と話すことはないだろうと、小躍りしておったのに」
声の主―『先代』は、くっくっと笑った。
「いやぁ、申し訳ないね。今回はただの近況観察だ。どう?上手くやってる?」
「それなりにな」
「君に友達ができたんだ。きっと君の中身が百歳を越えたジジイだと知られたら、彼らは君に失望するだろうねぇ…」
見え見えの挑発に、わたしは傲然と言い放つ。
「そうだな。さぁ、わたしから言える報告は終わりだ。分かったら消えてくれ。できれば二度と出てきてこないと嬉しい」
先代は、わたしの冷然とした態度にも身構えず、あいも変わらずへらっとした口調で言う。
「君も相変わらず冷たいねぇ。十年でもう少し丸くなってくれるかもって期待していたんだけど」
ふん。阿呆め。
「その期待が叶う可能性は限りなく低いな。わたしは今、幸福を貪っているところなんだ。邪魔をしないでくれ。前にも言ったかもしれんが、わたしは今世こそは平和に生きると決めているのでな」
「平和?へぇ、まさか君が平和に生きていくつもりだったなんて。てっきり軍人サンの本能が戦いたくてうずうずしていると思ってたよ」
まったく会話を終えるつもりのない先代に、わたしは少し苛立つ。
「…何を言われようが、わたしが貴様の言葉に従うことはない。これも前に言った気がするが、わたしは貴様のことをこれっぽっちも信用してないのでね」
先代は、驚いたように言う。
「へぇ。まさか君が平和を語るなんて。ねぇ、神田正。「平和は長くは続かない」なんて、君がいちばんわかってることだとばかり思ってたよ」
言葉が詰まった。なおも先代は続ける。
「君が俺のことを信用しないのは勝手だけど、いつか必ず俺のことを信じなければならないときがくる。それだけは覚えておいてほしいものだね」
そこまで言うと、先代は興味を失ったようにぽつりと言った。
「…まぁ、今回は近況観察だからね。この辺で消えるとするよ。…また気が向いた時に話しかけるとしようかな。じゃあね」
わたしが何かを言う前に、先代はわたしの脳内から消えた。
先代と話しているうちに、無意識に飯を食べきっていたらしい。わたしの眼前の皿は空だった。
両親とファレリアの話の方向は、クリエトのほうに向かっていた。
「ねぇ、クリエトくん。君の好きな食べ物はなに?今度うちに来たときに作っておいてあげるわぁ〜」
母の友好的な会話にも、まだクリエトは緊張が残っているようだった。
「えー…と、干し肉は結構好きです」
その答えに、ファレリアが驚いたような声をあげる。
「うっそ!干し肉!?あれは食べ物というより、その…携行食みたいなものじゃない!」
父が興味を持ったように問う。
「へぇ。たしか君の家の仕事は商人だったね。もしかしたらその過程で干し肉をよく食べたのかもしれない」
なるほど、クリエトの家は商人なのか。ならばこの村に越してきた理由に納得がいく。商人は移動する職業だ。
ある場所での売り上げが落ち着いたら、また利益を上げるために別の場所へと移る。効率的で生産的な職業だ。素晴らしい。
…にしても、さっきの先代の言葉の意味は、なんだったのだろうか。
食事が終わり、ファレリアとクリエトがそれぞれの家路につき、わたしがベッドで眠りに落ちる直前まで、ずっとそのことを考えていた。




