第五話 平穏なる日々、我は永遠を望む
十年という歳月は、わたしを神田正からヴィルバード・アッシュへと転換させるには充分な時間だった。
「じゃ、母さん。外で本でも読んでくるよ」
わたしは、台所で家事をする母にそう告げ、適当な本を持って家を出る。
春の陽気の中歩きながら、わたしは物思いに耽る。十歳。思えば、わたしはこの世界で上手く生きることができているような気がする。人間関係、家族関係、どちらも良好だ。…だが、学においては少々不安が残る。かつてわたしが国民学校に入学したときの年齢が6つかそこらだったはずなので、もうそろそろこの世界でも学校に入学できていいはずだが。
本を抱えながら、昔から母がよくわたしを散歩に連れて行ってくれた丘へと歩く。やはり、若い身体は素晴らしい。体力の消耗が少ないというかなんというか、とにかく身体に痛みが走らない。
これは素晴らしいことである。
いつもの大木の下に腰を下ろす。春といえど、歩くと少々汗をかいてしまう。ほてった身体を冷ますため、わたしは木陰へと身をずらした。
分厚い本を開く。適当に選んだため内容は不明だが、なるほどこれは、どうやらどこかの偉い学者が書いた論文のようだった。
意味はわからなくてもいい。だが、読むことに意味があるのだ。パラパラとページを流し読みし、どこか興味を引く場所がないか探していく。
ふと、わたしの赫色の目が論文のとある一節に留まった。
『―太古より世界に存在し、宿りびとを変えて幾年も生き続ける存在を、人類は『ウロボロス』と呼んで恐れた―』
ウロボロス。この世界に生まれてから、たびたび聞く言葉。元の世界にもそんな言葉があったような気がしないでもないが、横文字には聡くないので意味は知らない。
「宿りびとを変え続ける、か…」
それは、何を意味するのだろうか。ウロボロスとは人物なのだろうか、それとも精神的な何かなのだろうか。
そこまで考え、わたしは思考を中断する。どう足掻いても分からない未知の存在に対しては、あまり深く考えすぎないほうがいい。
また、ぺらぺらとページをめくる。やけにかっちりとした書体が多いな、論文というものは。赤鉛筆でも使ってくれるとありがたいのだが。
「たしか、昔読んだ本に『ウロボロスは四人』…っていうのがあったような…なかったような…」
父の書斎で、そんなことが書いてあった本を読んだことがある気がする。そうだ、題名は「世界の歴史について」だった。そうに違いあるまい。
先ほどは分からぬものは仕方がないと諦めたことはさておいて、わたしは再び思考の歯車をまわす。
「ということは…この世界にいる四人の人間そのものは普通の人間、ということか。宿りびとという表現が適切であるなら、ウロボロスなるものが普通の人間に宿ったもの…と考えて違いあるまい。だからウロボロスは概念の存在…人に宿る…」
ふと、何かを思い出したような気がした。何なのだろうか。とてつもなく腹立たしい記憶が、蘇った気がしたのだが。
ふむ。…さすがに、これだけですべてを判断するのは早計だろう。ウロボロス関連の本やら何やらを、またの機会に探せばよい。
そのときだった。
「あー、まーた本読んでる!」
ふと頭上から聞こえた声に、わたしは驚く。顔を上げると、そこには桃色の髪の毛を豊かに流した女が立っていた。
「またとはなんだ。ファレリア」
わたしと旧知の仲である、ファレリア・ラングレーは、元気いっぱいの顔で笑った。
「だっていっつも本読んでるじゃん!それの何が面白いの?」
この女は、言うなればわたしと対極の領域に属する人間だ。わたしは本を好むが、ファレリアは外で遊ぶことを好む。わたしは平和を好むが、ファレリアは若干戦闘好きなイメージがある。
わたしは覚えていないのだが、生まれたばかりのときにファレリアとは一度出会っているらしい。そんなことがあっただろうか。ある日から隣にいるのが当たり前になっていた…というような感覚に近い。
もっとも、わたしから見ればファレリアはひ孫のように思えるほどの関係性だが。
「本は面白い。…お前もこの面白みが分かれば、化けるのだろうがな。」
わたしは、強いてファレリアと仲良くしているわけではない。必要最低限の距離感を持って接している。それなのになぜこの子はわたしのもとから去らないのか。
ふつうこのくらいの年代の子どもは、相手が思うような反応をしないと離れていくものではないのか。
それは元の世界だけの常識だったのか、はたまたこの子が距離に鈍感なだけなのか。
推測だが、後者に近いような気がする。
「今日は何して遊ぼっか?またもぎせんとー?」
模擬戦闘はわたしが教えた最高の娯楽遊戯のうちの一つだ。数ヶ月前に川で拾った柔らかくふやけた木の棒を用いて、実戦形式で戦う遊び。
どうやらこの子はその面白さにハマってしまったらしく、今では会うたびに模擬戦闘を仕掛けられる。…そう考えると、ファレリアが戦闘狂と化したのはわたしにも責任の一端があるかもしれない。
ちなみに、わたしは読書も好きだがそれと同じくらいに、いやそれ以上に模擬戦闘も好きだ。
断る理由は、ない。
「いいさ。やろうじゃないか」
その答えを聞いて、ファレリアの顔がぱっと明るくなった。
「やった!実はね、もう持ってきてるの!」
ファレリアは二本の木の棒を取り出した。一本、木の板で作った出来合いの鍔がついた棒がある。それがわたしのだ。
ファレリアは、実に楽しそうに棒を構えた。
わたしに言わせてもらえば、その構えはもちろんのこと、棒の握り方もすでに周知のそれとは異なっていた。
わたしは、かつて軍隊学校で培ったように、刃と見立てたところを前に傾け、親指を鍔の近くに添えてゆっくりと握り込んだ。
順手持ち。あまたの日本系刃の使用方のなかでももっともよく知られている、伝統的な構え。
いくら幼子相手といえど、勝負は勝負。
「では。かかってこい」
わたしの台詞が終わる前に、すでにファレリアは足を踏み込んでいた。
「やっ!」
ぴっ、と棒が空を切る。わたしは軽く身体を後ろにずらしたため、その攻撃を食らうことはなかった。
そのまま流れるように続く攻撃を、棒の腹を使っていなしていく。思ったような感触が得られないことに焦れたのか、ファレリアはそれまでのリズムを崩して大振りに斬り込んできた。
ふふん、とわたしは心のなかでほくそ笑んだ。
甘いのう、若人。
「てえっ、わぁっ!!」
ちょっと身を躱すだけで体勢を崩すファレリア。そこを見逃さず、わたしは木の棒の腹でファレリアの脇腹にちょんと触れた。
「はい、今日もわたしの勝ちだ。」
なにが不服なのか、ファレリアの頬がぷくーっと膨らむ。
「つ、次本気でやるから!本気だよ、本気!」
そう言うやいなや、ファレリアはてててーっとどこかへ走ってゆき、しばらくして戻ってきたときにはもう一本手に棒を握っていた。
二刀流。なぜかファレリアはこの戦闘スタイルを気に入っており、本気で戦うときは二本の棒を振り回すのだ。
正直危ないのでやめてほしいが、彼女がそれを好きならば仕方がない。
「いくよ!」
ファレリアは、わちゃわちゃと二本の棒を振り回しながら、わたしの方へと駆けてきた。
ニ分後。肩で息を切らし、大木の下で仰向けに倒れ込むファレリアの姿があった。桃色の毛が陽光を反射して、奇しくも金色のように見える。
わたしはファレリアのとなりに腰を下ろした。
「ファレリアは、あれだな。剣の握り方から始めたほうがいいな。筋はいいから。」
ファレリアは、どこか恨みがましい目でわたしを見た。
「筋がいいなら、なんで私はアッシュに勝てないのさ」
言葉が詰まった。「そりゃ学校と戦争で鍛えたから」と言ってしまえば正直でいいだろうが、いかんせん言えるはずがない。第一、言ったら頭がおかしい人間として見られてしまう。
「練習あるのみさ。お前も練習したら、すぐにわたしみたいに強くなれる。」
ファレリアは、さらに瞳をじとっとさせて言った。
「練習、してるんだけど?」
ふーむ。ふむ、ふむ。
「あー、うん。なるほど、うん、そうだね…」
気まずい沈黙が流れた。ファレリアはしばらくわたしを冷たい目で見つめていたが、ふと何かを思い出したようにがばっと起き上がった。
目がキラキラと輝いている。
「そうだ!アッシュ、私ね、昨日十歳になったよ!これでアッシュと一緒!」
そうか。わたしとファレリアの生まれは一ヶ月違いだ、と昔母から聞いた覚えがある。
「そうか。…おめでとう」
半ば無意識に、わたしはファレリアの頭に手を伸ばしていた。ファレリアが、不思議そうな声を出す。
「ん…?」
困惑するファレリアをよそに、そのまま優しく撫でる。
「えっ…えっと…アッシュ?」
その呼びかけに、わたしはハッと我に返った。
しまった。今のは完全に、孫を相手にするあれだった。つい無意識に…。
気を抜いてしまうと、どうにもこの子が孫のように思えてならない。
今さら言い訳はできないので、今度はファレリアの目を見て言う。
「おめでとう。」
ファレリアの顔が、明るくなった。
「うん!」
夜、ファレリアと別れて家に帰ると、すでに母が夕飯を作っている最中だった。
「ただいま」
わたしの声に、母は振り向く。
「あら、お帰り。先に手を洗っておいで」
料理の匂いを嗅ぎ取ったのか、父が2階の書斎から降りてくる。
十年の付き合いではあるが、この男のことを未だわたしは尊敬できていなかった。
「あ、お帰りアッシュ。どうだった?ラングレーさんの娘さん」
「元気そうだったよ」
わたしはそれだけ言い、手を洗うべく水場へと向かった。
「そうだアッシュ、もう聞いたか?」
夕食の席。父がそうわたしに問いかけてきた。もちろん何のことか分からない。
「何を?」
「今度、お隣に新しい家が引っ越してくるそうだ。そこの家の男の子は、お前と同い年らしいしな。何かとこの村に来て不安があると思うから、お前も気にかけてやれよ?っていう話だ」
ほう、隣人が増えるのか。
「分かった。もし見かけたら、面倒見ることにするよ」
そう言うと、父は笑って頷いた。
「そうか。いい子だ、頼んだぞ」
父から聞いたことによると、その男児の家の名前はクロバーナ家というらしい。男児の名前は、クリエト・クロバーナ。
友が増えるのは良いことだと、わたしはそれを胸を張って断言できる。
なぜなら友というものは、いざというときにわたしを守る盾となるし、わたしを脅かす者を攻撃する矛になるからだ。
いつか会ったら、話しかけてみよう。
そんな思いを胸にして、食事を終えたわたしは机を立った。




