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異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため、最強の勇者目指します〜サイドストーリー1〜  作者: 東雲 明


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第4話 今はまぁ、これでいっか

 高位神官が、宙にふわふわ浮いた木製の揺り籠を指先で押すたび、白い布に包まれた人形は実にのどかな軌道を描いて揺れ、そのたびに小さな鈴がちり、と鳴った。


 春先のやわらかい光が神殿の高窓から差し込み、磨かれた石床の上を薄く滑っているというのに、俺のこめかみだけは妙に熱く、膝の上で握った手のひらには、さっきからじっとり汗がにじんだまま引かない。


 揺り籠。鈴。白布。やけに穏やかな空気。香炉から上がる薬草の匂い。


 壁一面に並んだ育児記録の札。どれを取っても平和そのもののはずなのに、その中心で高位神官だけが、慈悲深い顔をしたまま妙に追い詰める言い方をするものだから、俺は勇者修行でも魔物討伐でも味わったことのない種類の圧迫感に、背筋の骨を一本ずつ押さえつけられているみたいな気分になっていた。


 そしてついさっき、あの人は、春風みたいな声でとんでもないことを言ったのだ。


 ――龍夜殿。法律とミユウ殿の笑顔、どちらがお大事ですか、と。


 問いの形をしているくせに逃げ道は最初からどこにもなく、俺は返事を飲み込みそこねたまま、目の前で浮いている“まだ見ぬ我が子のための育児練習用赤ん坊”より先に、自分の頭を抱えることになった。


 いや、待て。落ち着け。順番に考えろ。


 俺は両手で額を押さえたまま、浅く息を吸った。


 薬草の青い匂いが鼻の奥に刺さり、その冷たさで少しだけ意識が戻る。


 高位神官は向かい側で、俺の苦悩を見ているのか見ていないのか分からない、あの底の読めない微笑を口元に置いたまま、手元の羊皮紙へ何かを書きつけていた。さらさらと羽根ペンが走る音まで妙に腹立たしい。


「……待ってください」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。


 ここへ来るまで、俺はちゃんと理屈を用意していたはずだ。 


 ミユウは十五歳。俺は十七歳。人間界の知識でいえば、年齢だの保護だの責任だの、そういう言葉がぞろぞろ頭の中に並ぶ。


 もちろんこの世界は日本じゃない。戸籍もないし、法律の条文が壁に貼られているわけでもない。


 それでも、前の世界で身についた感覚は、そう簡単に抜け落ちてはくれなかった。


 線を引くこと、距離を測ること、勢いに任せないこと。それを間違えたら、何かとんでもなく取り返しのつかないことになる気がしていた。


 だからこそ、ミユウが当たり前みたいに腕へ触れてきても、肩へ寄りかかってきても、髪先を指で遊ばれても、俺はそのたびに半歩引いていた。


 冗談めかしてごまかし、忙しいふりをし、天井を見たり窓の外を見たりしながら、ぎこちなく距離を戻してきた。


 あいつが傷ついた顔をしないように、なるべく柔らかく。だが柔らかくやればやるほど、余計に分かりにくくなり、分かりにくいまま何度も繰り返せば、鈍い俺でもさすがに気づく。


 あれは遠慮だ。あれは戸惑いだ。あれは、手を伸ばしかけては引っ込める癖になっていた。


 そのことまで見抜いた上で、この人は俺をここへ呼んだのか。


 顔を上げると、高位神官はやっと羽根ペンを置いた。


 白い法衣の袖が石卓の上をさらりと滑る。年齢の読めない整った顔には皺ひとつないのに、目だけが妙に古い。俺が口を開くより先に、その目が静かにこちらを促してきた。


「龍夜殿は実に真面目です」


 鐘の残響みたいな落ち着いた声が、室内の空気を薄く震わせる。


「その真面目さは美徳でしょう。ですが、ときに真面目さは、目の前に差し出された手まで拒みます」


「拒んでるつもりは、」


「ええ。つもりはないのでしょう」


 先回りされた言葉が喉で止まる。


 高位神官は責めるでもなく、ただ揺り籠へ視線を向けた。


 木枠に吊られたそれは、先ほどの揺れの余韻をまだ残して、ゆっくり、ゆっくり揺れている。


 中の人形の小さな拳が布の端から少しだけのぞき、その頼りない形が、妙に現実味を持って目へ刺さった。


 まだ生まれていない。まだこの腕に抱いたこともない。それでも、そこへ向かって時間だけは確実に進んでいる。


「ミユウ殿は、あなたに甘えたいのです」


 また喉が詰まった。


「甘えを許される相手にだけ、人はああいう目を向けます。羽を休める場所を確かめるような、あの目を」


 思わず視線が落ちる。石床に差した光が、俺の靴先を白く切っていた。


 脳裏に、ここ数日の細かい場面が勝手に蘇る。食卓で隣に座ったまま、俺が皿を取るたび肩をすっと引いていたこと。


 廊下で袖をつまみかけて、俺が振り向いた瞬間に手を引っ込めたこと。眠そうな顔で「おやすみなさい」と言ったあと、一瞬だけこちらへ寄りたそうに揺れた体が、結局そのまま離れていったこと。


 気づいていた。気づいていて、見ないふりをした。


 高位神官は両手を組み、ふっと息を吐いた。


「確認いたします。龍夜殿は、ミユウ殿を大切に思っておられる」


「……はい」


「傷つけたくない」


「はい」


「では、なぜあの方の笑顔が曇る選択を続けるのです?」


 胸の奥で何かが鈍く鳴った。痛いわけじゃない。


 ただ、鈍器で一度だけ叩かれたみたいな衝撃が、息の通り道を細くする。


 俺は膝の上の手を組み替え、指をきつく絡めた。爪が食い込む感触でどうにか言葉を拾う。


「前の世界の感覚が、抜けなくて」


「法律ですか」


「……たぶん、それもあります」


「たぶん」


 繰り返されるだけで、自分の曖昧さが露骨に見えてしまう。


 俺は唇の裏を噛んだ。鉄の味がじわりと広がる。


「間違えたくないんです。俺の都合で、俺の欲で、あいつの――ミユウの気持ちを雑に扱うみたいなことだけは、したくない」


 言い切ったあと、室内がしんと静まった。香炉の煙が細く伸びて、光の柱の中でほどける。


 高位神官はしばらく俺を見ていたが、やがてほんの少し口元を緩めた。その顔が、さっきまでの試すようなものから、少しだけ柔らかいものへ変わる。


「ならば、なおさら答えは単純でしょう」


「単純、ですか」


「ええ」


 さらりと返されて、逆に腹が立つ。こっちは胃のあたりをねじられているのに、向こうは春の茶会でもしている顔だ。


 だが次の瞬間、告げられた言葉は、茶ではなく槌だった。


「龍夜殿。法律とミユウ殿の笑顔、どちらがお大事ですか?」


 分かっていた。さっき聞いた。聞いたはずなのに、真正面からもう一度置かれると、破壊力がまるで違う。


 俺は反射的に目を見開き、それからゆっくり、ゆっくり額を押さえた。頭痛でもないのに眉間が脈打ち、視界の端で揺り籠がまた一度、小さく揺れる。鈴が鳴る。ちり、と。いや今そんな清らかな音いらないだろ。


「それは、その、言い方がずるくないですか……」


「ずるいですか」


「ずるいです。そんなの、ミユウって答えろって言ってるようなもんじゃないですか」


「では、そうお答えになればよろしい」


「だから、そう簡単に――」


 言いかけて、止まる。


 簡単じゃない。簡単じゃないはずなのに、口の奥ではもう答えが形になっていた。


 法律。常識。前世の尺度。大事だ。もちろん大事だ。


 だがそれは、今ここで、目の前のミユウを遠ざけてまで守るべきものか。あいつがそっと伸ばしてくる手を、曖昧な笑いで何度もかわして、肩を落とす背中を見て見ぬふりをして、それで胸を張って“正しい”と言えるのか。


 言えない。


 言えないことだけが、いやにはっきりしていた。


 高位神官は、俺が沈黙した意味を読み取ったのだろう。さらに追い打ちのように、しかし声だけは穏やかに続ける。


「誤解なさらぬよう。無節操であれと申し上げているのではありません。線引きは必要です。節度も必要です。だが、節度と拒絶は違う。愛情と放置は違う。守ることと怯えることも、違います」


 守ることと、怯えること。


 その二つを同じ箱へ押し込んでいたのは、俺だったのかもしれない。


 言葉が胸の奥へ沈み、しばらく遅れて重みだけが残る。


 俺は深く息を吐き、両手を顔から離した。視界が少し明るくなる。


 高窓から差す光は相変わらずやわらかく、石卓の上には育児用の木札が整然と並んでいた。“抱き上げ方”“寝かしつけ”“衣服の調整”“気配の読み取り”。どれも赤ん坊のための札なのに、今の俺には、自分の不器用さへ順番に札を立てられているようにしか見えない。


「……高位神官様」


「はい」


「俺、そんなに顔に出てましたか」


「ええ。非常に」


「最悪だ……」


 額ではなく今度は首の後ろを押さえる。熱い。耳まで熱い。神官相手にこんな顔を晒していたのかと思うと、さっきまでとは別の意味で床へ沈みたくなる。


 高位神官はなぜか少しだけ楽しそうだった。


「ミユウ殿が廊下で龍夜殿の袖に触れようとして、三度ためらった日がありました」


「見てたんですか」


「神殿ですので」


「神殿こわいな……」


「食堂で隣に座ったあと、椅子の距離を指二本分だけ詰め、あなたが立ち上がるたびにまた戻していた日もありました」


「やめてください、細かい……!」


「昨夜は“おやすみなさい”のあと、あなたの肩へ頬を寄せてよいものか、扉の前で羽の先まで迷っておられました」


「もういいです、分かりました、本当に分かったので」


 俺はとうとう両手で顔を覆った。熱い。情けない。いたたまれない。


 何が勇者だ。目の前の一人を前にしてこんな調子で、魔王だの世界だのよく言えたもんだ。


 高位神官の前で反論する力すら失いかけたところへ、追撃のように鈴がまた鳴る。揺り籠の人形が、のんきな顔でふわふわ浮いている。


 いや、お前までこっちを見るな。布に包まれてるだけのくせに、なんでそんな“父上しっかりしてください”みたいな空気を出してるんだ。


 高位神官が静かに立ち上がり、揺り籠の揺れを手で止めた。室内の動きがひとつ収まり、代わりに沈黙が落ちてくる。その沈黙の中で、俺はようやく、胸の奥のごちゃつきが少しずつ形を持ち始めるのを感じていた。


 拒まないこと。

 怯えないこと。

 線を守りながら、手を取ること。


 難しい。だが、不可能じゃない。


 少なくとも、“何もしない”よりはましだ。


「……分かりました」


 言葉にすると、思ったよりずっと静かな音になった。


「全部いきなりうまくやれるかは分かりません。でも、逃げるのはやめます」


 高位神官は頷いた。


「それで十分でしょう」


「ただ」


「ただ?」


「今この瞬間、ものすごく帰りづらいです」


 一拍置いてから、高位神官が珍しく小さく笑った。法衣の袖口が揺れ、その笑いは意外なくらい人間くさかった。


「では、神託ということにしておきましょうか」


「そんな便利な使い方あります?」


「あります。神殿ですので」


 あるのか。あるのかもしれない。神殿だし。


 俺は長く息を吐き、ようやく立ち上がった。座りっぱなしだった膝が少し痺れている。


 石床の冷たさが靴裏から伝わり、その冷えが逆に頭を冴えさせた。高位神官は石卓の上の札を整えながら、最後にひとつだけ、背中へ向けて穏やかな声を投げてくる。


「龍夜殿」


「はい」


「笑顔を選ぶことは、法を捨てることではありません」


 振り返る。


「あの方を安心させることです」


 言葉は短く、それ以上続かなかった。だが、それで十分だった。俺は小さく頭を下げ、薬草の匂いの満ちた部屋をあとにする。


 廊下へ出ると、昼下がりの光が白壁を明るく撫でていた。神殿の回廊を渡る風は薄く冷たく、熱の残る耳に心地いい。遠くで鐘が鳴り、どこかの庭では水音がしている。世界は妙に平和で、俺の胃のあたりだけがまだ落ち着かない。


 長い廊下を歩きながら、俺はさっきのやり取りを何度も反芻した。法律と笑顔。あまりにも極端で、あまりにも答えが見えすぎている問い。なのに、真正面から突きつけられるまで、自分がそこから逃げ回っていたことに気づいていなかった。


 人間界の感覚を捨てるつもりはない。捨てたくもない。


 あれは俺が俺であるための一部だ。だが、ここは異世界で、ミユウはミユウで、俺の横にいる。その現実まで、人間界の物差し一本で切り分けようとしていたなら、それはもう慎重じゃない。ただの不器用だ。


 問題は、部屋へ戻って何と言うかだ。


 “高位神官に言われたから解禁する”では情けない。

 “法律よりお前の笑顔が大事だ”は、言葉がそのまますぎてむず痒い。

 “これからは少し近くても大丈夫だ”……いや、なんだその通達みたいな言い方。


 歩くたびに案が浮かんでは消え、消えてはまた別の案が出る。どれもこれもしっくりこない。


 廊下の角を曲がる頃には、すでに魔物相手より消耗している気がした。いっそ黙って座っていれば伝わるだろうか。いや伝わるわけがない。俺が黙ると余計にややこしくなるのは、これまでで十分学んだ。


 俺の部屋へ続く回廊に差しかかる。窓の向こうでは、庭木の若葉が光を受けて揺れていた。


 白い花びらが一枚、風に流されて石畳へ落ちる。その何でもない光景の中に、あいつの羽の色を勝手に重ねてしまって、俺は思わず眉間を押さえた。重症だな、これ。


 部屋の前まで来ると、足が止まる。


 扉一枚の向こうにミユウがいる。ただそれだけで、さっき少し整ったはずの呼吸がまた浅くなる。


 指先が無意味に襟元を直し、髪を触り、結局何も変わらないまま宙をさまよう。怪しすぎる。どう見ても不審者だ。自分の部屋の前で何をしてるんだ俺は。


 ノックをしようとした手が、一度止まる。


 おずおずと手を伸ばして、軽く二回。こん、と乾いた音が扉板に響いた。その直後、内側で小さく何かがぶつかる音がして、ばた、と慌ただしい足音が近づく。羽音に似た布擦れまで混じっているあたり、待っていたのだろうかと思うと、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。


 扉が細く開く。


 先にのぞいたのは銀の髪だった。光を含んだ糸みたいなそれが肩からさらりと落ち、その奥で、ミユウの青い瞳がためらいがちに揺れる。


 いつもなら真っ直ぐ飛び込んでくる視線が、今日は俺の顔を見て、次に胸元へ落ち、またそろそろと上がってくる。頬のあたりには、ここ数日ずっと見慣れてしまった遠慮の影が、まだ薄く残っていた。


「……あなた」


 小さな声。呼ばれただけで、胸骨の裏がきしむ。


「戻った」


「はい」


 扉は開いているのに、ミユウ自身はその内側へ半歩分ほど隠れたままだった。


 白い指が扉の縁をそっと掴み、羽の先が肩の後ろで落ち着かなく揺れる。


 入っていいか、と聞こうとした瞬間、その必要もないのに彼女が急いで身を引き、道を空ける。俺が部屋へ入ると、花と石鹸が混ざったような、あいつ特有のやわらかな匂いが空気の底に残っていた。


 窓は半分だけ開いていて、午後の風が薄いカーテンを揺らしている。


 卓上には湯気の落ち着いた茶器が二つ。たぶん俺の分も淹れてくれていたのだろう。だが、どちらの杯にもまだ口はついていない。待っていた時間の長さが、そこにそのまま残っていた。


 ミユウは扉を閉めたあとも、すぐには近づいてこなかった。


 普段なら俺が椅子へ腰を下ろす前に袖へ触れてくるくせに、今日は距離を測るように指先を組み、足先だけが小さく迷っている。その様子が胸に刺さる。ああ、これをずっとやらせていたのかと、今さらみたいに理解が追いつく。


「ミユウ」


 名前を呼ぶと、肩がぴくりと揺れた。


「はい、あなた」


 返事はいつも通りやわらかいのに、そのあとが続かない。何か言いかけて、やめて、唇が小さく結ばれる。俺は喉の奥で一度息を整えた。高位神官相手より、たぶんこっちのほうがずっと難しい。


 だが逃げないと決めたのは、ついさっきだ。


「話がある」


 言うと、ミユウの睫毛がわずかに伏せられた。叱られるとでも思ったのか、その反応だけで胃が痛む。だから俺は間を空けず、できるだけまっすぐ続けた。


「その……今まで、避けてたみたいになってたの、悪かった」


 言葉を選ぶたび、舌が妙に重い。だが、そこで止めるわけにはいかない。


「嫌だったわけじゃない。嫌どころか、たぶん逆で……いや、そこは今いい。とにかく、変に構えすぎてた。だから」


 ミユウが顔を上げる。青い瞳の奥で、灯がひとつともるみたいに光が差す。


「これからは、もう少し……その、今までみたいに、いや、今まで以上に警戒しなくていい」


 一瞬、部屋の空気が止まった。


 窓辺のカーテンだけが、遅れてふわりと揺れる。


 ミユウは俺を見たまま動かない。瞬きすら忘れたみたいに、瞳だけが大きく開かれている。言い方を間違えたかと思いかけたところで、彼女の喉が小さく鳴った。


「……いい、のですか」


 あまりにも小さな声だった。


 俺は頷く。すると、次の瞬間だった。


「あなた!」


 空気が弾けた。


 さっきまでおずおず扉の陰にいたのが嘘みたいに、ミユウが一気に距離を詰めてくる。白い羽がばさ、と大きく揺れ、銀髪が光を散らし、抑えていた何かがとうとう堰を切ったような勢いで、彼女の両手が俺の肩へ触れた。


 軽い。だが迷いがない。そのまま顔がぐっと近づき、俺が身構えるより先に、やわらかな頬がこつんとこちらへ寄せられる。


 温度が触れる。


 それだけなのに、妙に破壊力があった。


「ちょ、ミユウ、近い」


「はい、近いです」


「そうじゃなくて」


「だめではないのですよね」


 頬を寄せたまま、くぐもった声が返ってくる。だめではない。たしかに言った。言ったが、許可を出した瞬間にここまで全力で来るとは思わないだろ普通。腕の中へ飛び込んでくる勢いこそ抑えているものの、喜びを隠す気が一切ない。むしろ隠していた分が利子つきで返ってきたみたいだ。


 ミユウは一度顔を離したかと思うと、今度は俺の袖をきゅっと掴み、それから恐る恐るではなく堂々と、肩へ額を預けてきた。


 羽の先が背中へふれる。ふわりとした感触に混じって、彼女の髪が首筋をくすぐる。甘い匂いが近い。近すぎる。俺の理性が何か言いたそうにしているが、さっき高位神官に論破された直後なので、あまり大きな顔はしてこない。


「あなた、あなた、あなた」


「待て、一回落ち着け」


「はい。……あなた」


「増えてる」


「うれしいので」


 その一言で片づけるな。いや片づくのかもしれないが。俺が返す言葉を探しているうちに、ミユウはさらに調子づいたらしく、今度は俺の腕へ自分の腕をそっと絡めた。


 そっと、のはずなのに喜びが全身から漏れていて、隠密行動に向かない小動物みたいになっている。肩、袖、腕、頬、額。触れていい場所を一つひとつ確かめるように、しかし遠慮はもう捨てたらしく、接触の種類だけがみるみる増えていく。


「おい、高位神官様、あの人何を解禁したって伝えたんだ……」


「わたくしは何も聞いておりませんが?」


「聞いてないのにこの順応速度なのか」


「あなたがよいと仰いました」


「言ったけども」


「では、よいのです」


 完全に理詰めで押し切られている。しかも本人が満面の笑みだ。目尻がやわらかくほどけ、頬がいつもより明るく見える。羽まで少し開いている気がするのは気のせいじゃないだろう。全身で“うれしいです”を表現する天使、情報量が多すぎる。


 俺は助けを求めるように窓の外を見た。春の空は青く、庭木の葉が風に揺れている。平和だ。こちらの混乱を一切知らない顔で、世界があまりにも平和すぎる。だが肩へ預けられた額の重みと、袖を掴む指先のぬくもりは、その平和よりずっと生々しく、現実的だった。


「……嫌、ではありませんか」


 不意に、ミユウがそう言った。


 声の調子は明るいままだったが、袖を掴む力がほんの少しだけ弱くなる。そのわずかな変化が分かってしまう距離にいることへ、一瞬だけ息が詰まる。俺は視線を戻し、彼女の横顔を見る。近い。睫毛の影まで見える近さだ。


「嫌じゃない」


 今度は迷わず出た。


「本当に?」


「本当に」


 すると、ミユウはふっと息を漏らし、次の瞬間にはもう顔いっぱいに笑みを広げていた。


 ぱっと差した光みたいに、その表情が部屋の空気を一気に明るくする。


 ああ、ずるいなと思う。あの高位神官の問いがずるかった理由が、今ならよく分かる。こんな顔を真正面で見せられて、法律だの理屈だのを優先できるほど、俺はできた人間じゃない。


 ミユウは調子に乗った。完全に乗った。


「では、これも」


 そう言って指先で俺の袖口を整え、


「これも、よいのですね」


 今度は肩へぴたりとくっつき、


「これも」


 腕へ頬を寄せる。


「確認が多い!」


「大切なことです」


「絶対楽しんでるだろ」


「はい」


 即答だった。少しは隠せ。


 だが、そのあまりの正直さに、張っていた力がふっと抜ける。


 笑うつもりなんてなかったのに、喉の奥で変な音が漏れた。ミユウが目を丸くする。


 俺がこういう場面で吹き出したのが珍しかったのだろう。自分でも珍しいと思う。だが、一度ひびが入るともうだめだった。こめかみのあたりに張りついていた緊張が、乾いた殻みたいにぱりぱり割れて落ちていく。


「……なんかもう」


 肩へ寄せられた重みを受け止めたまま、俺は長く息を吐いた。


 ここは異世界だ。目の前にいるのはミユウで、神殿の高位神官にまで背中を押されて、それでもまだ法律だ何だと頭の中だけでぐるぐるしているのは、たぶん俺くらいだろう。慎重でいたい気持ちは消えない。これから先も、たぶん何度も立ち止まる。だが、今この瞬間まで拒み続ける理由は、もうどこにも残っていなかった。


 ミユウが俺の顔をのぞき込む。期待といたずらっぽさが半分ずつ混ざった、ひどく困る目だ。


「あなた?」


「……今はまぁ、これでいっか」


 言った途端、ミユウの笑みがさらに深くなる。


 ああ、もう本当に、これでいいかもしれないと、そういう顔で笑うのは反則だろう。

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