第3話 抱きしめたいのに、あと一年
――その瞬間、俺は、思い出してしまった。
高位神官の講義は今日も妙に神々しく、なのに内容だけがどうしてこう、俺の心拍数に悪いのかと問い詰めたくなるくらい現実的で、白い石造りの講義室に差し込む午後の光の中、磨かれた床へ長く落ちた羽根の影を眺めながら、俺はさっきから一つも話が頭に入っていなかった。
入ってこないのも当然だ。壇上でゆるやかに微笑む高位神官の背後には、天界アストリアの空を映す巨大な円窓、その手前には「天使族における健全な親愛表現と幼子の情緒安定」と流麗な文字で書かれた板が立てられていて、その単語のひとつひとつが、いまの俺には別の意味で胸に刺さっていた。
なぜなら、その“親愛表現”の見本を、俺はつい数分前まで、何の疑いもなく実演されかけていたからだ。
講義の合間、隣に座っていたミユウが、いつもの調子で俺の腕へ身体を寄せ、袖を指先でつまみ、それから何でもないみたいな顔で肩へ頬を寄せてきた、その柔らかい重みを受け止めた瞬間だった。
羽根の匂いに混じる甘い香り、さらりと流れてきた銀髪が首筋をくすぐる感触、白い指が俺の手を探るように絡んできた気配――そこで不意に、俺の頭のどこかで埃をかぶっていた現代日本の常識が、嫌に鮮明な輪郭をもって跳ね起きたのである。
男性十八歳、女性十六歳。結婚できる年齢。法。戸籍。婚姻届。保護者。未成年。そういう、ここでは一生使わないはずだった単語たちが、剣より鋭く俺の脳天を貫いた。
待て。
待て待て待て待て。
俺はいま十七だ。あと一年足りない。しかもここは異世界だとか勇者だとか天使だとか最高天使だとか、そういう単語の暴力で現実感が麻痺していただけで、もしこの状況を無理やり現代日本の尺度に押し戻したらどうなる。
高位神官の庇護下で、十五歳の見た目をした少女に、毎日のように抱きつかれたり手を繋がれたり頬を寄せられたりしている十七歳男子。
言葉にしただけで胃が痛い。勇者どころか、新聞の片隅に載る前段階の不審人物みたいな字面になる。いや、まだ何もしていない。していないが、していないのに、この想像だけで冷や汗が背中をつたった。
俺は反射で、ミユウの肩をそっと押し返していた。
「ま、待て」
押し返す、といっても突き放したわけじゃない。羽を傷つけないように、壊れ物を離すみたいに、ほんの少し距離を置いただけだ。けれど、その“ほんの少し”が、ミユウには世界の終わりみたいに見えたらしい。
「……え」
指先に残っていたぬくもりがすっと消え、視界の端で銀の睫毛がふるえた。さっきまで俺の腕に預けられていた重みが離れ、隣の席に座り直したミユウは、最初、自分が何をされたのか理解できていないみたいな顔をしていた。
丸く開いた瞳の奥で光が一度揺れて、それから、遅れて意味が落ちてくる。拒否。拒否された。たぶん、そういう順番だ。
「あ、あなた……?」
名前を呼ぶ声が、ひどく小さい。俺の喉の奥は、砂を詰められたみたいに固まった。
違う。違うんだ。俺はいま、君を嫌がったわけじゃない。
ただ、日本の法律を思い出して、いやそんな説明をここでどうしろというんだ。
アストリアの空の下で日本の民法を持ち出す奴があるか。しかも相手は最高天使だぞ。俺だって何を言っているのかわからない。
「いや、その、だな」
どうにか言葉を探しているあいだに、ミユウの表情はさらに変わっていった。
唇がわずかに開いたまま止まり、白い頬から血の気が引き、やがて羽根の先までしょんぼりしたみたいに垂れた。
比喩じゃない。本当に垂れた。背中の大きな白い羽が、目に見えて、しゅん、とするのだ。そんな機能いるか。
講義室の前方では高位神官が「幼子は、安心できる存在の体温に敏感で――」などと穏やかに語っているのに、俺の隣だけ別の災害が始まっていた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
そのひと言で、俺の心臓が嫌な音を立てた。違うだろ、とっさに否定しようとして、けれどまた詰まる。
違うだろの先に続く説明が、全部おかしいのだ。ごめんなさいじゃない、俺が現代日本の法律を思い出したせいだ、って何だその弁明。自分で言っていて狂っている。
ミユウは膝の上で指をきゅっと握り、俺を見ないように俯いた。銀髪が頬に落ち、耳の先だけが赤い。
泣くな、と祈った。頼むから泣くな。ここ講義室だぞ。高位神官いるんだぞ。周りの神官見習いたちもいるんだぞ。ここで最高天使を泣かせた勇者なんて、どう考えても社会的に終わる。
だが祈りは通じず、ミユウの肩がひとつ、ふるりと震えた。
次の瞬間、ぽたり、と俺の膝に透明な滴が落ちた。
終わった。
いや、終わってはいない。終わってはいないが、たぶん俺の平穏は死んだ。
「ち、違う、違うって、ミユウ、違うから」
慌てて身を乗り出した俺の耳へ、前方から高位神官の柔らかな声が飛んできた。
「龍夜殿。いまの“違う”は、講義内容に対するご質問でしょうか」
講義室じゅうの視線が、一斉にこちらへ向いた気がした。
俺は凍った。ミユウは涙をにじませたまま、ますます小さくなる。
やめろ、この状況で注目を集めるな。俺は何も答えられず、喉を引きつらせたまま立ち上がりかけ、座り直し、結局わけのわからない会釈をした。
「い、いえ、その、質問というか、はい、だいぶ質問です」
何だ“だいぶ質問”って。
自分で自分の口を殴りたくなったが、壇上の高位神官は怒るでもなく、むしろ興味深そうに首を傾げた。
肩まで流れた淡金の髪がさらりと揺れ、背の羽根が静かに光を返す。こういうとき、この世界の人たちは美しすぎて困る。俺だけが致命的に場違いだ。
「では、少し休憩を挟みましょうか。親愛表現の実践例は、個々の文化差にも左右されますゆえ」
それだけ言うと、講義室はすっとざわめき始めた。椅子の引かれる音、羽根の擦れる音、円窓の向こうから入ってくる高い風の音。助かった、と思うべきなのに、助かっていない。休憩になったことで、かえってこの場を誤魔化せなくなったからだ。
ミユウはまだ俯いていた。
俺は腹の底が重くなるのを感じながら、そっと呼びかけた。
「ミユウ」
返事はない。
代わりに、鼻をすする気配がした。俺の背筋を、ぞわ、と冷たいものが走る。
ああもう。こんなの、魔王と対峙したときのほうがまだ落ち着いていられたぞ。
敵なら斬ればいい。けれど今の相手は泣いている少女で、その原因はたぶん俺で、しかも俺の理屈が説明不能なのだから、勇者の剣は何の役にも立たない。
「悪かった。ほんとに、嫌だったわけじゃなくて」
ようやく絞り出した言葉へ、ミユウはゆっくり顔を上げた。涙が睫毛の先で光り、その奥の瞳に、傷ついたみたいな色がじわりと広がっている。胸の奥を握られる。
「……じゃあ、どうして」
どうして。
正論すぎる。
俺はそこで、深く息を吸った。石の冷たい匂いが肺に入る。円窓から差し込む光はあたたかいのに、手のひらだけ汗ばんでいて、心臓の音がやけに近い。
「その説明を、いまからする」
言ってから、俺は席を立った。壇上の下へ向かい、高位神官の近くまで歩く。逃げるな、俺。ここで逃げたらミユウは本気で泣くし、高位神官の講義は謎のまま進むし、俺の中の現代日本は一生うるさいままだ。
高位神官は、休憩中だというのに相変わらず悠然としていた。卓上の茶器から白い湯気が立ちのぼり、その香りは花と草を混ぜたみたいに薄い。俺が近づくと、彼は柔らかく目を細めた。
「さて。龍夜殿の“だいぶ質問”を伺いましょう」
「……笑わないで聞いてくださいよ」
「努力はいたします」
努力かよ。
その曖昧な保証に不安しか湧かなかったが、もう後には引けない。
俺は一度、講義室の後ろを見た。ミユウは席で小さくなったまま、こっちを見ている。涙は拭いたらしいが、羽根はまだ元気がない。あのしょんぼりした羽根のまま帰らせるわけにはいかなかった。
「俺のいた世界……日本には、法律ってものがあって」
「はて、法律とは?」
一秒で躓いた。
俺は目を閉じたくなった。いや、わかっていた。わかっていたぞ。
アストリアに来てから何度か感じていた文化差だ。だが、こうも綺麗に初手から通じないとは思わないだろ普通。
「ええと、何て言えばいいんだ……その、みんなが守る決まり、みたいなものです。国が決める、生活のルールというか」
「おお、戒律のようなものでしょうか」
「近いようで、もっと現実的というか……宗教的な誓いじゃなくて、破ると罰があったり、認められなかったりするやつです」
「罰」
高位神官は少しだけ眉を上げ、それから感心したように頷いた。
「なるほど。ずいぶんと厳しいのですね、日本という国は」
「厳しいですよ。少なくとも、こう、男女が一緒に暮らしたり、結婚したりするのには年齢の決まりがあって……」
そこまで言ったところで、自分の声が妙に乾いているのに気づく。口の中がからからだ。茶を飲みたい。でもいま飲んだら絶対むせる。
「男は十八歳、女は十六歳から。少なくとも俺がいた頃の日本では、そういう決まりだったんです」
「ほう」
高位神官は、そこで初めて、ほんの少しだけ面白そうな顔をした。面白がるな。
「つまり龍夜殿は、あと一年待てばよい、と」
「そこ、そんな簡単にまとめないでくださいよ!」
思わず声が裏返った。近くにいた若い神官見習いがびくっと肩を揺らし、慌てて別の方向を向く。くそ、恥ずかしい。だが高位神官は相変わらず穏やかだ。
「しかし、そうではありませんか」
「違います。いや、違わない部分もあるけど、違うんです。問題はそこに至るまでの過程というか、いま俺が十七で、ミユウが……」
言いかけて、止まる。
ミユウが十五歳。そう思っていた。見た目も、いま俺たちが共有している時間の長さも、それくらいの感覚だからだ。けれど高位神官は、そこであっさりと首を傾げた。
「ミユウ殿の実年齢は、誰も、本人すら知りませぬが」
「は?」
間抜けな声が出た。
高位神官は、まるで「空は青いですね」と言うみたいな調子で続ける。
「最高天使――イリゼは、顕現の時期も、成長の段階も、人の尺度では測れません。あの方がいま十五ほどに見えるのは、龍夜殿の隣に立つための形がそうである、というだけの話です」
俺はしばらく瞬きすらできなかった。
いや待て。
待て待て待て。
余計ややこしくなった。
「そ、それ先に言ってくださいよ!」
「聞かれませんでしたので」
「そういう問題じゃないでしょう!」
俺が頭を抱えると、高位神官は少しだけ困ったように微笑んだ。微笑むな。こっちは崖っぷちだ。
「アストリアでは、魂の格や顕現の形が重要であって、数字としての齢をことさらに気にする文化は薄いのです。ゆえに、龍夜殿のお悩みは、正直なところ、こちらの感覚ではとても新鮮で」
「新鮮って言わないでください。俺は真剣なんです」
「存じておりますとも」
絶対ちょっと面白がってる。
俺は額を押さえた。現代日本に戻しても混乱、アストリアの理屈に寄せても混乱。どちらへ転んでも、俺だけが勝手に苦しんでいる図になる。だが苦しいものは苦しい。胸の奥に引っかかった棘みたいに、どうしても無視できない。
「俺の父さんと母さん、付き合い始めたの十代だったんです」
気づけば、そんな話が口からこぼれていた。
高位神官は黙って聞いている。
「最初はただの恋人同士で、でも結婚できる年齢までは待って、それまで一緒に住んでて。母さんが朝、玄関で“行ってらっしゃい”って言うと、父さんはいつも振り返って、軽くキスしてから仕事に行ってた」
記憶の中の朝は、少しだけ眩しい。トーストの焼ける匂い、テレビの天気予報、父さんのネクタイの結び目を直す母さんの指先。子どもの頃の俺は、それを妙に当たり前の景色として見ていた。あの頃は、そういう触れ方が大人のものだと、深く考えなくても知っていたのだと思う。
そしていま、その景色が、ここへ来て急に輪郭を持った。
俺とミユウが並ぶとき、たぶん俺の中では、あの“当たり前の景色”に似た何かがどこかで重なってしまう。
だからこそ、無邪気なスキンシップを無邪気なまま受け取れなくなった。受け取った瞬間、別の意味を帯びてしまう自分がいる。
最低だ、と思う。
けれど、思ってしまったものは消せない。
「だから俺は、いまのまま何でも平気みたいな顔してるの、たぶん無理です」
言った瞬間、胸のあたりが重く沈んだ。認めたくなかった本音だった。
「ミユウに抱きつかれたり、手を繋がれたりするのが嫌なんじゃない。嫌どころか……」
そこで言葉が詰まる。喉の奥が熱い。続きを口にしたら、たぶん俺自身がいちばん困る。
高位神官は急かさない。ただ、静かな目で俺を見ていた。円窓からの光がその睫毛に白く乗り、羽根の縁を淡く透かしている。やっぱりこういう人の前だと、取り繕いが効かない。
「……平気じゃ、なくなるんです」
ようやく絞り出した声は、情けないくらい小さかった。
高位神官は数拍の沈黙を置いてから、ふっと息をついた。
「なるほど。ようやく理解いたしました」
「ほんとですか?」
「はい。龍夜殿は真面目すぎるうえに、きわめて健全なのですね」
「褒められてる気がしない」
「最大級に褒めておりますよ」
やめてほしい。こっちは死にそうだ。
俺は視線を逸らし、講義室の後ろをまた見た。ミユウはまだこちらを見ている。泣きやんではいるが、目元の赤みは消えていない。胸の奥が、また鈍く痛む。
あの顔をさせたくなかった。
なのに、たぶんこれから俺が口にする提案は、もっとあの子を傷つけるかもしれない。そう思うと、足が重い。だが言わなければ、また同じことになる。何も説明しないまま拒めば、そのたびにミユウは傷つく。
だったら、いま、ちゃんと線を引くしかない。
俺はゆっくり息を吸い、吐いた。胸郭の内側で心臓が固く打つ。間。圧。逃げるな。ここだ。
「……高位神官」
「はい」
「俺、ミユウに話してきます」
「ええ。ですが、あまり難しい理屈を並べずに。あの方は、龍夜殿が思うよりずっと、龍夜殿の声色に敏感です」
その助言が、妙に胸へ落ちた。声色。たしかにそうだ。言葉を整えることばかり考えていたが、たぶんあの子は内容より先に、俺が自分を遠ざけたことを感じ取ってしまったのだ。
俺は小さく頷き、席へ戻った。
一歩進むごとに、講義室の空気が濃くなる気がした。石床を踏む靴音、風に鳴る薄い飾り布、どこか遠くで鳴いた鳥の声。ミユウの前まで来ると、その銀髪が光を反して、泣いたあとの瞼がまだ少しだけ腫れているのがわかった。胸が締まる。
俺は隣に座り直し、しばらく言葉を探した。
すぐには話さない。まず呼吸を整える。拳を膝の上で開く。指先に力が入りすぎて白くなっている。気づかれたくないのに、たぶんもう気づかれている。
「ミユウ」
今度は返事があった。
「……うん」
かすれた、小さな声だ。
その一音で、俺の決意が少し削られそうになる。だめだ。ここで揺れたら、余計に苦しませる。
「さっき押し返したのは、嫌だったからじゃない」
ミユウは黙っている。俺は続ける。
「むしろ逆で、平気じゃなくなったからだ」
睫毛が震えた。顔は上がらない。でもちゃんと聞いている。
「俺のいた世界には、年齢とか、そういうのにうるさい決まりがあってさ。たぶん、そのせいで急に頭がぐちゃぐちゃになった。変なこと言ってるのはわかってる。ここはアストリアだし、日本じゃない。でも、俺の中にあるものまで、いきなり全部消せるわけじゃない」
声が少しずつ低くなる。自分でも、言い訳くさいと思う。だがそれでも、嘘は混ぜたくなかった。
「だから、提案がある」
そこで一度、息を止めた。
提案。
その言葉に、先に自分の胸がきしむ。ほんの少し前まで、ミユウが腕を絡めてくることも、距離も、ぬくもりも、どこかくすぐったく受け流していられた。いや、受け流していたつもりだった。いま思えば、受け流せてなんかいなかったのだ。ただ見ないふりをしていただけで。
見てしまったら、もう戻れない。
「……俺が十八になるまで」
言葉が、口の中でひどく重い。
「その、抱きついたり、そういうのは、なしにしよう」
言い切った瞬間、胸の真ん中へ冷たい刃物を差し込まれたみたいだった。
言ったのは俺なのに、いちばん衝撃を受けているのも俺だった。




