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異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため、最強の勇者目指します〜サイドストーリー1〜  作者: 東雲 明


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第2話 おかえりなさいの、その先で

「羽化……浮遊……羽のある赤ん坊……」


 自分の声が、自分のものに聞こえなかった。喉の奥で乾いた音になって転がるその単語だけが、朝から何度も叩き込まれた祈祷書の一節みたいに頭蓋の内側へ貼りつき、石造りの回廊を一歩進むたび、遅れて俺の背中へ落ちてくる。


 足は鉛でも括りつけられたみたいに重いくせに、膝だけは妙に頼りなく、少し床の継ぎ目を踏み損ねただけで身体ごと前につんのめりそうになった。


 高位神官の低くよく通る声がまだ耳の奥に残っている。


 羽の生え始める時期には個体差があるだの、浮遊癖の見分け方だの、寝返りと羽ばたきの違いだの、そんなもの、今の俺には全部まとめて白い霧だ。


 理解しきれなかった言葉だけが、ぐるぐるとかき混ぜられたスープみたいに頭の中で湯気を立てていた。


 朝、まだ空の青みも薄い時間に布団を剥がされてから、俺はずっと追い立てられていた。


 講義室に並ぶ分厚い書物、卓上に広げられた育児記録、羽根の構造図、天使族の乳幼児に見られる習性一覧。


 高位神官の指先が紙を叩くたび、乾いた音が胸の奥まで響き、俺の返事はそのたび半拍遅れた。


 昼に口へ押し込んだパンは砂みたいに喉へ引っかかり、水で流し込んでも胃の底に固いまま沈んでいる。


 眠気はとっくに通り過ぎていて、いま身体を動かしているのが気力なのか意地なのか、それすら曖昧だった。ただ、逃げたら次は倍になる、とあの神官の目が物語っていたから、倒れずについていっただけだ。


 ようやく自室の前まで辿りついたときには、扉の金具に触れた指先までじんとしていた。


 冷えた真鍮の感触が皮膚へ張りつき、そこで初めて、俺は自分がずっと肩に力を入れっぱなしだったことに気づいた。


 息を吸う。肺の奥が浅く軋む。吐く。重い。もう何も考えたくない。ただこの扉の向こうへ転がり込んで、靴も脱がずに寝台へ沈みたかった。


 なのに頭の奥ではまだ、高位神官の声が律儀に続きを始める。羽化の兆候。浮遊時の対処。羽のある赤ん坊。やめろ、せめて部屋に入るまで黙ってくれ、と念じながら、俺は扉を押した。


 蝶番が静かに鳴り、わずかに開いた隙間から、あたたかい匂いが流れ出てきた。


 干した布の清潔な香りに、石鹸のやわらかな泡の名残、それからほんの少し、甘い花の気配。


 ついさっきまで講義室に満ちていた古い羊皮紙とインクの匂いが、鼻の奥で一気に押し出される。そこでようやく、俺の視界がゆっくり焦点を取り戻した。


 ――朝、確かにここは戦場だった。


 脱ぎ散らかしたシャツが椅子の背に片腕だけ引っかかったまま揺れ、昨日のうちに脱いだジャケットは床へ半ば落ち、寝台の端から毛布がずるりと垂れていた。


 机には読みかけの本と紙片が重なり、窓辺には飲みかけの水差し。そんな光景を、俺は朝、半分閉じた目で見た記憶がある。あるのに、今、目の前にあるのは別の部屋みたいだった。


 床には埃ひとつ見当たらない。窓から差し込む夕方前の薄金の光が板張りを滑っても、細かな塵はひとつも浮かず、磨かれた表面が静かに艶を返すだけだった。


 椅子へ引っかかっていたはずのシャツは、皺ひとつなく折り目を揃えて棚の端に置かれ、ジャケットも下へ薄い布を敷かれた上で整然と畳まれている。


 寝台は乱れの名残すらなく、白いシーツがぴんと張られ、枕まで軽く叩かれたようにふくらんでいた。


 机の紙片は大きさ順に揃えられ、本は背表紙をこちらへ向けて重ね直されている。乱雑さという乱雑さが、まるで最初から存在しなかったみたいに消えていた。


 俺は扉を開けたまま、しばらく立ち尽くした。


 疲れすぎると、人は現実をうまく受け取れなくなるらしい。高位神官の講義内容より、そっちのほうがよほど切実な学びだった。


 見慣れた自分の部屋なのに、足を踏み入れていい場所か一瞬ためらう。床を汚したくない、と思ったのか、ここへこんなふうに手を入れてくれた相手の手間を崩したくなかったのか、自分でもわからない。


 ただ、張りつめていた何かが胸の内側でわずかにほどけ、その隙間へ、どうしようもなくやわらかいものが流れ込んできた。


 そのときだった。


「あなた、おかえりなさい」


 声は窓際のほうから届いた。鈴を鳴らしたような、けれど耳障りな軽さのない、澄んだ響き。


 はっとして顔を上げると、薄いレースのカーテンが風に揺れる向こうから、ミユウがこちらへ歩いてくるところだった。


 白い衣の裾が、彼女の足取りに合わせて静かに波打つ。磨かれた床へ陽が落ち、その反射が彼女の銀の髪を淡く照らしていた。


 肩より下へ流れるその髪は、さっきまで丁寧に動いていた手の名残か、毛先まで整っていて、窓から入り込む風に撫でられるたび、細い糸のような光を散らす。


 大きな白い羽も、今日はどこかいつもよりやわらかく見えた。掃除や洗濯を終えたあとの、少しだけ袖を捲った腕。


 頬にはほんのり赤みが差していて、目元は澄んでいるのに、それだけで部屋の空気が明るくなる。


 見つけた瞬間に瞳がきらりとほどける、その変化だけで、何時間も石の椅子へ座らされていた身体の芯が音もなく緩んでいく。


 俺は何か返そうとして、しかし口の中に言葉が見つからなかった。


 疲れた、でもない。助かった、でもない。きれいだ、は喉まで出かかったが、そんな一言で済ませたら、今この部屋を満たしているもの全部を取りこぼしそうだった。


 畳まれた衣服も、磨かれた床も、洗いたての布の匂いも、俺を見て細められたその瞳も、どれもひとつの線で結ばれている。その中心に立っているのが彼女だとわかった瞬間、胸の奥で熱がふっと灯り、それが上手く言葉にならないまま、ただ息だけが浅く揺れた。


 ミユウはそんな俺の沈黙ごと受け取るみたいに、ふふ、と小さく笑った。


 優雅、という言葉は本来、もっと遠くから眺めるものに使うのかもしれない。


 けれど彼女の歩き方は、近づいてくるほど、その言葉の意味を塗り替えていく。背筋はまっすぐで、けれど硬さがない。


 つま先が床へ触れるたび、裾がわずかに遅れて追いつき、その流れに羽先が呼応する。貴族の娘のようでもあり、神殿の彫像みたいでもあり、それでいて俺の名前を呼ぶときだけは、たった今見つけた宝物へ駆け寄る子どもみたいに無防備だ。その落差に、いつも心臓の拍子を狂わされる。


 彼女は俺のすぐ前まで来ると、少しだけ背伸びをした。


 あ、と思ったときには、やわらかな感触が頬に触れていた。


 羽が触れたのかと錯覚するくらい軽いのに、唇のかすかな熱だけが妙に鮮明だった。石の講義室で冷えきった皮膚へ、小さな灯をそっと押しあてられたみたいに、そこからじわりと熱がひろがっていく。


 甘い花の香りがふわりと近づき、まつげの影が視界の端をかすめ、離れていくまでのほんの一瞬が、やけに長く感じられた。


「……っ」


 驚いて息を呑んだ拍子に、俺は半歩ぶん後ろへよろけた。


 疲労で足元がふらついていたところへ不意打ちでそれだ。


 情けないことに身体が受け止めきれず、そのまま背後の壁へ後頭部をしたたかぶつける。鈍い音が室内へ響いた瞬間、火花が散るような衝撃がこめかみへ走った。


「いッ……!」


 壁に手をついて踏みとどまる。視界が一度だけ白く弾け、それから遅れて痛みがずしんと降りてきた。


 せっかくほどけかけていた緊張が、今度は別の意味で一気に目を覚ます。よりにもよって何をしてるんだ俺は。 


 講義で叩き込まれた育児知識のどこを探しても、「妻の出迎えの口づけで狼狽し壁へ頭をぶつける十七歳の対処法」なんて載っていない。


「あなた!」


 ミユウの声が弾けた。


 さっきまで笑みを乗せていた瞳が一瞬で見開かれ、白い手がまっすぐ俺へ伸びてくる。細い指先が、傷を確かめるように空中でふるえた。


 彼女は俺の額と後頭部のあいだ、どこへ触れればいいのか迷うみたいに両手を持ち上げ、そのまま、いつもの癖で癒しの祈りを紡ごうとしたのだろう、唇が小さく動きかける。


 だが、次の瞬間、その手がぴたりと止まった。


 目の前で、時間だけが不自然に止まる。


 さっきまで迷いなく伸びてきた手が、俺に届く寸前で空を掴んだまま震えている。指先がわずかに丸まり、白い喉が小さく上下し、長いまつげが落ちた。


 彼女の顔から血の気が引くのが、夕方の光のなかでもはっきりわかった。胸の奥で何かが冷たく縮む。


「ミユウ?」


 呼びかけると、彼女ははっとしたように視線を揺らし、それでも手を下ろせないまま、掠れた息をひとつ吐いた。


「……わたし」


 それだけ言って、続きが詰まる。


 唇の端がかすかに震え、けれど泣きそうな顔を作るまいとするみたいに、彼女は奥歯を噛んだ。


 白い指先はまだ中途半端に上がったままで、その宙ぶらりんな形が、触れたいのに触れられない気持ちをそのまま晒しているようで、見ているこっちの喉まで締めつけられる。


 やがて彼女は、その両手を胸元へゆっくり引き寄せた。指と指をきつく組み、羽の付け根がわずかにすぼむ。


「わたしの癒しの力は、魔王を倒す時、全部……使ってしまったから」


 そこで一度、声が切れた。


 窓から入る風がカーテンを揺らし、その影が彼女の頬を横切る。俯いた睫毛の先に、光が細く引っかかった。


「ごめんなさい」


 その一言は小さかったのに、壁へ頭をぶつけた痛みより深く刺さった。


 まただ。


 そう思った瞬間、頭の痛みなんてどうでもよくなった。俺はまた、この人にそんな顔をさせた。


 癒せないことを、足りないことを、できなくなったことを、自分の責任みたいに抱え込ませてしまった。


 あの戦いのあと、彼女が失ったものがあることは知っていた。知っていたはずなのに、いざこうして目の前で手を止めさせてしまうと、理解していたつもりの事実が刃みたいに向きを変える。


 俺の頭へ触れられなかった彼女の手は、いま自分の胸元で強く組まれている。その指先に白く力がこもっているのを見た途端、身体が先に動いた。


「そんな顔するな」


 掠れた声が出るのと同時に、俺は彼女の腕ごと引き寄せていた。


 華奢な身体が、思ったよりあっさり胸のなかへ収まる。


 掃除をしたあと特有の清潔な匂いに、彼女自身の甘い香りが重なり、鼻先をかすめた。


 細い肩。背に触れる羽のやわらかな抵抗。抱きしめた拍子に布越しの体温が伝わり、その熱が、さっき頬へ残った口づけの熱とつながる。彼女は一瞬だけ息を呑み、それから壊れものみたいにそっと、俺の服を掴んだ。


 細い指が背中の布をつまむ。


 たったそれだけの力なのに、胸の奥へ直接触れられたみたいに苦しくなった。


「ごめんなさい、じゃない」


 自分でも驚くほど、声が低く出た。


「頭ぶつけたのは俺だし、そもそも……おまえのせいじゃない」


 言葉は拙かった。こんなとき、もっと気の利いたことを言える男ならいいのにと、毎回思う。


 だが、胸のなかで震えているこの身体へ向かって、飾った言葉を並べる気にはなれなかった。彼女は真っ直ぐすぎる。だからこそ、曖昧な慰めでは届かない。


 届いても、あとで自分を責める材料に変えてしまう。なら、俺が欲しいのはこれだと、手のひらの強さで伝えるしかなかった。


 ミユウの額が、そっと俺の胸へ触れる。


 沈黙が落ちた。


 遠くで誰かの足音が回廊を横切った気がしたが、すぐに遠のき、部屋にはカーテンの擦れる音しか残らない。


 彼女の呼吸が、最初は浅く乱れていたのに、少しずつ俺の胸の上下へ重なっていく。そのわずかな変化を感じるたび、抱く腕へ意識が集中した。


 壊さないように、けれど離れてしまわないように。甘さと、切実さと、どうしようもない惜しさがひとつになって、腕の内側へ熱をつくる。


 十七歳の俺には、まだ慣れないことが多すぎる。


 剣を握ることより、戦うことより、この人に「あなた」と呼ばれることのほうが、ずっと心臓に悪い。


 名前ひとつで、こんなにも居場所を与えられるなんて知らなかった。しかもその呼び方をするのが、俺の部屋を整え、帰りを待ち、頬へ口づけて、いまは胸の内で小さく身を寄せている相手だ。


 勉強会で詰め込まれた知識のどれよりも、このぬくもりのほうがずっと俺を無力にする。


 腕のなかで、ミユウが小さく動いた。


 俺の胸へ頬を寄せたまま、ためらうように顔を上げる。近い。近すぎる。銀のまつげの一本まで見える距離で、彼女の瞳がそっと揺れた。さっきの翳りはまだ残っていたが、その奥に、別の光が灯りかけている。


「……でも、わたし」


「うん」


「あなたが痛そうにしてるの、いや」


 その「いや」は、感情を飾るための言葉じゃなかった。喉の奥から零れた、ほとんど吐息みたいな音。


 そこに滲んだ切実さで、十分すぎるほど伝わる。俺は返事の代わりに、彼女の背へ手を回し直した。羽根の付け根を避けるように撫でると、彼女の肩から少しだけ力が抜ける。


「もう大丈夫だ」


 本当に大丈夫かと聞かれれば、頭はまだ痛い。高位神官の講義内容もきっと明日の朝にはまた俺を追い回す。


 羽化だの浮遊だのという単語も、当分夢に出るだろう。それでも今ここで欲しい答えは、そういうことじゃない。彼女の中に残った棘を抜くなら、この一言以外になかった。


 ミユウは俺を見つめたまま、ほんの少し唇を噛んだ。


 それから、胸元で握っていた手をほどき、今度は恐る恐る、俺の服ではなく、背中へ回してくる。


 細い腕が腰のあたりで重なった瞬間、息が止まりそうになった。抱き返してくる力は控えめなのに、その遠慮が、かえって俺のどこかを直撃する。甘いのに、胸の奥がじくりと痛む。触れ合っている場所が増えるほど、失いたくないものの輪郭が鮮明になるからだ。


「あなた」


「……ん」


「今日も、おつかれさまです」


 囁くような声だった。


 労わるために言ったその短い言葉に、朝から積み上げてきた疲労が一気に形を持つ。


 講義室でこらえていた重さが、今さら身体のあちこちから浮かび上がってくる。足の裏、肩、首筋、目の奥。どこもかしこも鈍く痛い。けれど、その全部を抱えたままでも、今は倒れずにいられる気がした。胸のなかにいるのが彼女だからだ。


 俺は彼女の髪へ頬を寄せた。


 やわらかい。洗いたての布みたいにさらりとしているのに、触れるとすぐ体温を移してくる。


 息を吸うたび、花の匂いに混じって、ほんの少しだけ日だまりみたいな匂いがした。掃除をし、洗濯をし、整え、待っていてくれた時間そのものが、彼女の髪や指先に残っているようで、胸の内側がじんとあたたまる。


「……ミユウ」


 名前を呼ぶと、腕の中で小さく反応が返る。


 何から伝えるべきか迷った。部屋を綺麗にしてくれたことか。待っていてくれたことか。頬にくれた口づけか。ごめんなさいなんて言わなくていいことか。どれも言いたいのに、どれかひとつを選ぶと、残りが零れ落ちそうだった。だから結局、一番ごまかしの利かない言葉が残る。


「愛してる」


 口にした途端、胸の奥が熱くなる。


 派手な言い回しじゃない。上手い比喩もない。ただ、それ以外で届く気がしなかった。俺の腕の中にいるこの人へ、今この瞬間に嘘なく渡せるものを探したら、そこへ行き着いた。


 ミユウの身体がぴくりと震え、次の瞬間、抱きつく力がわずかに強くなる。胸元へ触れていた彼女の額が、もっと深く俺へ寄った。


 言葉の代わりに返ってきたその力が、たまらなかった。


 俺は片手で彼女の後頭部を包む。崩したくなくて、けれど近くに置きたくて、指先だけで銀の髪を撫でる。


 ミユウは目を閉じたのだろう、まつげが頬へ影を落とし、そのまましばらく動かなかった。窓の外では夕方が少しずつ傾き、差し込む光が金色からやわらかな橙へ変わっていく。整えられた部屋の静けさのなか、俺たちの呼吸だけがゆっくりと重なっていた。


 勉強会は、明日も続く。


 高位神官はきっと容赦しないし、俺の頭の中を占領した「羽化……浮遊……」の呪文も、そう簡単には消えてくれない。けれど今だけは、そんなものを考えなくていい。考えたところで、この腕の中のぬくもりより大事なものなんてひとつもない。


 俺はミユウを離さないまま、整えられた寝台のほうへ視線をやった。


 白いシーツが夕暮れを受けてやわらかく染まり、今日という一日の終わりを、静かに待っている。胸の奥でまだくすぶっていた疲労が、その光景に触れてゆっくり沈んでいく。


 今夜くらいは、講義も神官も忘れていい。


 そう思いながら、俺はもう一度だけ彼女を抱く腕に力をこめた。彼女も何も言わず、ただそこにいた。言葉を足さなくても、それで十分だった。窓の外の風が羽先をかすめ、レースの影が床を渡り、静かな部屋の真ん中で、俺たちだけの夜が、音もなく深くなっていった。

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