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異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため、最強の勇者目指します〜サイドストーリー1〜  作者: 東雲 明


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第1話 花嫁修行は順調、夫は今日も動揺中

「異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します」のサイドストーリーシリーズ、結婚した龍夜とミユウのその後が覗ける、サクッと読める番外編シリーズです。

 朝の光は、天界アストリアの石造りの回廊を、まるで祝福の名残みたいに白く磨いていた。


 昨夜、ようやく式を終えたばかりだというのに、寝台のぬくもりにしがみついていられるほど、この世界は俺に甘くない。


 磨き上げられた床に長い影を落としながら歩くたび、胸の奥でまだ馴染みきらない言葉がかすかに音を立てる。


 夫。父。どちらも剣より重く、なのに手元には、どう振ればいいのかさえわからないままの空白だけがあった。


 廊下の先では、朝靄を透かした大窓の向こうに、雲海が金色の縁を帯びて揺れている。


 神殿に仕える者たちはもう動き出していて、白衣の裾、祈りの鈴、薬草を干す匂い、規則正しく重なる足音、そのどれもが落ち着いた顔で一日を迎えているのに、俺だけが場違いな新兵みたいに肩へ力を溜め込んでいた。


 結婚した。守りたい相手と、ようやく並んで歩ける場所に立てた。


 なのに、胸の底で暴れているのは達成感じゃない。これから先、何を知らないまま転べば、誰を泣かせるのかという、形のない圧だった。


 しかも、その圧をさらに重くしているのが、今朝から始まるらしい“子育ての勉強会”である。


 勉強会、なんて柔らかい名前をつけているが、相手はアストリアの高位神官だ。祈りも薬学も礼儀作法も、人の一生の節目という節目に関わる連中が、昨日までただの高校生だった俺に向かって、今日から父親の基礎を叩き込むつもりで待ち構えている。


 剣なら振れる。敵が来れば前に出られる。けれど、赤ん坊の寝かしつけだの、体温の見方だの、授乳後に背を撫でる角度だのと言われた瞬間、俺の頭の中では、見たこともない地図が四方八方へ裂けていく。


 案内された部屋に入ると、長机の上にはすでに何冊もの分厚い書物が積まれていた。


 革表紙に金糸の題字、端が擦り切れた古い記録、白い羽根の意匠が押された薄い冊子、その隣には、なぜか人形まで座らされている。


 赤ん坊を模したものらしいが、頬は妙に艶めいていて、まぶたは閉じているくせにこちらを見ているようで落ち着かない。


 窓辺の香炉からは甘さを抑えた香が細く立ちのぼり、静かなのに、逃げ場だけがきっちり塞がれている部屋だった。


「おはようございます、龍夜様」


 そう声をかけてきた高位神官は、年齢の読めない男だった。白金の刺繍が入った法衣を寸分の乱れもなく着こなし、指先まで無駄がない。


 優しげに目尻を緩めているのに、机の上に並ぶ書物の量を見れば、今日が穏やかな午前で終わるはずがないことくらい、俺にもわかった。


「本日は、父となる御方としての初歩を学んでいただきます」


 初歩、と言われて視線が机をなぞる。初歩でこの冊数か。先が思いやられる、なんて言葉は軽すぎて、喉の奥で乾いた笑いにすらなりきれなかった。


「……よろしく、お願いします」


 自分でも情けないくらい硬い声だった。神官はそれを咎めず、淡々と最初の本を開く。


「ではまず、人間界の乳児と、天界由来の血を継ぐ乳児における睡眠周期の差異から」

「待ってください」


 思わず片手が出た。剣の稽古なら、いきなり構えに入る前に呼吸を整える時間くらいある。だがこの講義は違うらしい。開幕から心臓を刺しにきている。


「差異、って」

「はい」

「普通の赤ん坊と、天界の血を継ぐ赤ん坊で、寝る周期が違うんですか」

「違います」

「そこ、そんな即答なんですか……」


 神官は静かにうなずいた。俺は椅子に座ったまま、背もたれへ浅く体重を預ける。木の感触が肩甲骨に触れたのに、まるで休めない。


「天使の血を強く受け継いだ子は、光の満ち引きに反応して眠気の波が変化する場合があります。特に羽化前の微細な魔力反応が――」

「う、か?」

「羽化です」

「いや、待ってください、羽化って何ですか」

「羽の芽が定着し、霊脈に馴染む初期段階です」

「初めて聞きましたけど!?」


 机の上の人形が、急に得体の知れないものへ見えてくる。


 赤ん坊って、泣いて、眠って、抱っこして、ミルクを飲んで、そういうものじゃないのか。


 そこへ“羽化”なんて単語を混ぜられた途端、俺の知っている育児の輪郭が音もなく崩れた。


「ご安心ください。個体差があります」

「その慰め方、全然安心できないんですけど」

「加えて、初めて空中浮遊を起こす時期にも個人差が」

「浮遊もするんですか!?」


 思わず立ち上がりかけて、椅子の脚が床を擦る。高位神官は表情を崩さない。崩してほしかった。


 せめて少しくらい「冗談ですよ」と笑ってくれたら救いがあったのに、彼は真顔のまま頁をめくっていく。


 その指先の音が、判決文でも読まれているみたいに静かで重い。


 座り直し、額を押さえる。昨夜は確かに幸せだった。式のあと、ミユウが小さく笑って、俺の隣でそっと息をついた、


 その柔らかさは今も手のひらに残っている。けれどその延長線上に、“浮遊するかもしれない赤ん坊”の世話が待っていると誰が想像できる。


 俺は勇者を目指していたのであって、空中を漂う乳児を安全に回収する訓練までは受けていない。


「では次に、授乳後の抱き上げ方ですが」

「まだあるんですか」

「今からです」

「今から……」


 口の中に乾いた苦味が広がる。高位神官は人形を持ち上げ、首の支え方を示した。両手の位置、背を支える角度、胸元へ寄せる距離。説明そのものは丁寧だ。丁寧すぎて、かえって自分の手の雑さが浮き彫りになる。


「では、龍夜様も」

「俺が、ですか」

「もちろんです」


 もちろん、らしい。逃げ道はない。差し出された人形を、おそるおそる受け取る。軽い。


 けれど軽いくせに、壊してはならないものを抱えたとき特有の重みが、指の内側へすぐ滲んだ。


 首を支えろ、と言われた通りに腕を回す。脇を締めろ。胸元へ。視線は穏やかに。穏やかに、って何だ。顔まで試されるのか。


「少し力みすぎです」

「すみません」

「右肩が上がっています」

「はい」

「手首が硬いですね」

「はい……」

「そのままでは、抱かれている子が緊張します」

「はい……」


 剣の指南なら、もっと反発もできる。だが、抱いているのが赤ん坊を模した人形である以上、乱暴に返すわけにもいかない。


 訂正されるたび、腕の置き場がわからなくなる。緊張しているのは人形じゃなく、どう考えても俺の方だった。


「背中を、一定の間隔で撫でてみてください」

「こう、ですか」

「もう少し柔らかく」

「柔らかく……」


 硬い指先で人形の背をなぞる。情けない。魔物の急所を見抜くより難しい。神官は俺の手元を見てから、静かな声で言った。


「龍夜様は、守る時には前へ出られる御方でしょう」

「……まあ」

「ですが、幼子に必要なのは、強さを見せることではありません。力を抜いた手が、いちばん深く届く場面もあります」


 その言葉だけが、妙にすっと入ってきた。胸の中央に、細い針が落ちるみたいに。


 俺は人形を見下ろす。目を閉じたままの顔。小さな額。喋らないのに、壊れやすいものを預けられた時の沈黙だけは、やけに本物に近い。


 力を抜いた手、か。


 剣を握る時、俺はずっと、こぼさないために力を入れてきた。守るっていうのは、歯を食いしばって立ち続けることだと思っていた。


 けれど子どもに向ける手は、それだけじゃ駄目なのかもしれない。強く握ればいいわけじゃない。


 振り上げるわけでもない。ただ、落とさず、怯えさせず、安心させるように包む。そう考えた瞬間、自分の不得手が、嫌になるほどはっきり見えた。


 講義はそれからも続いた。体温の測り方。泣き声の違い。夜泣きへの対処。人間界では布で包むと落ち着く子が多いこと。天界の血を継ぐ子は羽根の根元へ余計な圧をかけない方がいいこと。


 月齢ごとの発達。祝福儀礼の準備。乳児用の薬草茶は希釈を誤るな、だの、夜半に高熱を出した場合の神殿への合図だの、文字だけなら読めるのに、それが現実の誰かに繋がった途端、ひとつ残らず責任の重さを帯びて襲ってくる。


 気づけば机の上には、俺が書きつけた走り書きが散っていた。文字は歪み、線は何度も引き直され、要点を写したはずなのに、あとで見返したら自分でも理解できる気がしない。


 肩がこる。首筋が張る。窓から差し込む昼の光が少しずつ角度を変え、机の端を白く焼いていく頃には、頭の中で人間界の知識と天界の知識が正面衝突を起こし、もう何が常識なのかもわからなくなっていた。


「つまり……」

 俺は乾いた喉をひとつ鳴らした。

「人間界では、赤ん坊は布にくるむ。でも天界の血が強い場合は羽根の根元に注意。眠りの周期は光の影響もあるかもしれない。場合によっては、浮く」

「概ね、その通りです」

「概ね、で済ませていいんですか、それ……」


 神官は目を伏せ、わずかに笑った。初めて、人間らしい気配が見えた気がした。


「最初から完璧である必要はありません」

「そう言われても」

「学び続けることをやめなければ、子は育ちます。ひとりではなく、周囲を頼りながら」

「……頼る、か」


 その言葉に頷ききれないまま、俺は椅子の背へ深くもたれた。


 頼ること自体は嫌いじゃない。ただ、誰かを守ると決めたあとで、自分が何も知らない側に立たされるのは、思っていた以上に居心地が悪い。  

 

 掌の内側が、じっとり汗ばんでいる。恥ずかしさに近いものがあった。知らないことを知らないままにできた頃の方が、よほど気楽だった。


 講義が終わった頃には、さすがに足取りも重かった。書物を閉じる音が合図になり、ようやく解放されたはずなのに、肩へ乗ったものは少しも軽くなっていない。


 むしろ具体的になった分だけ厄介だった。漠然とした不安は輪郭を持った途端、逃げ道を塞ぐ。


 子どもは浮くかもしれない。眠りの波も違うかもしれない。羽根が生えるかもしれない。熱を出す夜も来る。泣き止まない朝も来る。その全部の前に、俺は本当に立てるのか。


 神殿の中庭へ出ると、風が少し冷たかった。高所を渡ってきた空気が噴水の水面を細かく揺らし、白い花弁をひとつ、石畳へ落とす。


 空は高い。高すぎて、かえって自分の小ささがよくわかる。俺は回廊の柱に背中を預け、深く息を吐いた。喉の奥がまだ、講義中に何度も飲み込んだ言葉でざらついている。


「あなた」


 その一言で、息が変なところへ引っかかった。


 聞き間違いかと思って顔を上げる。けれど、回廊の先に立っていたのは、間違えようもなくミユウだった。


 白を基調にした軽やかな衣に、薄い金の刺繍。肩から流れる銀髪が昼の光をひろって、輪郭だけ先に目へ入ってくる。


 その姿を見つけた瞬間、胸の奥が少しだけほどけたのに、次の瞬間には、さっきの呼びかけが遅れて効いてきた。


「……いま、何て?」

「あなた、です」


 言いながら、ミユウはごく自然な顔で俺の前まで歩いてきた。自然すぎる。ためらいが一切ない。


 むしろ、こちらが戸惑う方がおかしいとでも言いたげな澄ました目をしている。


「いや、聞こえはしたけど」

「龍夜くんの母上に教わったのです。夫のことは、そう呼ぶこともあると」

「ある、けど……あるけど、それをいきなり使うのか?」

「使ってはいけませんか?」


 小首をかしげられる。駄目じゃない。駄目じゃないが、心臓に悪い。式を終えた翌日に、そんな真っ直ぐ投げてくるものか普通。


 俺の戸惑いなんてまるで予想の範囲内らしく、ミユウはくすりと笑って、俺の手に抱えていた書物の束をのぞき込んだ。


「勉強会はどうでしたか、あなた」

「その呼び方、連発するのやめてくれないか」

「嫌です」

「即答かよ……」


 しかも少し楽しそうだ。完全にわかってやっている。頬のあたりがじわじわ熱くなるのを自覚しながら、俺は視線を外した。中庭の噴水がやけにきらきらして見える。助けてほしい。誰にとは言わないが。


「そんなに変でしょうか」

「変じゃない。ただ……慣れない」

「なら、慣れてください」


 言って、ミユウは胸の前で両手を合わせる。仕草だけ見れば、花嫁修行に励む理想の妻だ。実際、そうなのだろう。俺の母さんに何を教わったのか知らないが、この数日でミユウの中に“妻としての振る舞い”らしきものがどんどん根を張っているのがわかる。


 朝の挨拶、身だしなみ、所作の端々、言葉の選び方。もともと気品のあるやつではあったが、そこへ妙な方向の積極性まで加わった。


「それで?」

 ミユウが俺の顔を覗き込む。

「高位神官は、あなたをいじめましたか」

「言い方」

「だって、顔が少し疲れております」

「疲れてるのは否定しない」


 俺は持っていた書物の一番上を軽く叩いた。

「子育てって、もっとこう……抱っこして、寝かせて、泣いたらあやして、そういう感じかと思ってた」

「違ったのですね」

「全然違った」

「どのように?」

「赤ん坊が浮くかもしれない」

「はい」

「はい、じゃないんだよなあ……」


 あっさり頷かれて、こめかみを押さえる。ミユウは不思議そうに瞬きをした。


最高天使イリゼであるこいつにとっては、たぶんそこまで非常識でもないのだろう。だが人間界で育った俺からすると、話の前提が違いすぎる。


「羽根のこともあるし、眠る周期も光で変わるかもしれないし、抱き上げ方にも気をつけろって言われて、もう頭がぐちゃぐちゃだ」

「ふふ」

「笑うなよ」

「いえ、笑っているのではなく」

 ミユウは唇を柔らかく結び、それから少しだけ肩を揺らした。

「あなたが真面目に悩んでいるのが、なんだか……」

「なんだよ」

「嬉しいのです」


 その言い方はずるい。からかわれていると思っていたところへ、急にそんな顔をするから、言葉が続かなくなる。


 ミユウは視線を落とし、俺の手元の走り書きをそっと一枚摘まんだ。紙には、俺の乱れた字で“羽根の根元 圧迫注意”だの“抱く時は力を抜く”だのと、必死な跡だけが並んでいる。


「ちゃんと覚えようとしてくださっている」

「覚えないと困るだろ」

「はい。でも、そう思ってくださることが」

 そこでミユウは言葉を切り、紙を戻した。

「……とても、嬉しいのです」


 胸の奥が不意に静かになる。さっきまで頭の中で暴れていた講義の内容が、そこでようやく別の形を取った。


 ただ怖いだけじゃない。知らないことが多すぎて、立ちすくむしかないだけでもない。


 俺は、ちゃんと先を見ようとしている。こいつと、その先に生まれてくる命のことを、本気で考えている。情けなさも、焦りもあるけれど、それは逃げたいからじゃない。間に合わせたいからだ。


 ミユウはそんな俺を見上げたまま、今度は少し得意げに背筋を伸ばした。


「わたしも、本日は花嫁修行をしておりました」

「花嫁修行?」

「はい。お茶の淹れ方、衣類の整え方、季節ごとの献立、人間界での夫婦の朝の作法」

「最後のやつ、嫌な予感しかしないんだけど」

「朝は、夫を優しく起こすのだそうです」

「やめろ」

「まだ何もしておりません」

「しようとしてるだろ」

「明日から」


 宣言された。あまりにも堂々としていて、止められる気がしない。ミユウはさらに続ける。


「食事の好みも、もっと覚えたいです。龍夜くんの母上が、あなたは少し苦いものが苦手だと」

「余計な情報共有されてるな……」

「それから、疲れている時は額の辺りを撫でると、少しだけ眉間のしわが薄くなるとも」

「母さん……!」


 完全に筒抜けだ。抗議したいのに、ミユウが楽しそうなので勢いが削がれる。こいつはこいつで、妻になることを全力で受け止めているのだろう。


 教わったことをそのまま真似しているだけじゃない。自分の中へ取り込んで、嬉しそうに持ち歩いている。それがわかるから、否定しきれない。


「あなた」

「……だから、そのたびに心臓へ来るんだって」

「では、もっと呼んで慣らします」

「やめろって」

「あなた」

「おい」

「あなた」

「ミユウ」

「はい、あなた」


 負けた気がした。こめかみのあたりを押さえたままうずくまれば、ミユウが堪えきれないように笑う。


 その笑い声は鈴みたいに軽く、中庭の噴水より澄んで響いた。悔しいのに、つられて口元がゆるむ。さっきまで抱えていた重さが、その声に少しずつひび割れていく。


「そんなに楽しむなよ」

「だって、あなたのお顔が毎回違うのです」

「面白がってるじゃないか」

「可愛らしいのです」

「男に使う言葉か、それ」

「わたしにとっては」


 返す言葉が見つからない。風が抜け、ミユウの銀髪が肩の上でさらりと流れた。


 昼の光の中で、その横顔は不思議なくらい穏やかだった。最高天使イリゼだとか、神殿に愛されているとか、そういう遠い肩書きを全部脱いで、ただ俺の隣で新しい暮らしを始めようとしている顔だった。


 ミユウはふいに俺の袖へ指先を添えた。ほんの少し。引き留めるほどでもなく、離れているとも言えない距離で。


「大丈夫です」

「……何が」

「全部はすぐにわからなくても」

 細い声だった。けれど揺れない。

「わたしも、一緒に覚えます」


 その一言で、胸の奥に残っていた最後の硬さが、静かにほどけた。


 講義の内容は難しい。正直、まだ半分も飲み込めていない。


 これから先、また高位神官に叩き起こされるような勉強の日々が続くだろうし、実際に子どもが生まれたら、机の上の知識だけでは足りない場面がいくつも来るはずだ。泣き止まない夜も、慌てる朝も、自分の未熟さを思い知る瞬間も、たぶん山ほどある。


 それでも。


 ひとりで全部を背負わなければならないと思い込んでいた肩から、見えない手が一枚、重しを外したような気がした。


 守るのは俺だ。そう思う気持ちは変わらない。でも、並んで進むことまで拒む必要はない。


 隣には、こんな顔で笑ってくれるやつがいる。俺が知らないことを、先に身につけてしまいそうなやつがいる。しかも、たぶん明日から本気で「あなた」と呼び続けるつもりの、とんでもなく可愛くて容赦のない妻が。


「……先が思いやられる」

「はい?」

「いや」

 俺は息を吐き、持っていた書物を抱え直した。

「明日も勉強、頑張る」

「はい、あなた」


 まただ。


 即座に顔が熱を持つのがわかった。ミユウはそれを見て、花がこぼれるみたいに笑う。白い回廊、揺れる噴水、遠くで鳴る祈りの鐘。その真ん中で、俺はとうとう観念して、小さく肩をすくめた。


 たぶん、夫になるっていうのは、こういうことから始まるのかもしれない。格好よく決めるでもなく、何もかも知っている顔をするでもなく、知らないことに頭を抱え、からかわれ、赤くなって、それでも隣の手を振り払わずにいること。


 中庭を抜ける風は、朝より少しだけ柔らかかった。俺たちは並んで歩き出す。石畳へ重なる影が二つ、同じ速さで伸びていく。


 その先にどんな日々が待っているのか、まだ俺は知らない。


 知らないまま、それでももう、引き返す気はなかった。

お読みいただき感謝です。

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