表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため、最強の勇者目指します〜サイドストーリー1〜  作者: 東雲 明


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

最終話 未来が二人分

 扉を閉めた瞬間、背中に貼りついていた講義室の空気まで一緒に連れ帰ってきた気がして、俺はしばらくその場で動けなかった。


 高位神官の低く乾いた声、机に並べられた法典の重み、条文の端に爪を立てるたび白くなる自分の指先、その全部がまだ肩のあたりに乗っていて、首を回そうとするだけで骨の奥がきしむ。


 灯りの落ちた廊下から部屋へ漏れる橙色だけが妙に柔らかく、そこへ鼻先をかすめた匂いが、張りつめていた胸の内側へ不意に割って入った。


 炒めた玉ねぎの甘さに、肉の焼ける香ばしさが重なっている。


 湯気に溶けた胡椒の細い刺激、その奥に、煮込まれたソースの丸い匂い。


 腹の底が、勉強会の間じゅう忘れたふりをしていた空洞を思い出したみたいにきゅうと縮み、同時に、机へ肘をついて法律と格闘していたはずの頭の中へ、いきなり白いエプロンの姿が差し込んでくる。


 疲れで鈍っていたはずの足が勝手に一歩出たのは、その匂いに引かれたのか、それとも、こんな時間まで起きている相手の顔を見たくなったのか、自分でも判然としなかった。


部屋の中央では、卓上に小さな湯気の城みたいに夕食が並び、その向こうでミユウがこちらを振り向いた。


 袖を軽くまくった細い腕、白い指先についたソースの名残、火のそばにいたせいでほんのり上気した頬、揺れた髪の先にまで台所の灯りが絡みついていて、さっきまで法典の文字しか見ていなかった目には、それだけで眩しすぎた。


 しかも本人は、自分がどれだけ凶悪な罠を張っているか無自覚な顔で、胸の前に両手を寄せたまま小さく微笑むのだからたちが悪い。


「おかえりなさい、あなた」


 その一言で膝から力が抜けそうになり、俺は扉に手をついたまま、吐く息に長く遅れた熱を混ぜた。


 高位神官との勉強会で削られたのが気力なら、こいつはそれを回復させる薬で、同時に別の場所を確実に壊しに来る。


 今日もまた、それを理解しきる前に、柔らかな声が追い打ちをかけた。


「手を洗ってください。……その、今日は、あなたの好きなものを作ったんです」


 好きなもの、という言い方にわざわざ間が入ったせいで、皿の上の丸い焼き目が急に意味を持つ。


 近づけば、つやのあるソースをまとったハンバーグが湯気を上げ、その横に添えられた人参の艶や、丁寧に刻まれた青菜の緑まで、妙に愛嬌のある顔で俺を見上げていた。


 丸く整えられた形が少しだけ不揃いなのは、きっと途中で何度も確かめながら作った証拠で、そのへんまで見えてしまうと、腹が鳴るより先に喉の奥が変なふうに詰まる。


「……反則だろ、これ」


「反則ですか?」


 首をかしげる。羽根でも生えていそうな、じゃない、実際生えているのだが、その白さごと傾くものだから、余計にこっちの防御が薄くなる。


 俺は洗面台へ向かいながら、指先に残っていた紙とインクの乾いた感触を水で流した。冷たいはずの水が、頬のあたりだけ妙に熱い。


 鏡に映った自分は、十七歳のくせに一日で十年くらい老けた顔をしていて、思わず目をそらしたくなる。高位神官が最後に投げてきた問いがまだ頭の隅で燻っていた。


――法律と、ミユウ殿の笑顔。どちらが大切ですか。


 あの場で真顔のままそんなものを問うな。


 しかも周囲の神官見習いたちまで妙に咳払いをしたり筆を止めたりして、俺の答え待ちみたいな空気を作るな。


 法の授業だったはずなのに、どうして最後だけ人の寿命を縮める尋問になるんだ。俺は洗った手を拭きながら、記憶の中の重たい声を布ごと握り潰すみたいに指へ力を込めた。


 席に着くと、ミユウが嬉しそうに皿を寄せてくる。こつん、と陶器の触れ合う小さな音まで弾んで聞こえた。


「いただきます」


「はい。召し上がってください」


 切り分けた瞬間、肉汁がふっと滲んで、甘い香りがさらに立つ。


 口へ運べば、表面の焼き目がほどける音までしそうな柔らかさのあとに、肉のうまみとソースの深い甘辛さが舌へ広がった。


 刻んだ玉ねぎの気配が遅れて追いつき、噛むたびに温度ごと体へ落ちていく。空だった腹が驚いたみたいに動き、同時に、張りつめっぱなしだった肩の奥から少しずつ力が抜けていった。


「……うまい」


 それしか言えないのが悔しいくらい、うまい。ミユウはそれを聞くと、息をひそめていたのがほどけたみたいに肩を緩め、胸の前で指を組んだ。


「よかった……。少し焦がしそうになってしまって、何度も見てしまいました」


「この程度で焦げたうちに入るか。むしろちょうどいい」


「本当ですか?」


「嘘ついてどうする」


 そう返すと、ミユウは目を細め、椅子に座ったまま少しだけ身を乗り出した。


 机の向こうから向けられる視線がまっすぐで、食事どころじゃなくなる危険を含んでいるくせに、本人はまるで無邪気だ。


 俺は二口目を急いで口へ放り込み、まずは空腹を片づけることで平静を取り戻そうとした。だが、そういうときに限って、向こうは何かを胸の中にしまったまま我慢している顔をする。


「……あなた、今日、すごく疲れていますね」


「見ればわかるだろ」


「眉のあたりが、いつもより少しだけきついです」


 言われて、無意識に眉間へ触れそうになる手を止めた。そんな細かいところまで見ているのか。


 ミユウは俺の反応を見て、小さく笑う。からかわれているわけではないのに、妙に調子が狂う。


「高位神官との勉強会、そんなに大変だったんですか」


「大変なんてもんじゃない。法律ってのは人を守るためにあるんだろうけど、条文の数が多すぎて、読んでるうちにこっちの命が削られる。しかも最後に、とんでもないこと聞かれた」


「とんでもないこと?」


 俺はナイフとフォークを置き、今日一日の締めにふさわしくない問いを思い出して天井を見た。言うだけでもう一度くらい疲れそうだ。


「法律と、お前の笑顔、どっちが大切かって」


 ミユウが目を丸くする。次の瞬間、吹き出すのをこらえたせいで肩がふるえ、俺はますます不満そうに口を曲げた。


「笑うな」


「だって……そんなことを真面目に聞かれたんですか」


「聞かれた」


「それで、あなたは何て」


「答えられるか、そんなもん」


 答えたら終わりだ。法律と答えても地獄、ミユウと答えても別の地獄。しかもあの高位神官、俺が沈黙したのを見て、理解していないわけではありませんね、みたいな妙に含みのある顔をしやがった。理解させようとするな。俺はただ平穏に生きたいだけだ。


 だが、目の前の最高天使イリゼは、そのあたりの俺の死闘など知らず、むしろ面白いものを見つけた子どもみたいに頬を緩めている。危険だ。こういう顔のあとに、ろくでもない幸せが飛んでくる。


「でも」


 フォークを持ったまま、ミユウが視線を落とし、すぐにまた俺を見る。その間がいつもより少し長い。頬に灯りが透け、白い睫毛の影が揺れた。


「わたしも、今日、少しだけ……大事なお話を聞いたんです」


 ソースの香りで和らいでいた空気が、その一言で形を変える。


 俺は背筋を伸ばした。大事な話。午前中に何かあったのか。ミユウの手元を見ると、指先がグラスの縁にそっと触れたまま、離れるでもなく留まっている。ためらいと弾みが、同じ手の中に一緒にいるみたいだった。


「何だ」


「午前中に、予言者の方をお呼びして……お腹を診ていただいたんです」


 そこで初めて、椅子の背に預けていた体がまっすぐ前へ傾いた。


 予言者。そういう手があったのか、と思うより先に、胸の奥へ小さな金属音みたいなものが落ちる。


 あの胡散臭……いや、神殿公認だから胡散臭いと言うと怒られるが、とにかく独特な間の取り方をする老人の顔が脳裏に浮かび、同時に、まだ見ぬ子どもの輪郭が曖昧な光の塊として意識の奥に現れた。


「……それで」


 喉の奥がわずかに狭くなる。ミユウは俺の顔を見ながら、こぼれそうな笑みをなんとか整えるみたいに一度だけ息を吸った。


「男の子と、女の子――かもしれない、と」


 そこで言葉が切れた。切れたというより、わざと柔らかく置かれた。だが俺の頭の中では、その「かもしれない」が恐ろしく鮮明な形を持って跳ねた。


 男の子と女の子。


 つまり。


 二人。


 双子。


 一拍遅れて理解が足元から這い上がってきた瞬間、持っていたフォークの先が皿へ当たり、ちいさく乾いた音を立てた。


 食卓の灯りがぐらついたわけでもないのに、視界の中央だけ妙に遠い。


「……二人?」


「はい」


「二人って、あれか」


「はい」


「つまり、赤ん坊が」


「二人です」


 あまりにも嬉しそうに確定しかけた声で言うな。予言者の話はまだ“かもしれない”なんだろうが、


 お前の中ではもう祭りの準備が始まってるだろ。俺は椅子に座ったまま両手で顔を覆い、指の隙間から卓上の湯気を見た。さっきまで俺を癒やしていたハンバーグの匂いが、急に現実逃避のための煙幕へ役割を変える。


 浮かぶ。


 頭の中で、まず一人、ふわっと浮いた。あれだけでも十分大事件だ。


 まだ生まれてもいないくせに、なぜか頬の丸い赤ん坊が部屋の隅でゆらゆら空中散歩を始める。


 そこで終わればいいのに、もう一人、対角線の向こうから別のちいさな影が浮上した。


 しかも片方は笑いながら棚の上へ、もう片方は天井近くの梁へ向かっていく。


 俺が慌てて踏み台を持って走った瞬間、二方向から同時に泣き声が降ってきて、ミユウは「まあ」とか言いながら嬉しそうに手を伸ばし、俺だけがひとりで目を回す未来が、異様な具体性を伴って展開し始める。


「待て」


 思わず声が漏れた。


「待て、待て待て待て」


「あなた?」


「浮遊する赤ん坊が……二人も……?」


 口に出した途端、ぞっとするというより、頭痛の種が可視化されたせいで首筋が重くなった。


 赤ん坊は普通でも目が離せないと聞く。それが空を飛ぶ。しかも二人。片方を抱えた瞬間、もう片方が窓辺へ行く。


 ようやく取り押さえたと思ったら、抱いたほうが背中越しにぷかっと浮く。寝かしつけたはずの夜中、足元からふわりと何かの気配がして目を開けたら、月明かりの中で二つの小さな影が天井近くを漂っていたらどうする。俺は叫びもせず、その場で膝から崩れる自信がある。


「だいじょうぶです」


 何がだ。何を根拠に言っている。俺が顔を上げると、ミユウは目を輝かせたまま、両手を胸の前で組んでいた。


 完全にだいじょうぶ側の人間の顔だ。こっちは全然だいじょうぶじゃない。


「男の子と女の子なんて、すてきです。お部屋も、二人分、ちゃんと考えないといけませんし、お洋服も――」


「おい待て、そこまで話進んでるのか?」


「名前もです」


 早い。展開が。俺が今、頭の中で二体の浮遊物体に追いかけ回されている間に、こいつはもう名付けまで済ませようとしている。


「名前?」


「はい。呼びかける言葉は、早く決めておいたほうが、きっと――」


「いや、まず本当に二人かどうかの確認が先だろ」


「でも、一人でも二人でも、考えるのは楽しいです」


 その言い方があまりにも弾んでいて、叱るに叱れない。


 どころか、卓上の灯りを受けて笑う顔を見た瞬間、さっき高位神官に突きつけられた問いが胸の奥で嫌な精度を持ってよみがえる。


 法律か、笑顔か。そんなもの、疲れて帰ってきた部屋でハンバーグの湯気越しにこの顔を見せられたあとで、まともに天秤へ乗せられるわけがない。


 だがそれはそれとして、未来は恐ろしい。


 俺はこめかみを押さえ、無理やり別方向の想像を始めた。


 数年後。部屋の中を走る小さな足音が二つ。片方が椅子の下へ潜ったと思えば、もう片方は窓辺で羽根飾りをいじっている。ようやく片づけた積み木が、一方の突撃で崩れ、もう一方が笑いながらその上へ飛び


 ――飛ぶな、飛ぶなよ、という俺の制止も虚しく、空中からぺたぺたと無邪気な手が書棚へ届く。


 法典はやめろ。あれはやめろ。ようやく覚えた条文に歯形をつけるな。片方を追って廊下へ出れば、残った片方が背中へ飛びつき、ミユウはそんな騒ぎの中央で、困ったように笑いながらどう見ても楽しんでいる。


「……騒がしくなる」


 唇の端から、勝手に漏れた。騒がしいで済むか怪しい。


 戦場だ。いや、神殿内の安全を守る意味では災害に近い。歩く前から浮く可能性がある時点で育児書の前提が全部崩れている。


「にぎやかになりますね」


 対するミユウの声は、春先の風みたいに軽い。


 俺が抱えた頭の上から、楽しみですね、と続く。


 楽しみ。そう言えるのは、きっとそこにある混乱ごと愛しいものとして見えているからだろう。こっちは愛しいかどうかを考える前に、被害を最小限にする動線を組んでしまう。


「お前な……簡単に言うけど、二人だぞ」


「はい」


「一人泣いたら、もう一人も起きるかもしれない」


「はい」


「一人をあやしてる間に、もう一人が浮くかもしれない」


「はい」


「はい、じゃないだろ」


「ふふ」


 笑うな。そんな、音を立てないようにこぼれる笑い方で逃げるな。


 俺は肘をついて額を押さえた。けれど、押さえた手の下で、どうしようもなく熱いものがじわじわ広がっていく。


 絶望というには柔らかすぎるし、喜びと言い切るにはまだ準備が足りない。要するに、心臓の置き場がない。


 ミユウが椅子から立ち上がる気配がした。


 布がすれる小さな音、足音はほとんどしない。気づけば彼女は俺の横へ回り込み、触れるか触れないかの距離でそっと身を寄せていた。


 具体的な接触を避けるように、ただ、その温度だけが隣へ置かれる。白い羽の端が視界の隅でかすかに揺れ、石けんと夕餉の匂いが薄く混ざった。


「あなた」


 低く呼ばれる。顔を上げると、すぐ近くにある瞳がまっすぐこちらを見ていた。


 笑っている。だがからかっているのではない。その奥にある静かな明るさが、俺の混乱を無理やり鎮めるでもなく、そのまま受け止めるみたいに光っている。


「きっと、大丈夫です」


 またそれだ。だが今度は、さっきみたいに能天気に聞こえなかった。


 大丈夫だと言い張る根拠を並べるわけでもなく、未来を保証するでもなく、ただ一緒に立っているという形で差し出される言葉だからかもしれない。


「……何でそんな顔できるんだ」


「だって」


 ミユウは少しだけ視線を落とし、自分のお腹へ手を添えた。


 その仕草があまりにも自然で、思わず俺もつられて同じ場所を見る。まだ外からは何もわからない。けれど、そこに未来があるのだと、本人だけはもう確かに知っている顔だった。


「あなたの子ですから」


 返す言葉が喉で止まる。ずるい。そんな答えを持ち出されたら、俺の中で暴れていた浮遊赤ん坊二号まで一瞬で黙る。


 いや、黙ったのはほんの一瞬で、すぐにまた二人そろって空へ上がったが、それでもさっきまでの恐慌とは少し形が違った。


 俺の子。


 男の子かもしれない。女の子かもしれない。もしかしたら二人。


 泣く。笑う。飛ぶ。飛ぶな。いや、飛ぶのか。天使の血を考えれば飛ぶ可能性は高い。


 高いが、それはそれとして――そのどれもが、まだ見ぬくせに、胸の奥へ不思議なくらい重みを持って沈む。高位神官の条文よりずっと厄介で、ずっと逃げられない重さだ。


「名前、考えませんか」


 ふいにミユウが言う。もう来た。やはり来た。この女、立ち直りの早さがおかしい。いや、沈んでもいないのだろう。最初からずっと上機嫌のままここまで来ている。


「今からか?」


「今からです」


「気が早い」


「でも、楽しいです」


 言いながら、彼女は食卓へ戻り、小さな紙束と羽ペンをどこからか取り出してきた。


 準備がいいどころの騒ぎではない。つまり俺が帰る前から考える気満々だったな。しかも机の端には、すでに何か書きかけた跡がある。おい。


「まさか、お前もう一人で考えてただろ」


「少しだけです」


「少しの顔してない」


「あなたと一緒に決めたいので、途中で止めました」


 その言い方に、文句が半分ほど削られる。ずるい。今日はずっとそればかりだ。俺は深く息を吐き、椅子へ座り直した。逃げても無駄だとわかっている。だったら腹をくくるしかない。もっとも、腹をくくったところで、数年後の空中遊泳育児まで処理できるわけではないのだが。


「……仮だぞ」


「はい」


「本当に双子かどうか、まだわからないからな」


「はい」


「男の子と女の子ってのも、まだ“かもしれない”だ」


「はい」


 返事だけは妙に素直だ。そのくせ頬はぜんぜん隠しきれていない。嬉しさが灯りみたいに滲んでいる。


 俺は紙を一枚引き寄せた。インクの匂いが鼻先をかすめ、今度は法典ではなく未来のために文字を書くのだと思うと、さっきまでの疲れと同じ手でペンを持つことが少し可笑しかった。


「男の子と女の子、か……」


 口に出す。たったそれだけで、まだ会ったこともない二つの気配が、机の向こうにでも座っているみたいに空気の密度が変わる。ミユウは頷き、まるで秘密の話を共有する子どもみたいに声をひそめた。


「きっと、にぎやかです」


「それはもう確定なんだな」


「はい」


「お前が嬉しそうで何よりだよ」


「あなたは?」


問われて、答えが一瞬遅れる。嬉しい、と簡単には言えなかった。


 今の俺の中には、喜びと頭痛と責任感と、訳のわからない未来図と、守りたいものが増えてしまう重さと、全部がいっぺんに押し寄せている。


 けれど、それをそのまま言葉へすれば、たぶん一番大事なものからこぼれ落ちる。


 だから俺は、ペン先を紙へ当てる前に一度だけ目を閉じ、さっきの高位神官の問いへ、誰にも聞こえない場所で勝手に答えを置いた。


 法律は大事だ。たぶんこれからも必死で学ぶ。守るために必要だからだ。


 けれど、その先にあるのがこいつの笑顔で、まだ見ぬ子どもたちの明日なら、俺はきっと、条文を覚える手を止めずに、その笑顔の前へ帰ってくる。


「……忙しくなるな」


 ようやく出た言葉は、それだった。ミユウはうれしそうに頷き、椅子に座り直して、机の上へ紙を広げる。白い指先が余白を押さえる仕草まで弾んで見えた。


「はい。とても」


「今のうちに覚悟しとくか……」


「一緒にです、あなた」


 その一言で、重かったはずの未来が、ほんの少しだけ持てる形になる。


 俺は苦笑を飲み込みきれず、紙の端へ最初の文字を書いた。まだ仮の、まだ遠い、けれど確かにこちらへ近づいてくる名前の候補。


 窓の外では、夜風が神殿の回廊を静かに撫でている。部屋の中には食事の残り香と、インクの匂いと、ミユウの小さく弾む息遣い。


 高位神官との勉強会で乾ききっていた頭の中へ、今度はまったく別の騒がしさが流れ込み、俺はとうとう諦めたみたいに肩の力を抜いた。


 数年後、たぶん俺は本当に頭を抱えている。

 

 片方を追いかけ、もう片方を捕まえ、法典の角を噛まれる前に取り返し、夜更けに天井近くを漂う小さな影へ手を伸ばし、眠れないまま朝を迎える日も来るだろう。


 それでも、その中心でミユウが笑っているなら、きっと俺はまた同じようにため息をついて、同じように守るのだ。


 紙の上に並び始めた文字を、ミユウが嬉しそうに覗き込む。


 その視線の熱に、俺はわざとらしく咳払いをして、次の候補を書くふりをした。


――未来は、どうやら静かには来てくれないらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ