#02.灰の降る森
既にトラックは足を止めている。開け放たれた幌の向こうで、朝日を受けて草の露が光っているのが見えた。足音が近づき、一人の大人が温かいスープの入ったカップを目の前に置く。
「まぁなんだ、余計なことを言う輩もいるが…」
そんなことを言われても、どうする気にもなれず、無視を決め込む。
「生き残ったんだ。冷める前に飲め」
それだけ言うと、その人は他の生存者たちの手当てへと足早に戻っていった。
外からは、また話し声が聞こえてくる。
「昨日のは危なかったわね…」
「そうね。あの装甲車に乗ってた連中は全滅らしいけど、私たちに火が飛んでこなくてよかったわ」
うるさい。
「……聞いた? 八番車、昨日ので全滅だったらしいじゃない」
「最後尾のトラックのことね。でも二人は無傷って話よ。あの子たちも可哀想よね。見てくれる大人もいなくなったんですもの」
「今更だけど不思議よね。あれだけ酷かったのに二人だけ無傷なの。運が良かったにしても、他の人は皆即死よ? 不気味じゃない?」
「あの子たちがこっちのトラックに移るなんて話もあるみたいよ。……冗談じゃないわ。死神を連れてこられたら堪らないもの」
「そんなこと言わないの!」
うるさい。
「なんでお前らはトラックなんかで運ぼうと思ったんだ! 何のためについてきたと思ってる! 村に戻った方がマシだ!」
「まぁまぁ……私達もどのくらいの避難民が乗り込むことになるかわからないので、定員のある装甲輸送車は使えなかったんです。トラックならどれだけ人数がいても、なんとか押し込めますし…」
「押し込めるなんて、よく言えたもんだ! 昨日の襲撃だって、安全だとか言っていただろう?お前らが言ってることなんて信用できたもんじゃない!」
「……被害が最小限に済むよう、我々も全力を尽くしました。実際、人的被害が出たのは最後尾の車両だけで……」
「それが無能だって言ってるんだ! 運が悪けりゃ俺たちが標的だったんだぞ! 誰が責任を取るんだ!」
うるさい。
誰かが怒鳴り、誰かが力なく弁明している。軍らしき男の声も、疲弊しきってひび割れていた。
誰も間違ったことは言っていない。昨日、あの一瞬で集落のすべてが消えたことも。目の前の人たちが、生き残った人間を恐れることも。
気がついた時には、身体は勝手に動いていた。
血の匂いをごまかすように水洗いされただけの、不自然なほど広く空っぽな荷台。そこからサスペンションを軋ませないよう慎重に体重を移し、開け放たれた後部ゲートから音もなく外へ抜け出す。
誰もいない所へ、逃げるように足を踏み出す。背後に渦巻く「正論」から、一秒でも早く遠ざかりたかった。
その瞬間、背後から声が掛けられる。
「姉ちゃん? どこにいくの?」
足が止まる。あの子だ。
「……どこかに」
「早く戻ってきて」
乾いた土から目を逸らしたまま、短く息を吐いた。
「……ごめんね。わからないや、ごめん」
これ以上話す言葉が見つからなかった。足早にそこを離れる。あの子は驚いた顔をしているかもしれない。それとも呆気に取られているのかもしれない。それでも振り返る勇気は無かった。
行き先もなくただひたすらに歩き続ける。徐々に機械の音、人の声が遠ざかっていく。一面に降り注いでいた光も木の葉から少しだけ顔を覗かせるだけに至る。
腐葉土に深く沈み込んだ足を引き抜くたび、粘りつく泥が不快な音を立てる。行く手を阻むのは、何十年も前に倒れたまま苔に飲み込まれた巨木の骸だ。それを跨ごうとしてバランスを崩し、湿った樹皮に爪を立てる。苔から水が染み出し、手を伝って体に登ってくる。
なんとか体を引き剝がし、起き上がって溜息をつく。
───死神。
誰かがそう言った。否定する気力すら湧かない。
ただ妄想に浸っているだけではないか。
この体は、もはや死んでいるのではないか。
そうであって欲しい。そう思いたい。
今は何も見たくない。瑞々しいはずのウロコゴケの群生は、カサカサした灰色の塊にしか見えない。足元を這う甲虫の艶やかな翅も、ただの黒い石が動いているようだった。
腕には、先ほど倒木を跨いだ際に擦り剥いた跡がある。
手のひらの皮膚が剥け、そこからじわりと粘り気のある液体が滲んでいた。赤いはずの血も、ドロリとした濃いグレーの絵の具のよう。
痛みは意外と心地良く、泥でも塗ってしまいたいくらいだ。現実へ引き戻すような、引き留めるような、そんな気がした。
どれほど歩いたのだろう。
足裏に伝わる腐葉土の感触が、次第にスカスカとした頼りないものに変わっていく。
「……っ!」
その瞬間、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れだした。
音。ただ枝の折れた音だ。それだけなのに、なぜ。
空気を切り裂く金属音。焼けた鉄の臭い。赤い景色。あの夕暮れの地獄が蘇る。体は真っ赤に染まっていく。
どうしてこの光景を見せる。どうしてまた苦しめる。
───逃げなければ。
何処に?
わからない。
誰の指示も待たず、脚が勝手に地面を蹴った。
酸素が肺に届かない。喉の奥が引き攣り、無理に息を吸おうとして、喘鳴が漏れる。視界の端がチカチカと明滅する。
行く手を阻むシダをなぎ倒し、枯れ木の骨格に肩をぶつけながら、ひたすら前へ突き進む。
ぐちゃぐちゃに濁った思考が、ただ此処ではないどこかへ自分を追い立ててくる。
不意に木々が途切れ、平坦な空間が開けた。
縋り付くように踏み出した一歩。それは地を踏まない。
地表を覆う灰色の土が、音もなく崩れ落ちる。
「あ――」
無重力。そして、全身を串刺しにする鋭利な熱。
腰まで熱い灰の中に沈み込み、激しい衝撃が脳を突き抜ける。
「えっ、……あああああぁぁぁ!!」
喉が焼ける。息ができない。
熱い。熱い。熱い。
皮膚が焼ける。肉が焦げる、圧倒的な現実の感触。
恐怖も混乱も、一瞬で焼き尽くされた。
必死に、まだ焼け落ちていない周囲の土を掻く。爪が剥がれ、指先が泥と熱灰にまみれる。それでも体は勝手に動いた。
這い上がった先で、地面に這いつくばり、激しく咳き込む。
肺に溜まった熱い空気を吐き出すたび、視界を覆っていたモノクロの霧が少しずつ形を変えていく。
振り返ると、先ほどまで平坦だった地面がすり鉢状に陥没していた。
その底には赤い炭のようなものがおびただしく広がり、揺らぐほどの熱気と白煙を上げている。どうして地下が燃えているのか。
思考が鈍くなる。足の痛みに呻きながらその場に倒れこむ。これ以上は動けなかった。
何かが起きていた。焼けた肉が痛む。
風の音が聞こえる。鳥が羽ばたく。
熱を帯びた空気が森の奥へと吸い込まれていく。
震える手で火傷を負った脚を抱きしめる。
季節外れの雪が風に吹かれ舞い上がり、静かに降り注いでいる。




