#03.排気、そして喧騒
気がつくと、見知らぬ天井。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。起き上がろうと力を込めたが、体はぴくりとも動かなかった。
――拘束されている。
節々が金属製の拘束具でベッドに固く固定されていた。
視線を巡らせると、透明な壁が体をすっぽりと覆っている。どうやら、古い医療カプセルの狭い空間に寝かされているらしい。
すぐ隣には無骨な小さな機械が置かれている。
せわしない電子音を鳴らしながら、赤や黄色のランプを激しく点滅させている。
色は、見えている。けれど、ひどく淡白で悪い夢の中にいるようだ。
火傷を負ったはずの右足の激痛は、強い薬のせいか、ひどく遠くに追いやられている。
ここはどこだ。誰に捕まったのか。
何が起きている。何だこれは。
思考が重い。一旦眠気のままに寝てしまおうか。
ふいに、機械のせわしない電子音が鳴り止んだ。
激しく点滅していたランプがピタリと止まり、スッと穏やかな青色に切り替わる。
『ビーーーッ』
直後、ブザー音が部屋の中に短く響いた。部屋の重たい扉がガチャリと開く。
逆光の中に大きな影が立っていた。
泥だらけの分厚いコートを着込み、額には奇妙な多重レンズのゴーグルを乗せている。体中から何本もの太いケーブルを垂らしたそのシルエットは、まるで機械仕掛けの熊のようだ。
男はカチャカチャと金属音を鳴らしながらカプセルに近づくと、アクリル越しに中を覗き込んで、ひどく気さくな声を上げた。
「起きたか!」
ガラス越しのくぐもった大声に、わずかに眉をひそめる。
男はカプセルの脇にある操作盤へ向かった。印字の擦り切れたキーボード。不気味な青白い光が、男の顔を下から照らし出している。
最後のキーが強く叩かれると、プシューッ、と圧力が抜ける音が響いた。
カプセルの透明なカバーが、静かにスライドして開いていく。
途端に、焦げ付いた油と土埃の匂いが鼻をついた。
カバーが完全に開くと同時に、両手と両足を固定していた金属製の拘束具がロックを解除し、自動でベッドの側面に収納された。
身動きがとれる。体を起こそうとすると彼に止められた。強力な鎮痛剤がまだ完全には切れていないから、だそうだ。
両足は大げさに包帯が巻かれ、痛々しい。
男は額に乗せていた奇妙なゴーグルを上にずらすと、目つきの鋭い、けれどどこか愛嬌のある顔でこちらを見下ろした。
「いやあ、危ないところだった。最初は驚いたぞ!離れの備蓄を取りに旧道に出たらアッシュピットに足突っ込んだやつがいるってな。それでよく見たらアヤじゃねぇか!って」
ひどく親しげな口調。男は一人で勝手に喋り続けている。
「ふむ、良かったな、上半身はほぼ無傷だ。だが下半身は悲惨だったな。あのスニーカー、熱でドロドロに溶けて皮膚に張り付いてたんだ。引っぺがすのに骨が折れた。今は麻酔が効いてるはずだが、無理に動かそうとするなよ」
この男が火傷の治療をしてくれたらしい。
それよりも、気にかかることが一つあった。
「……どうして、名前を」
乾ききった喉から、かすれた声が漏れた。
男の動きがピタリと止まる。
「は?」
「誰、ですか?」
男は心底驚いたような顔をして、こちらを覗き込んだ。
「おいおい、冗談だろ? ショックで記憶が飛んだか? いや、元から記憶喪失だってレフの旦那は言ってたか……」
男はぶつぶつと呟いた後、大袈裟に咳払いをして胸を張った。
「俺だよ。ニコライ・ヴォルコフ。あの村の孤児院に、週に一回は来てたはずだぞ? フルーツの缶詰をオマケしてやった、あの気前のいい行商人だ。な? 思い出したか?」
ニコライ。ぼんやりと記憶を探ってみる。
真っ白な世界で目を覚まし、孤児院に引き取られてから約一ヶ月。……言われてみれば、何度か村で騒がしい行商人を見た気もする。だが、その程度の記憶だ。自分のことで手一杯だったあの頃、たまにしか来ない人間の顔や名前など、覚えている余裕はない。
無言で見つめ返すと、ニコライはあからさまに肩を落とした。
「……嘘だろ。あんなに恩着せがましく渡したのに」
ニコライは心底信じられないといった様子で、大袈裟に天を仰いだ。
重たいケーブルがガチャガチャと鳴り、部屋の中に虚しく響く。
「チェリーのヴァレーニエだよ。覚えてないのか? ただのジャムじゃねえ、種を抜いた大粒のチェリーが丸ごと入った特級品だ。あの不潔な村には似つかわしくない、とろりとした深い赤色の……」
チェリー。
その言葉に、記憶の端がわずかに揺れた。
確か、真っ赤だった。喉が焼けるような、強烈な甘みと、わずかな酸味。あの頃の生活を思い出してしまう。
「……あれを持ってきたのは、あなただったんですか」
ようやく絞り出した声に、ニコライの顔がパッと明るくなった。
「そうだ! 思い出したか! レフの旦那がな、あんたのためにって俺から無理やり買い叩いていったんだ。俺も、あのお人好しに免じて特別にまけてやったんだぜ? な?あの味は格別だったろ?」
ニコライは期待に満ちた目で、こちらを覗き込んでくる。知らん。
「……味は、覚えています。流石に誰かは覚えてないです」
短く、事実だけを告げた。
ニコライは、パントマイムのようにその場に固まった。
「……味だけかよ。俺という存在は、そのチェリー以下か……」
彼はがっくりと項垂れ、髭を力なく撫でた。
その様子を、ただ冷めた目で見つめる。
ニコライはひとしきり落ち込んだ後、ふう、と大きな溜息を吐いて顔を上げた。
その瞳から、先ほどまでの道化じみた色が消える。
「まあいい。忘れられたのは、俺の不徳の致すところだ。気にしても仕方ない」
男は腰のベルトから無骨な水筒を外し、こちらへ差し出してきた。
受け取り、口に含む。
微かに機械油の匂いがする生温かい水が、ひどく乾いていた喉を潤していく。
「……ここは、どこですか」
かすれた声で尋ねると、ニコライは顎をさすりながら重い口を開いた。
「旧国道87号、その地下にある古いトンネルの跡地だ。軍の正規の輸送ルートからは外れてる」
トンネル。言われてみれば、空気の循環が悪い、独特の重苦しさがある。
直後、重たい鉄の扉が乱暴に叩き開けられた。
「ニコライさん! 浄水用の機械が止まっちまった! 助けてくれ!」
血相を変えた中年の男が転がり込んでくる。泥と疲労で顔が土気色になった、避難民の一人らしかった。
ニコライは髭を撫でながら、ひどく深いため息をついた。
「……またか。昨日フィルターの交換したばかりだぞ….」
男に何か短く指示を出し、先に戻らせる。
ニコライは振り返ると、部屋の隅に積まれたガラクタの奥から、ひどく古びた車椅子を引っ張り出してきた。金属のパイプが剥き出しになった、無骨で重たそうな代物だ。
「ほら、とりあえず乗れ。今放置する訳にもいかん」
有無を言わさぬ手つきで、ベッドから体を抱え上げる。
麻酔が効いているとはいえ、体が宙に浮くと右足の奥で鈍い痛みが走った。顔をしかめる間もなく、車椅子の硬い座面に下ろされる。
「少し揺れるぞ」
背後でニコライの声がして、車椅子が押し出された。
分厚い扉を抜け、部屋の外に出る。
途端に、冷たく湿った空気が全身にまとわりつく。
そこは、巨大な地下トンネルの跡地だった。




