episode 26 以前の客
いきなりだったもので、誰だかすぐにはわからなかった。
「ああ、以前、朝、店にいらした――」
「覚えていてくれましたか。エウドです。――ええと、お名前を失念してしまいました」
「トータツです」
彼は失念したというが、トータツはあのとき名乗った覚えがなかった。
「トータツさんですね。いや、失礼。なにぶん酔っぱらっているものですから、大目に見てもらいたい」
「食事もおいしかったですからね。飲んでみればよかった」
「なに、トータツさん、酒を召し上がっておられぬのですか? 絶品ですよ。だから、些か飲み過ぎまして。……そういえば、ミンツ銃砲店、襲撃されましたな」
エウドは声のトーンを少し落として言った。
「ええ。まったく、参りましたよ」
「通りがかったとき、外から拝見しましたが、随分派手な銃撃戦だったようで」
「そうです。あのときのことを思うと、こうやって湯につかってられるのが不思議で。三回くらい死んでもおかしくない銃撃戦でした」
「レーメラ人の仕業ですか?」
「……確証はありませんが」
「許せませんな! あいつらは! ウスタリカ号のことといい、今回の毒を混ぜる事件といい、もうなにもかも! ――今朝新聞を見て驚きましたよ。水道に毒を混ぜるだなんて!」
エウドは陽気な顔を一変させて、沈痛な面持ちで怒りだした。彼がこぶしで叩いた水面の湯がトータツの顔にまで跳ねた。
エウドはウスタリカ号爆破の翌日、銃砲店へ喪服を着てきていた。
「――エウドさん、ウスタリカ号の事件では……」
「……はい。娘が死にました。ウスタリカ号の破片で体を半分抉られて。学校の帰りだったんです。まだ十五ですよ。そりゃ、反抗期かなにか知らないが、生意気なところもたくさんありました。門限を守らなかったり、わたしに悪態をついたり。しかし、それがなんです! どうして殺されなくてはいけないんですか!? 一体彼女になんの罪があったんでしょうかね? 綺麗な子だったんですよ。わたしに似ないでね。ははは……」
汗か涙かわからぬものを頬に流して、エウドは悲愴な笑い声を立てた。
「……それは、大変お気の毒に」
そんな紋切り型の悔やみしか述べられないのが嫌であった。
「いや、トータツさん。この際ぶちまけてしまいますがね、わたしの不孝はこれで終わらないんです。――娘の死をやっと受け入れられるようになったかと思いきや、徴兵でレーメラへ行った息子が現地で一月ほど前に戦死していたのです。その知らせを受け取ったのが三日前。妻は絶望して入院。流石にわたしも、もうなにもかもが嫌になりまして、こちらへ逃げて来て酒を飲んでる次第なのです。トータツさんもレーメラにおられたんでしょ? なにかご存じないですかな?」
「はぁ、わたしは負傷してすぐに戻ってきてしまったんで」
トータツは股の傷を指した。水面の揺らぎでよく見えない。
「なるほど。名誉の負傷ですな」
「名誉と言うほどでも……」
「いや、名誉の負傷ですとも。そして、息子は名誉の戦死をした。そういうことです。そうでなければいけない」
エウドは何度も頷いて、自分の言葉を噛みしめているようだった。そして、ゆっくりと死んだ息子についての言葉を紡いでいく。
「ま、あいつの場合は……、あいつの場合はちょっと、あれなんです。……あいつは驚くべきことにレーメラ人などと仲良く出来ると信じていたんですからね! だから、そのつもりで、本当なら兵役免除になる学生であるにもかかわらず、馬鹿みたいに戦地へ飛び込んでいったのです。身の程知らずですよ。自分の良心であんな連中と仲良く出来ると信じてたんですから。良心とはなんです? 憎しみを和解に変える魔法の杖かなんかですか? 銃弾を止める鋼鉄の盾だとでもいうんですか? 良心なんか……」
エウドは突如声を立てて鳴き始めた。
「わたしの教育が間違えていたんだ。ウスタル王国の至恩は地の果てまで届くだなんて、真心で人に接しろだとか、他人を慈しめだとか、そんな教えは間違えだった。この世は悪意で満ちているんだ。そんなこと、少し考えればわかることだったんだ。わたしは盲だったんだ」
「そんなことないですよ。……例えこの世が悪意で満ちていても、あなたの教育は間違っていないと思います」
「ええ。ちょうどあなたと同じくらいの歳です。優しい子でした。優しいのだけが取り柄のような。あの子は仕方がなかった。わたしの教育と自ら望んだ結果です。しかし、娘の方は理不尽だ。ウスタリカ号が故意に破壊されたと知ったときの気持ちといったら、もう言葉には表せませんとも。許せない、許せない、と。――もう生きるのが嫌になってきました。人間一人では生きられない。では、誰と共に生きているのかといえば、それは自分の大切な人と一緒に生きているのでしょ? その大切な人をぽろぽろと失っていってしまっては」
エウドはいつの間にか泣きやんでいた。そして、ふらふらと立ち上がった。
「また店に来てください。ミンツさんも喜びます」
「そうですね。ありがとう。今日は馬鹿な話に付き合わせて申し訳なかった。後日お礼をしますとも。では」
エウドは水を切って上がってしまった。足下がおぼつかないようである。大丈夫なのであろうか。
人生はいとも簡単に狂ってしまう。トータツは一人になった後、顎の先まで湯に浸かって、呆けっとしていた。




