35歳のシンデレラ 大道芸人編 7
すっかり、忘れていた…
私が、動物園が、苦手なことを、すっかり、忘れていた…
私の脳裏から、きれいさっぱり、消え去っていた…
そして、どうしてなのか、考えた…
それは、簡単だった…
自分が、大人になり、動物園に行くことなど、なくなったからだ…
子供なら、ともかく、大人になって、動物園に行くことは、稀…
自分に、子供でも、できれば、行くかも、しれんが、普通は、行かないだろう…
仮に、行くとしたら、恋人とのデートぐらい…
幸か、不幸か、私は、平凡だから、男に、それほど、モテんかった…
だから、動物園にデートを行ったこともなければ、動物園に、デートに行こうと、男に誘われた経験も、なかった…
だから、これまで、動物園に、行くことを、考えたことも、なかった…
なかったのだ…
そして、ふと、気付いた…
これは、もしかしたら、嫌がらせ…
この矢田トモコに対する嫌がらせかも、しれんと、気付いた…
もしかしたら、あのバカ、バニラは、どこかで、この矢田が、動物園が、苦手だと、聞き込んだのかも、しれん…
それで、わざと、この矢田に、マリアに動物園に連れて行ってくれと、頼んだかも、しれんかった…
あのバカ、バニラのことだから、それぐらいのことを、しても、驚かん…
驚かんのだ…
「…どうしました? …お姉さん?…」
と、葉尊が、聞いてきた…
「…そんな怖い顔をして…」
「…私が、はめられたことに、気付いたのさ…」
「…誰に、はめられんですか?…」
「…バニラさ…」
「…一体、なにを、はめられたんですか?…」
「…動物園さ…きっと、私が、蛇が苦手なのを知って、わざと、動物園に、行かせようとしたのさ…」
「…そんな、お姉さん…いくらなんでも、考え過ぎです…」
「…普通は、そう思うだろう…だが、あの女は、違うのさ…」
「…そんな…」
「…そんなも、こんなも、ないさ…それが、事実さ…それが、真相さ…」
「…真相…」
「…真相でなければ、真実さ…」
「…だったら、お姉さん…動物園は、どうするんですか? バニラと約束したんでしょ?…」
「…それは、そうだが…」
「…それに、父の葉敬も、もうすぐ来日します…こう言っては、なんですが、その前に、バニラと争うのも、どうかと、思いますが…」
葉尊が、そう言うと、それ以上、なにも、言えんかった…
一言も、言えんかった…
そもそも、動物園行きを了承したのも、私が、葉敬に、いいところを、見せるためだった…
マリアの保護者として、動物園に行き、
「…さすが、お姉さん…ありがとうございます…」
と、葉敬に、褒められたいから、了承した…
それが、引き受けた理由だった…
それを、思い出すと、やはり、神様は、この矢田に厳しいと、思った…
きっと、この矢田の下心に、気付いて、罰を与えようとしたに、決まっていた…
やはり、神様は、騙せん…
そう思った…
下心を抱いては、いかん…
よこしまな、気持ちを持って、生きていけていっては、いかん…
神様は、そう矢田に教えたかったに違いなかった…
私は、今さらながら、そのことに、気付いた…
よく子供が、誰も、見てないからと、いって、なにか、悪いことをしたとする…
それは、例えば、どこか、他人の家の庭にあった柿や、トマトを盗んだとしても、いい…
要するに、誰も、見ていないから、そんなことをした…
が、
真逆に、大昔、母方の祖母か誰かに、誰も見ていないからこそ、ズルいことや、悪いことを、しちゃダメ!
と、言われたことを、思い出した…
まさに、天罰…
もしかしたら、私が、日頃から、あのバニラを激しく罵っているから、こんな天罰なようなことが、起きるのかも、しれんと、気付いた…
もしかしたら、そのために、この矢田をこらしめてやろうと、神様が、天罰を与えたのかも、しれんかった…
…神様…すまんかったさ…
私は、心の中で、詫びた…
…神様、許してやってくれ!…
…この矢田を許してやってくれ!…
私は、心の中で、叫んだ…
泣き叫んだ…
矢田トモコ、35歳…
心の叫びだった…
悲痛なまでの心の叫びだった…
結局、なんの変更もなく、その日がやって来た…
私が、バニラの娘のマリアの保護者として、保育園の行事に参加する日がやって来た…
動物園に行く日がやって来た…
私は、その日の朝、夫の葉尊と朝食を取っていた…
すると、葉尊が、
「…いよいよですね…お姉さん…」
と、言った…
「…なにが、いよいよなんだ?…」
「…今日でしょ? …お姉さんが、マリアの保護者として、動物園に行くのは?…」
「…なんだ? …葉尊…オマエ、知っていたのか?…」
「…ハイ…昨日、バニラから電話があって…」
「…バニラから、電話だと?…」
「…ハイ…」
「…それで、あのバカ、バニラは、なにか、言っていたのか?…」
「…バカ、バニラ?…」
葉尊が苦笑した…
「…お姉さん…そんな言い方は…」
「…葉尊…オマエが、そう言うのは、わかるさ…でもな、葉尊…」
「…でも、なんですか?…」
「…あのバカ、バニラは、いつも、私に歯向かうのさ…」
「…お姉さんに歯向かう?…」
「…そうさ…それも、いつも、いつもだ…ひとのいい私は、これまで、ずっと、それに耐えてきたのさ…しかも、あのバカ、バニラは、私のひとの良さにつけ込んで、娘のマリアの面倒まで、見せようとする…私が、少しぐらい、陰で、あのバカ、バニラの悪口を言っていても、バチは、当たらんさ…」
私が、言うと、葉尊は、苦笑した…
「…」
と、すぐには、なにも、言わんかった…
それから、少しばかり間を置いて、
「…でも、お姉さんは、今日、マリアの保護者として、動物園に行くんでしょ…」
と、笑って言った…
「…そうさ…ホントは、嫌だが、約束したからな…私は、約束は守る女さ…」
「…さすがは、お姉さんです…」
「…なにが、さすがだ?…」
「…一度約束すれば、約束は守る…誰にでも、できることでは、ありません…」
「…当たり前さ…」
「…当たり前?…」
「…嫌いな相手でも、約束したら、守るものさ…そもそも、そんなに、相手が、嫌いなら、約束しなければ、いいのさ…約束をすれば、守る…それを、周囲の人間は、見ているさ…それを、見て、コイツは、信用できる…信用できない、と、判断するものさ…そして、なにより、周囲の人間は、誰も、その当人よりも、その人間を評価してないさ…例えば、自分は、凄いと思っていても、誰も、その人間を凄いなんて、思っていないものさ…」
私が、言うと、葉尊が、考え込んだ…
いつものことだ(笑)…
だから、私は、さらに、
「…ひとは、見えないところで、努力しなくちゃダメさ…努力は、すぐには、実らんさ…でも、なにも、努力しなければ、なにも、できんさ…それは、努力しないで、英語がしゃべれるようになるとか、ボクシングで、世界チャンピオンになるとか、と、いっしょさ…」
と、私は、言った…
すると、だ…
思いがけなく、葉尊が、微笑んだ…
葉尊が、笑った…
「…お姉さん…本音が出ましたね…」
「…本音だと? …どういうことだ?…」
「…バニラのことです…」
「…あのバカが、どうかしたのか?…」
「…お姉さんは、バニラを嫌いなように、言っていますが、本音は、それほど、嫌いではない…」
「…なんだと?…」
「…だって、今、そんなに嫌いな相手なら、最初から、約束しなければ、いいと、言ったでしょ? …これを、バニラに当てはめれば、お姉さんは、そんなに、バニラを嫌いじゃないということです…」
葉尊が、言った…
葉尊が、私を論破した…
私は、文字通り、グーの音も、出なかった…
反論のしようが、なかった…
「…お姉さんも、バニラも、いっしょです…」
「…なにが、いっしょなんだ?…」
「…口では、相手を罵っていても、実は、それほど、嫌ってない…」
「…なんだと?…」
「…その証拠に、お姉さんは、バニラの娘のマリアの面倒を見ています…それが、その証拠です…」
そう言われると、私も、グーの音も、出なかった…
「…素直になることです…お姉さんも、バニラも…」
「…素直だと?…」
「…その方が、生きるのに、楽です…なにより、ケンカは、疲れる…エネルギーを使う…ケンカするよりも、そのエネルギーを別のことに使う方が、賢明です…」
葉尊が、断言した…
そして、
…今日、コレを、お姉さんのために、用意しました…」
と、葉尊が、手元から、なにかを、取り出した…
箱に入った、なにかだった…
「…なんだ? …それは?…」
「…サングラスです…お姉さん…」
「…サングラスだと?…一体、なぜ、今、それを?…」
「…今日、お姉さんが、動物園に行って、蛇が見たくなければ、このサングラスをかければ、いいんです…そうすれば、見えづらくなる…例え、ニシキヘビを見ても、直接見るよりも、はるかに、見えづらい…だから、怖くなくなる…」
葉尊が、説明した…
私は、うまい手を思いついたものだと、感心した…
さすがに、私の夫…
用意周到と言うか…
たかだか、サングラスひとつだが、思いつくのと、思いつかないのとでは、天と地ほどの差だ…
こんなことは、たいしたことではないと、思いがちだが、さにあらず…
これは、おおげさに言えば、コロンブスの卵と同じ…
どんな小さなことでも、思いつくのと、思いつかないのとでは、全然、違う…
例えば、地震だ…
阪神大震災や東日本大震災のような大きな地震があれば、すぐに、スーパーに行って、とりあえず、カップラーメンなど、非常食を大量に、買い込むか、否か…
試される…
なにがあったら、困るから、とりあえず、近くのスーパーで、非常食を大量に買い込む…
それが、できるか、否か、試される…
要するに、思いつくか、否かを、試される…
そして、それは、意外なことに、学歴や、仕事とは、あまり関係がない…
あえて言えば、まったく別の才能とも、言える…
が、
その別の才能が、思いがけず、役に立つときが、あるものだ…
どんなときでも、意外な才能が、役に立つときがあるものだ…
同時に、この葉尊は、油断できん、と、今さらながら、思った…
こんなサングラス一つでも、思いのほか、頭の回転が、速い…
油断できんヤツだと、今さらながら、気付いた…
気付いたのだ…




