世界樹
世界樹の森の湖畔を、柔らかな風が吹き抜ける。
湖面には木漏れ日が反射し、無数の光が揺れていた。
湖畔を囲む花々は淡く発光し、花弁から零れるように昇っていくマナ粒子が、まるで小さな流星群のように空へ消えていく。
幻想的な光景だった。
つい先程まで行われていた試練の空気はもうない。
レヴィンの右腕にはスリア。
左腕にはアイハ。
なぜこうなったのか本人にもよく分からないまま、二人に腕を取られている。
「だからぁ!わたしの方が先なんだもん!」
「正式契約は私ですわ」
「でも、ずっと一緒だったし!」
「契約は私ですわ」
「むぅぅぅ……!」
火花を散らす二人。
その様子を見ていたハーティアが小さく笑う。
「仲が良いんですね」
「どこがだよ……」
レヴィンは疲れたように呟いた。
カイルも肩を揺らして笑う。
「いや、十分仲良しに見えるぞ」
「見えるだけだ」
そう返したところで。
ふいに、アイハがレヴィンの腕から離れた。
スリアもそれに気付く。
先程までの柔らかな雰囲気が消えていた。
アイハは数歩前へ出る。
そして静かに振り返った。
孔雀緑色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「それでは皆さん」
その声音は、湖畔で花の世話をしていた少女のものではなかった。
世界樹の森を守護する精霊としての声。
「世界樹の恩恵を賜りに向かいましょう」
空気が変わる。
レヴィン達も自然と表情を引き締めた。
アリシアを救うため。
その目的を思い出す。
アイハは胸元で小さく指を鳴らした。
すると、淡い緑色の光が周囲へ広がる。
光は集まり、やがて数匹の蝶の姿となった。
「わぁ……」
ハーティアが思わず声を漏らす。
その蝶は普通の蝶ではない。
羽は透き通るように薄く、淡い翠色に輝いている。
そして、何より特徴的なのは長く伸びた尾状突起。
まるで夜空を流れる彗星の尾のように、美しい光を引いていた。
蝶達はふわりと宙へ舞う。
そして、森の奥へ向かって飛び始めた。
「案内役ですわ」
アイハは微笑む。
「見失わないようについて来てくださいませ」
* * *
──森の中を歩き始めて五分ほど。
レヴィンはふと足を止めた。
「……あれ?」
見覚えがある。
周囲の木々。
倒木。
整備された道。
どこかで見た景色だった。
隣ではスリアも目を丸くしている。
「ここって……」
スリアがゆっくり振り返る。
その視線の先には。
にこにこと微笑むアイハ。
嫌な予感しかしない。
「アイハ……?」
「なんでしょう?」
にこにこ。
「もしかして……」
スリアの額に青筋が浮く。
「湖の近く?」
「そうですわ」
即答だった。
レヴィン達は沈黙した。
もう一度、周囲を見る。
確かにそうだ。
以前、スリアが道を外れて迷い込んだ地点。
その反対側だった。
つまり。
湖畔は目と鼻の先。
「…………」
「…………」
「…………」
そして。
「アイハはやっぱり意地悪だぁー!!」
スリアが叫んだ。
森中に響きそうな勢いだった。
アイハは楽しそうに笑う。
「うふふ♪」
「笑い事じゃないよ!」
「ちゃんと意味がありますのよ?」
アイハは木々の奥を見る。
「世界樹の森は神域です」
その声は真面目だった。
「侵入者を簡単に近付ける訳にはいきません」
「だから迷路みたいになってるのか」
レヴィンが呟く。
「ええ」
アイハは頷く。
「本来なら反対側から近付こうとすると、何度でも同じ場所へ戻されますわ」
精霊による誘導。
森そのものが生きているようなものだ。
世界樹の守護者だからこそ可能な業なのだろう。
「ずるいー……」
スリアはまだ膨れていた。
だが、アイハは楽しそうだった。
長い付き合いなのだろう。
レヴィンは少しだけ微笑む。
そんなやり取りを見ながら、一行は再び蝶を追い始めた──。
二時間ほど歩いた頃。
森の景色が少しずつ変わり始めていた。
木々はさらに巨大になり。
漂うマナ粒子も濃くなる。
空気そのものが光を含んでいるようだった。
途中。
一行は小さな川辺で休憩を取ることになった。
透き通った水が静かに流れている。
川底には七色の小石が敷き詰められ、流れる水が光を反射していた。
スリアは川へ近付くと。
しゃがみ込み。
水へ手を浸した。
「きもちいいー……」
冷たい水が指先を流れる。
風が吹く。
淡青銅色の髪が揺れた。
その様子を見ていたアイハが微笑む。
「懐かしいですわね」
「ん?」
「昔もここで遊んでいましたでしょう?」
「あ」
スリアが思い出したように声を上げた。
「そうだった!」
ぱしゃり。と、水を跳ね上げる。
「アイハが落ちたんだよね!」
「落ちてませんわ」
「落ちたもん!」
「落ちてません!」
即座の否定。
しかし、少し慌てている。
図星らしい。
カイルが吹き出した。
「本当に仲良いな」
「違うもん!」
「違いますわ!」
声が揃った。
今度は全員が笑った。
休憩を終え。
さらに歩くこと一時間。
森の奥に大きな洞窟が見えてきた。
岩肌は淡く発光している。
まるで巨大な獣が口を開けているようだった。
その前で、案内役の蝶達が止まる。
そして、光の粒子となって消えた。
無数の光が舞い上がる。
夕暮れの森へ溶けていくようだった。
「ここから先ですわ」
アイハが洞窟を見る。
「この洞窟を抜ければ、世界樹へ辿り着けます」
レヴィン達は顔を見合わせる。
いよいよだ。
アリシアを救うための最後の希望。
その中心へ向かう。
レヴィンは静かに頷いた。
「行こう」
誰も異論はなかった。
そして、一行は洞窟へ足を踏み入れた。
* * *
中へ入った瞬間。
誰もが息を呑んだ。
「……すごい」
ハーティアの声が漏れる。
洞窟の天井。
壁。
床。
至る所に結晶が生えていた。
無数の結晶。
それぞれが淡く発光している。
青。
緑。
赤。
黄。
様々な色彩。
さらに驚くべきことに。
岩場には草花まで咲いていた。
蕾が光る。
花弁が光る。
そこから零れる粒子が宙を漂う。
灯りなど必要ない。
洞窟そのものが輝いているのだ。
幻想的という言葉だけでは足りない。
まるで精霊達の聖域だった。
レヴィンはしばらく言葉を失っていた。
世界樹の森は既に十分幻想的だった。
だが、ここはさらにその先。
神域の内側だった──。
しばらく歩いていると。
スリアが突然立ち止まった。
「あっ!」
目を輝かせている。
そして、一目散に走った。
「精霊銀だぁー!」
その声に全員が振り向く。
そこにあったのは。
淡く七色に輝く鉱脈だった。
普通の鉱石ではない。
虹色の光が内部を流れている。
呼吸をしているかのような輝き。
「これが……」
レヴィンは近付く。
「精霊銀……」
感嘆が漏れた。
精霊達に愛される希少鉱石。
シグムンドにも使われている特別な素材。
だが、実際に見るのは初めてだった。
岩盤に深く埋まっている。
掘り出すことはできそうにない。
その時。
レヴィンの視線が壁へ向いた。
風化した壁画。
そして古い文字。
誰かが残した痕跡。
レヴィンは思わず足を止めた。
「……これは?」
誰に聞くでもなく呟く。
だが、答えたのはアイハだった。
「私が生まれる前からあるものですわ」
静かな声。
レヴィン達は壁画へ目を向ける。
風化が激しい。
だが、辛うじて分かる。
二体の翼ある存在。
そして、その中央に立つ何か。
文字はほとんど読めない。
何語かさえ分からなかった。
「大昔の精霊が描いたものだと聞いています」
アイハが続ける。
「二人の天使と」
一度、壁画へ視線を向ける。
「時を司る精霊が」
静かに告げた。
「今世と来世の橋渡しをしている絵……だそうですわ」
橋渡し。
その言葉が妙に胸へ残った。
「橋渡し……か」
レヴィンはもう一度壁画を見る。
だが、答えは見つからない。
ただ。
遥か昔から誰かがここに想いを残したことだけは伝わってきた。
まるで、時を超えて語り掛けてくるように──。
「それより」
ふいに袖を引かれた。
振り向くとアイハだった。
「レヴィンさん」
「ん?」
「こちらをどうぞ」
そう言って差し出されたのは。
掌ほどの大きさの鉱石だった。
淡い七色に輝いている。
精霊銀。
しかも、天然の鉱石そのもの。
レヴィンは目を見開いた。
「……いいのか?」
「ええ」
「大切なものじゃ──」
言い終わる前に。
アイハが人差し指を自分の唇へ当てて『しぃー』とする。
そして、悪戯っぽくウインクをした。
「餞別ですわ♪」
その笑顔は、世界樹の守護精霊ではなく。
年相応の少女そのものだった。
レヴィンはしばらく迷った後。
静かに鉱石を受け取る。
「……ありがとう」
アイハは満足そうに微笑んだ。
そして、再び歩き出す。
洞窟の奥へ。
世界樹へ向かって。
その先に待つ希望へ向かって。
レヴィンは懐へ精霊銀をしまい、仲間達の後を追った。
洞窟の出口は、もうそう遠くないように見えた──。
洞窟を進み続けて、一時間ほどが過ぎた頃だった。
前方に淡い光が見え始める。
出口だ。
洞窟内に満ちていた幻想的な光とは違う。
もっと柔らかく。
もっと大きな光。
まるで夜空そのものが輝いているような光だった。
「見えてきましたわ」
先頭を歩いていたアイハが振り返る。
「世界樹です」
レヴィン達は自然と歩みを速めた。
そして。
洞窟を抜ける。
* * *
誰も言葉を発せなかった。
夜だった。
だが、暗くない。
むしろ、洞窟の外の方が明るい。
空気が違う。
世界そのものが違う。
まず目に飛び込んできたのは、無数に張り巡らされた巨大な根だった。
一本一本が家屋ほどの太さを持つ。
それらが大地を這い、重なり合い、巨大な迷路を形成している。
さらに、根の隙間から草花が咲いていた。
淡く光る蕾。
夜空へ昇る粒子。
風に揺れる花弁。
まるで、星空が地上へ降りてきたようだった。
そして、その先。
誰もが見上げる。
見上げるしかできなかった。
「…………」
レヴィンは息を呑む。
視界の先。
夜空を貫く巨大な幹。
果てが見えない。
本当に果てが見えないのだ。
幹は天へ向かって伸び続けている。
枝葉は空そのものを覆い隠し。
時折、葉の隙間から星々が瞬いている。
夜空と世界樹の境界が分からない。
どこまでが樹で。
どこからが空なのか。
判断できない。
その巨大さ。
その神秘。
その存在感。
レヴィンは今まで見たどんな景色よりも圧倒されていた。
「これが……」
思わず声が漏れる。
「世界樹……」
誰も返事をしない。
返事をする余裕がなかった。
ハーティアも。
カイルも。
ただ、見上げている。
そして、スリアだけが少し懐かしそうに微笑んでいた。
「久しぶりだなぁ……」
その言葉は。
まるで、故郷へ帰ってきた子供のようだった。
「こちらですわ」
アイハが歩き出す。
巨大な根の迷路へ。
レヴィン達も慌てて後を追った。
迷路の中はさらに幻想的だった。
巨大な根の隙間から咲く花々。
花弁から零れる粒子。
夜風に揺れる蕾。
七色の光。
光る虫のように漂うマナ粒子。
高濃度マナ領域。
その言葉を改めて実感する。
空気を吸うだけで身体が少し温かくなる。
それほど濃い。
「ここで大きな魔法なんて使ったら大変なことになりますね」
ハーティアが周囲を見回しながら呟く。
「うん」
スリアが頷く。
「たぶん暴発する」
さらりと言った。
「怖いこと言うな」
カイルが苦笑する。
「実際そうだもん」
スリアは肩を竦めた。
「風を起こそうとして竜巻になるかもしれないし」
「やめてくれ」
「火を出そうとして森ごと燃えるかも」
「もっとやめてくれ」
レヴィンまで苦笑する。
だがそれだけ、この場所のマナが異常なのだ。
世界樹は世界最大のマナ循環核。
その根元。
ここは、世界でもっともマナの濃い場所の一つだった──。
しばらく進むと。
迷路が突然開けた。
「おお……」
カイルが思わず声を漏らす。
そこには泉があった。
巨大な根が川をせき止めることで生まれた天然の泉。
水面は鏡のように静かだ。
世界樹の葉。
星空。
光る花々。
全てを映し出している。
幻想的だった。
泉の中央には平らになった巨大な根がある。
アイハは迷うことなく跳び移った。
ぴょん。
ぴょん。
ぴょん。
まるで、森の妖精のように。
軽やかに中央へ降り立つ。
レヴィン達は岸辺から見守った。
アイハは静かに胸元で手を組むと目を閉じる。
そして、小さく何かを唱え始めた。
聞いたことのない言葉だった。
人の言語ではない。
精霊の言葉。
森の言葉。
世界樹の言葉。
優しく。
どこか懐かしく。
風に溶けていくような響きだった。
周囲が静まる。
虫の声も。
風の音も。
全てが遠ざかる。
世界が祈りを見守っているようだった。
やがて──、変化が起きる。
世界樹の幹の遥か上。
世界樹の葉から無数の光が降り始める。
「……っ!」
ハーティアが息を呑む。
淡い七色の光球。
数え切れないほどの光。
それらが流星群のように降り注いでくる。
だが、地面へは落ちない。
全て。
全てが。
アイハへ向かっていた。
光はアイハの前で渦を巻く。
七色の輝き。
赤。
青。
緑。
黄。
紫。
白。
銀。
それらが混ざり合い。
一つの大きな光球になる。
神々しい。
その一言だった。
レヴィンは思わず見入る。
これが、世界樹の力。
世界を支える生命の力。
光球はゆっくりと収束する。
そして、すぅっとアイハの胸元へ吸い込まれていった。
風が吹く。
花が揺れる。
泉に波紋が広がる。
世界樹の葉がざわめく。
まるで。
祝福しているようだった──。
静寂。そして、アイハがゆっくり目を開く。
孔雀緑色の瞳は先程まで以上に澄んでいた。
身体の周囲には淡い七色の粒子が漂っている。
どこか神秘的だった。
アイハは岸辺へ向き直る。
そして、柔らかく微笑んだ。
「世界樹の恩恵を賜りましたわ」
その言葉を聞いた瞬間。
レヴィンの胸から大きな息が漏れた。
安堵だった。
ここまで来て、ようやく。
希望が確かな形になった。
「本当に……」
レヴィンは拳を握る。
「アリシアを助けられるんだな」
声が少し震えていた。
アイハは静かに頷く。
「ええ」
その返答に迷いはなかった。
「必ず」
レヴィンは目を閉じる。
脳裏に浮かぶ。
眠り続けるアリシア。
返事をしない妹。
笑わない妹。
泣きそうになる。
だが、今はまだ泣かない。
迎えに行くまで。
絶対に──。
アイハが泉から跳躍する。
軽やかに岸辺へ降り立った。
「それでは」
柔らかな笑顔。
「アリシアさんの元へ向かいましょう」
一同の表情が明るくなる。
ハーティアも微笑む。
カイルも頷く。
スリアは嬉しそうに両手を握り締めた。
「うん!」
そして、帰路につく。
巨大な世界樹を背に。
迷路のような根の間を進む。
しばらく歩いたところで。
レヴィンはふと足を止め、振り返る。
世界樹。
世界を支える巨大な樹。
葉が揺れる。
風が吹く。
花が揺れる。
粒子が舞う。
それはまるで祝福のようだった。
アリシアを救うための旅は。
確かに実を結ぼうとしている。
レヴィンは静かに目を細めた。
「待ってろ」
誰にも聞こえないほど小さな声。
「今、帰るからな」
そして再び歩き出す。
大切な妹の元へ向かって──。




