夢
──夢……。夢を見ている────
アリシアは深い眠りの中で遠い昔の夢を見ていた──。
意識が浮かぶ。
深い海の底からゆっくりと浮上していくような感覚。
重たい身体。
曖昧な思考。
どこか遠くから波の音が聞こえる。
寄せては返す波。
優しく耳へ届く潮騒。
そして。
アリシアはゆっくりと目を開いた──。
景色は色褪せていた。
まるで古い写真のように。
世界全体が少し白んでいる。
ところどころにノイズが走っていた。
『……ここは……?』
アリシアは周囲を見回した。
海。
砂浜。
潮風。
青い空。
見慣れた景色。
そして、懐かしい景色。
『ここは……カルディアの海辺……?』
胸の奥が少しだけ温かくなる。
今でも時々訪れる場所。
レヴィン達と出会った場所。
大切な思い出が始まった場所。
ふいに、泣き声が聞こえた。
小さな、か細い泣き声。
途切れ途切れの嗚咽。
『……?』
アリシアは振り返る。
少し離れた砂浜。
そこに少女がいた。
膝を抱え込み。
顔を埋め。
泣いている。
汚れた白いワンピース。
肩まで伸びた薄荷色の髪。
髪の隙間から覗くエルフ耳。
『あ……』
アリシアは立ち止まった。
『私……』
分かってしまった。
あれは自分だ。
幼い頃の自分。
家族を失い。
一人ぼっちになったばかりの頃の。
アリシア自身だった──。
アリシアはゆっくり歩み寄る。
少女は泣いている。
ただ、ひたすら泣いている。
誰もいない海辺で。
一人きりで。
『……』
胸が締め付けられる。
当時の記憶が蘇る。
不安だった。
怖かった。
寂しかった。
何も分からなかった。
だから、泣くしかなかった。
アリシアはそっと手を伸ばした。
だが。
指先は少女の肩をすり抜ける。
触れられない。
夢だから。
過去だから。
どうすることもできない。
『……そうだったね』
アリシアは少女の隣へ腰を下ろした。
砂の感触はない。
風も感じない。
それでも。
隣にいたかった。
あの日の自分の隣に。
『……大丈夫だよ』
アリシアは呟く。
『だって──』
その瞬間だった。
「だいじょうぶ?」
幼い男の子の声。
少女が顔を上げる。
アリシアも顔を上げる。
そこにいたのは、懐かしい二人だった。
まだ幼いレヴィン。
今よりずっと背が低く。
髪も少し短い。
だが、優しい瞳は変わらない。
そして、その隣には。
淡青銅色の髪を揺らしながら立つ小さなスリア。
今より幼い姿。
それでも、笑顔は全く同じだった。
『お兄ちゃん……』
アリシアは思わず呟く。
少女は声を出せない。
泣きすぎて。
喉が詰まって。
嗚咽ばかり漏れている。
そんな少女へ。
スリアがとことこと近付いた。
そして、小さな掌を向ける。
「風さんだよー」
ふわり。
優しい風が吹く。
少女の髪が揺れる。
涙で濡れた頬を撫でる。
ほんの少しだけ。
悲しみを和らげるような風。
昔から変わらない。
スリアらしい優しさだった。
レヴィンも少女の前へしゃがみ込む。
ポケットを探る。
取り出したのは一枚のハンカチだった。
少しだけくたびれた布。
レヴィンは何も言わない。
ただ、そっと涙を拭った。
「泣かないで」
その言葉は。
慰めではなく。
寄り添う言葉だった。
泣くなではない。
泣いてもいい。
でも一人じゃない。
そんな声だった。
『お兄ちゃんと……』
アリシアは目を細める。
『初めて逢った場所……』
そうだ。
この日だった。
全部の始まりは。
家族を失った少女が。
新しい家族と出会った日。
世界が終わったと思っていた少女が。
もう一度、笑えるようになった日。
だから。
今でも忘れられない。
忘れたことなど一度もない。
アリシアは懐かしそうに微笑む。
その光景を。
ただ静かに見守った──。
やがて。
景色が揺れ始める。
海が歪む。
空が波打つ。
ノイズが強くなる。
『……あ』
夢が変わる。
アリシアには分かった。
これはまだ終わりではない。
もっと奥。
もっと古い記憶。
もっと大切で。
もっと辛い記憶。
そこへ向かう。
世界が暗転する。
光が消える。
音が消える。
そして。
アリシアは再び浮遊感に包まれた。
* * *
──次に目を開けた時。
そこにはさらに懐かしい景色が広がっていた。
『……ここは……』
木造の家々。
石畳の小道。
風に揺れる洗濯物。
花壇。
煙突。
穏やかな空気。
『私が住んでいた……』
故郷だった。
もう存在しない場所。
地図から消えた場所。
けれど。
確かに存在した場所。
アリシアが生まれ育った家。
家族と過ごした場所──。
その時、小さな足音が響いた。
ぱたぱたぱた。
元気いっぱいの足音。
幼いアリシアだった。
綺麗な白いワンピース。
満面の笑み。
楽しそうな笑顔。
幼いアリシアはアリシアの身体をすり抜ける。
そして。
「パパー!」
「ママー!」
両腕を大きく広げる。
そこにいた。
人間の男性。
優しい瞳。
穏やかな笑顔。
そして。
エルフの女性。
柔らかな薄荷色の髪。
温かな微笑み。
二人とも。
アリシアが大好きだった人。
『パパ……』
胸が痛い。
『ママ……』
会いたかった。
本当に、会いたかった。
だが。
もう会えない。
目の前にいるのに。
触れられない。
話せない。
届かない。
幼いアリシアは両親に抱きついている。
父親が笑う。
母親も笑う。
楽しそうに。
幸せそうに。
何気ない日常。
特別ではない一日。
けれど。
今のアリシアが最も欲しかった時間。
失われた時間。
『……』
アリシアは黙って見つめる。
懐かしくて。
苦しくて。
愛おしい。
そして。
知っている。
この後に起きることを。
だから。
心の奥が少しずつ冷えていく。
幸せな景色なのに。
胸が締め付けられる。
やめて。
まだ。
まだ、終わらないで。
そう願う。だが──。
夢は止まらない。
記憶は止まらない。
運命は変わらない。
そして、次の瞬間。
空気が震えた。
────グォォォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
世界そのものを揺るがすような咆哮。
窓ガラスが震える。
家々が軋む。
鳥達が一斉に飛び立つ。
空気が変わる。
温度が変わる。
色が変わる。
アリシアの顔から血の気が引いた。
『来る……』
知っている。
忘れたことなどない。
何度、夢に見たのかも分からない。
人生を変えたあの日。
全てを奪われた日。
最悪の記憶。
『来る……!』
空が。
ゆっくりと。
紅く染まっていく。
夕焼けではない。
もっと濃く。
もっと禍々しい色。
世界そのものが血に染まっていくような赤だった。
熱い風が吹き抜ける。
肌がひりつく。
呼吸をするだけで喉が焼けそうだった。
『……』
アリシアは知っている。
この光景を。
忘れたことなどない。
忘れられるはずもない。
何度も夢に見た。
何度も思い出した。
それでも慣れることはなかった。
胸の奥が冷えていく。
恐怖が蘇る。
幼い頃の自分が感じた絶望が。
再び心を掴んでいた。
集落がざわめく。
人々が家から飛び出してくる。
「なんだ!?」
「今のは?!」
「山の方だ!」
不安。
困惑。
恐怖。
それらが一気に広がる。
空気が震える。
地面が揺れる。
遠く山の向こうから黒煙が上がっていた。
『……っ』
鼻をつく。
焦げ臭い匂い。
森が燃える匂い。
木々が焼ける匂い。
嫌というほど覚えている匂いだった。
「ここは危ない!」
父親が幼いアリシアを抱き上げる。
「私達も逃げよう!」
「ええ!」
母親も頷く。
迷いはない。
アリシアを守る。
ただ、それだけだった。
父親の腕に抱かれる幼いアリシア。
母親がその隣を走る。
その光景を。
今のアリシアは少し離れた場所から見ていた。
次の瞬間。
世界が暗転する。
光が消える。
音が消える。
そして。
アリシアは再び浮遊感に包まれた。
* * *
──次に目を開けた時。
アリシアの視界は荒々しく上下に揺れていた。
「はぁっ、はぁっ」
荒い呼吸が耳元に届く。
アリシアは父親に抱えられて集落から逃げていた。
追体験。
アリシアは今。
幼いアリシアと同じ目線にいる。
景色が鮮明に映し出される。
アリシアと集落の人達は少し離れた丘に逃げていた。
隣には息を切らしながら走っている母親がいる。
『パパ…、ママ…』
その時だった。
再び咆哮が響く。
────グォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
大気が震える。
空気が揺れる。
立ち止まってはいけない。
そして、アリシアは揺られながら父親の肩越しに見る。
燃える山。
黒煙の中。
巨大な影。
常識など遥かに超えた存在。
災厄。
絶望。
破滅。
それら全てを形にしたような存在。
紅き災厄龍『ブラッドヴェイン』
紅黒い鱗。
鱗の隙間を流れる真紅の脈動。
まるで巨大な血管が全身を巡っているようだった。
翼が広がる。
羽ばたく。
轟音。
衝撃波。
遠く離れた海面に巨大な波紋が広がる。
雲が裂ける。
空が震える。
自然そのものが怯えているようだった。
アリシアは震える。
憎しみ。
恐怖。
怒り。
悲しみ。
様々な感情が込み上げる。
だが、その全てを上回る感情があった。
無力感。
勝てるはずがない。
誰にも。
そんな言葉が自然と浮かぶ。
巨大な龍は空を支配していた。
集落など。
人間など。
まるで視界にも入っていない。
蟻を見るような感覚すらないだろう。
だが。
どこか。
苦しそうだった──。
次の瞬間。
ブラッドヴェインが口を開く。
真紅の光。
集束。
膨張。
そして。
解き放たれる。
轟ッ――――!!
森が赤く染まる。
集落の少し横。
灼熱。
爆風。
咆哮。
巨大な火炎が森を薙ぎ払った。
木々が吹き飛ぶ。
燃える。
崩れる。
火炎の勢いはとどまる止まることを知らない。
集落を飲み込む。
家屋が砕ける。
石壁が弾け飛ぶ。
火の粉が空を埋める。
全てが炎の中へ飲み込まれていく。
『……っ!』
アリシアは声を失う。
目の前で。
故郷が消えていく。
存在していた景色が。
笑い声が。
日常が。
全て。
炎に呑まれていく。
『ああ……』
涙が零れる。
『あ……ぁ……』
止まらない。
どうして。
どうして。
どうして。
何度、思っても答えはない。
逃げ惑う人々の列は次第に散り散りになる。
丘の森へ。
少しでも遠くへ。
少しでも生き延びるために。
父親は走る。
息を切らしながら。
母親も必死に走る。
そして、森の奥。
父親がアリシアを下ろす。
茂みの枝が擦れる。
土埃が飛ぶ。
白いワンピースが汚れる。
父親の肩が大きく上下している。
母親も同じだった。
だが。
瞳だけは揺れていなかった。
父親と母親が顔を見合わせる。
二人は静かに頷いた。
覚悟を決めた者同士の目。
「どうしたの…?パパ…?ママ…?」
あの時と同じ言葉。
返事はない。
父親が掌を向ける。
母親も同じように手を差し出す。
術式が展開される。
白い光。
複雑な魔法陣。
足元へ広がる紋様。
アリシアの身体が光り始める。
光が強くなる。
視界が白くなる。
両親の姿が遠ざかる。
今のアリシアなら分かる。
これは、転移魔法だ。
父親が微笑む。
母親も微笑む。
泣きそうな笑顔だった。
けれど。
最後まで優しかった。
最後まで。
娘を安心させようとしていた。
『待って!置いていかないで!』
そう言いたかった。
叫びたかった。
しかし。
あの時と同じように。
「パパー!ママーー!」
泣き叫ぶことしかできなかった。
手を伸ばす。
届かない。
どれだけ伸ばしても。
届かない。
世界が白に染まっていく。
最後に見えたのは。
涙を堪えながら微笑む二人の姿だった──。
* * *
柔らかな朝日が地平線から顔を出し始める頃。
レヴィン達はようやくカルディアへ帰り着いていた。
夜通しの移動だった。
世界樹の森から中央都市セントラル。
そこからカルディアまで。
少しでも早くアリシアの元へ帰るために。
少しでも早く黒蝕封環を解呪するために。
誰も弱音は吐かなかった。
だが、さすがに疲労は隠せない。
自宅のリビングへ入った途端。
スリアがソファへ倒れ込んだ。
「つ、ついたぁぁ……」
髪がだらりと垂れる。
完全に力尽きた様子だった。
無理もない。
ここまでの移動はほとんどスリアの風飛翔によるものだった。
五人分の飛行を維持し続けるなど、本来なら簡単なことではない。
「わたし、頑張ったもん!」
スリアは胸を張った。
どこか誇らしげな顔。
子供のような笑顔。
その様子にカイルが思わず笑った。
「確かにな。今回一番働いたのはスリアかもしれないな」
ハーティアも頷く。
スリアはさらに胸を張った。
「えっへん!」
すると、レヴィンが苦笑しながら頭へ手を置く。
ぽん。
ぽん。
優しく撫でる。
「助かったよ」
「えへへ……」
少しだけ照れたように笑う。
疲れているはずなのに。
その顔はとても嬉しそうだった。
「それじゃあ」
レヴィンがアイハを見る。
「行こう」
その言葉にアイハが頷いた。
空気が変わる。
和やかな雰囲気が消える。
全員が目的を思い出す。
アリシアを救う。
そのためにここまで来たのだ。
二階。
静かな廊下。
朝日が窓から差し込み、床へ長い影を落としている。
レヴィンとアイハは並んで歩く。
誰も喋らない。
扉の前へ辿り着く。
アリシアの部屋。
レヴィンは一瞬だけ立ち止まった。
深呼吸。
そして、ゆっくりと扉を開ける。
* * *
変わらない部屋だった。
猫のぬいぐるみ。
熊のぬいぐるみ。
壁に飾られたドライフラワー。
甘く優しい香り。
女の子の部屋。
そして。
眠り続けるアリシア。
薄いカーテンが揺れる。
朝日が差し込む。
舞い上がる小さな塵が光を反射していた。
レヴィンはアリシアを見る。
首筋まで伸びる黒い紋様。
痛々しい痕跡。
まだ消えていない。
まだ終わっていない。
「……っ!?」
レヴィンが目を見開く。
アリシアの頬。
一筋の涙。
静かに流れていた。
「……泣いて、いるのか…」
掠れた声。
眠っているはずなのに。
意識はないはずなのに。
涙だけが零れている。
胸が締め付けられる。
「……パパ……」
小さな声。
「……ママ……」
寝言だった。
かすかに。
本当にかすかに。
だが、確かに聞こえた。
レヴィンは何も言えなかった。
アリシアが今どんな夢を見ているのか。
どんな記憶を辿っているのか。
それでも。
辛い夢なのだろうと分かった。
涙が全てを物語っていた──。
しばらく沈黙が続く。
やがて、レヴィンは静かに振り返った。
アイハを見る。
「アリシアを頼む」
短い言葉。
だが、その中には全てが込められていた。
祈り。
願い。
希望。
兄としての想い。
アイハは真剣に頷いた。
「お任せくださいませ」
アイハがベッドの傍へ立つ。
両手を胸元へ。
ゆっくりと目を閉じる。
そして。
淡い七色の粒子が集まり始めた。
光。
光。
光。
無数の粒子。
やがて、一つの光球になる。
世界樹で見たものと同じ。
優しく。
神秘的な光。
次の瞬間。
光球が眩く光ると弾けた。
ぱぁん。
七色の粒子が部屋中へ広がる。
まるで祝福の雨だった。
光がアリシアの身体へ降り注ぐ。
優しく。
包み込むように──。
変化はすぐに現れた。
首筋の黒い紋様。
それが、少しずつ粒子へ変わっていく。
黒が崩れる。
光へ変わる。
消えていく。
「……!」
レヴィンは息を呑む。
黒い模様は首だけではない。
身体へ広がっていた呪い。
全て。
全てが粒子となって昇っていく。
まるで夜が明けるように。
闇が消えていく。
やがて、最後の黒が消えた。
静寂。
部屋を包む朝の光。
そして。
「……んっ」
小さな声。
アリシアの睫毛が震える。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
瞳が開かれる。
ぼやけた視界。
白い天井。
差し込む朝日。
そして、目の前にいる人。
「アリシア!」
レヴィンだった。
今にも泣きそうな顔。
必死に堪えている顔。
そんな顔を初めて見た。
「……お兄……ちゃん……?」
掠れた声。
だが。
確かに届いた。
「ああ!」
レヴィンが膝をつく。
「ああ……!」
声が震える。
感情を抑えきれない。
レヴィンは堪らずアリシアを抱き締めた。
強く。
失わないように。
確かめるように。
「お兄ちゃん……」
アリシアの瞳から涙が溢れる。
「お兄ちゃん……!」
堰を切ったように流れる。
止まらない。
怖かった。
寂しかった。
会いたかった。
全部が溢れる。
「大丈夫」
レヴィンは優しく頭を撫でる。
「もう大丈夫だ」
その声は。
昔と同じだった。
海辺で出会った日。
涙を拭いてくれた日。
あの日と同じ。
優しい声だった。
「ありがとう……」
アリシアは泣きながら呟く。
「ありがとう……お兄ちゃん……」
レヴィンは何も言わない。
ただ、優しく髪を撫で続けた。
(あの時──)
アリシアは目を閉じる。
(声を掛けてくれて)
海辺。
風。
ハンカチ。
優しい笑顔。
(ありがとう)
窓の外では風が吹いていた。
柔らかな朝の風。
カーテンを揺らす優しい風。
まるで。
祝福するように。
「おかえり」と言うように。
その風は静かに部屋を包み込んでいた──。




