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ギルドのお仕事  作者: 星野 悠里


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9/9

──夢……。夢を見ている────


アリシアは深い眠りの中で遠い昔の夢を見ていた──。


意識が浮かぶ。

深い海の底からゆっくりと浮上していくような感覚。


重たい身体。

曖昧な思考。


どこか遠くから波の音が聞こえる。

寄せては返す波。

優しく耳へ届く潮騒。


そして。


アリシアはゆっくりと目を開いた──。


景色は色褪せていた。

まるで古い写真のように。

世界全体が少し白んでいる。

ところどころにノイズが走っていた。


『……ここは……?』


アリシアは周囲を見回した。


海。

砂浜。

潮風。

青い空。


見慣れた景色。

そして、懐かしい景色。


『ここは……カルディアの海辺……?』


胸の奥が少しだけ温かくなる。


今でも時々訪れる場所。

レヴィン達と出会った場所。

大切な思い出が始まった場所。


ふいに、泣き声が聞こえた。


小さな、か細い泣き声。

途切れ途切れの嗚咽。


『……?』


アリシアは振り返る。


少し離れた砂浜。

そこに少女がいた。


膝を抱え込み。

顔を埋め。

泣いている。


汚れた白いワンピース。

肩まで伸びた薄荷(ミントグリーン)色の髪。

髪の隙間から覗くエルフ耳。


『あ……』


アリシアは立ち止まった。


『私……』


分かってしまった。


あれは自分だ。

幼い頃の自分。


家族を失い。

一人ぼっちになったばかりの頃の。

アリシア自身だった──。


アリシアはゆっくり歩み寄る。


少女は泣いている。

ただ、ひたすら泣いている。

誰もいない海辺で。


一人きりで。


『……』


胸が締め付けられる。


当時の記憶が蘇る。


不安だった。

怖かった。

寂しかった。

何も分からなかった。

だから、泣くしかなかった。


アリシアはそっと手を伸ばした。


だが。


指先は少女の肩をすり抜ける。


触れられない。

夢だから。

過去だから。


どうすることもできない。


『……そうだったね』


アリシアは少女の隣へ腰を下ろした。


砂の感触はない。

風も感じない。


それでも。


隣にいたかった。

あの日の自分の隣に。


『……大丈夫だよ』


アリシアは呟く。


『だって──』


その瞬間だった。


「だいじょうぶ?」


幼い男の子の声。


少女が顔を上げる。

アリシアも顔を上げる。


そこにいたのは、懐かしい二人だった。


まだ幼いレヴィン。


今よりずっと背が低く。

髪も少し短い。

だが、優しい瞳は変わらない。


そして、その隣には。

淡青銅(ライトブロンズ)色の髪を揺らしながら立つ小さなスリア。


今より幼い姿。

それでも、笑顔は全く同じだった。


『お兄ちゃん……』


アリシアは思わず呟く。


少女は声を出せない。

泣きすぎて。

喉が詰まって。

嗚咽ばかり漏れている。


そんな少女へ。

スリアがとことこと近付いた。


そして、小さな掌を向ける。


「風さんだよー」


ふわり。


優しい風が吹く。

少女の髪が揺れる。

涙で濡れた頬を撫でる。


ほんの少しだけ。


悲しみを和らげるような風。


昔から変わらない。

スリアらしい優しさだった。


レヴィンも少女の前へしゃがみ込む。


ポケットを探る。

取り出したのは一枚のハンカチだった。

少しだけくたびれた布。


レヴィンは何も言わない。


ただ、そっと涙を拭った。


「泣かないで」


その言葉は。


慰めではなく。

寄り添う言葉だった。


泣くなではない。

泣いてもいい。

でも一人じゃない。


そんな声だった。


『お兄ちゃんと……』


アリシアは目を細める。


『初めて逢った場所……』


そうだ。


この日だった。

全部の始まりは。


家族を失った少女が。

新しい家族と出会った日。


世界が終わったと思っていた少女が。

もう一度、笑えるようになった日。


だから。


今でも忘れられない。

忘れたことなど一度もない。


アリシアは懐かしそうに微笑む。


その光景を。

ただ静かに見守った──。


やがて。


景色が揺れ始める。


海が歪む。

空が波打つ。

ノイズが強くなる。


『……あ』


夢が変わる。


アリシアには分かった。

これはまだ終わりではない。


もっと奥。

もっと古い記憶。

もっと大切で。

もっと辛い記憶。


そこへ向かう。


世界が暗転する。

光が消える。

音が消える。


そして。


アリシアは再び浮遊感に包まれた。



* * *



──次に目を開けた時。

そこにはさらに懐かしい景色が広がっていた。


『……ここは……』


木造の家々。

石畳の小道。

風に揺れる洗濯物。

花壇。

煙突。


穏やかな空気。


『私が住んでいた……』


故郷だった。


もう存在しない場所。

地図から消えた場所。


けれど。


確かに存在した場所。


アリシアが生まれ育った家。

家族と過ごした場所──。


その時、小さな足音が響いた。


ぱたぱたぱた。

元気いっぱいの足音。


幼いアリシアだった。


綺麗な白いワンピース。

満面の笑み。

楽しそうな笑顔。


幼いアリシアはアリシアの身体をすり抜ける。


そして。


「パパー!」


「ママー!」


両腕を大きく広げる。


そこにいた。


人間の男性。

優しい瞳。

穏やかな笑顔。


そして。


エルフの女性。

柔らかな薄荷(ミントグリーン)色の髪。

温かな微笑み。


二人とも。

アリシアが大好きだった人。


『パパ……』


胸が痛い。


『ママ……』


会いたかった。


本当に、会いたかった。


だが。


もう会えない。


目の前にいるのに。


触れられない。

話せない。

届かない。


幼いアリシアは両親に抱きついている。


父親が笑う。

母親も笑う。


楽しそうに。

幸せそうに。


何気ない日常。

特別ではない一日。


けれど。


今のアリシアが最も欲しかった時間。


失われた時間。


『……』


アリシアは黙って見つめる。


懐かしくて。

苦しくて。

愛おしい。


そして。


知っている。

この後に起きることを。


だから。


心の奥が少しずつ冷えていく。

幸せな景色なのに。

胸が締め付けられる。


やめて。


まだ。


まだ、終わらないで。


そう願う。だが──。


夢は止まらない。

記憶は止まらない。

運命は変わらない。


そして、次の瞬間。


空気が震えた。


────グォォォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!


世界そのものを揺るがすような咆哮。


窓ガラスが震える。

家々が軋む。

鳥達が一斉に飛び立つ。


空気が変わる。

温度が変わる。

色が変わる。


アリシアの顔から血の気が引いた。


『来る……』


知っている。

忘れたことなどない。


何度、夢に見たのかも分からない。


人生を変えたあの日。

全てを奪われた日。


最悪の記憶。


『来る……!』


空が。


ゆっくりと。

紅く染まっていく。


夕焼けではない。


もっと濃く。

もっと禍々しい色。

世界そのものが血に染まっていくような赤だった。


熱い風が吹き抜ける。


肌がひりつく。

呼吸をするだけで喉が焼けそうだった。


『……』


アリシアは知っている。

この光景を。


忘れたことなどない。

忘れられるはずもない。


何度も夢に見た。

何度も思い出した。


それでも慣れることはなかった。


胸の奥が冷えていく。

恐怖が蘇る。

幼い頃の自分が感じた絶望が。


再び心を掴んでいた。


集落がざわめく。

人々が家から飛び出してくる。


「なんだ!?」


「今のは?!」


「山の方だ!」


不安。

困惑。

恐怖。


それらが一気に広がる。


空気が震える。

地面が揺れる。


遠く山の向こうから黒煙が上がっていた。


『……っ』


鼻をつく。


焦げ臭い匂い。

森が燃える匂い。

木々が焼ける匂い。


嫌というほど覚えている匂いだった。


「ここは危ない!」


父親が幼いアリシアを抱き上げる。


「私達も逃げよう!」


「ええ!」


母親も頷く。


迷いはない。

アリシアを守る。

ただ、それだけだった。


父親の腕に抱かれる幼いアリシア。

母親がその隣を走る。


その光景を。

今のアリシアは少し離れた場所から見ていた。


次の瞬間。


世界が暗転する。

光が消える。

音が消える。


そして。


アリシアは再び浮遊感に包まれた。



* * *



──次に目を開けた時。

アリシアの視界は荒々しく上下に揺れていた。


「はぁっ、はぁっ」


荒い呼吸が耳元に届く。

アリシアは父親に抱えられて集落から逃げていた。


追体験。


アリシアは今。

幼いアリシアと同じ目線にいる。


景色が鮮明に映し出される。


アリシアと集落の人達は少し離れた丘に逃げていた。

隣には息を切らしながら走っている母親がいる。


『パパ…、ママ…』


その時だった。


再び咆哮が響く。


────グォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!


大気が震える。

空気が揺れる。


立ち止まってはいけない。


そして、アリシアは揺られながら父親の肩越しに見る。


燃える山。

黒煙の中。

巨大な影。


常識など遥かに超えた存在。


災厄。

絶望。

破滅。


それら全てを形にしたような存在。


紅き災厄龍『ブラッドヴェイン』


紅黒い鱗。

鱗の隙間を流れる真紅の脈動。

まるで巨大な血管が全身を巡っているようだった。


翼が広がる。

羽ばたく。

轟音。

衝撃波。


遠く離れた海面に巨大な波紋が広がる。


雲が裂ける。

空が震える。

自然そのものが怯えているようだった。


アリシアは震える。


憎しみ。

恐怖。

怒り。

悲しみ。


様々な感情が込み上げる。

だが、その全てを上回る感情があった。


無力感。


勝てるはずがない。

誰にも。

そんな言葉が自然と浮かぶ。


巨大な龍は空を支配していた。


集落など。

人間など。

まるで視界にも入っていない。

蟻を見るような感覚すらないだろう。


だが。


どこか。


苦しそうだった──。


次の瞬間。


ブラッドヴェインが口を開く。


真紅の光。

集束。

膨張。


そして。


解き放たれる。


轟ッ――――!!


森が赤く染まる。

集落の少し横。


灼熱。

爆風。

咆哮。


巨大な火炎が森を薙ぎ払った。


木々が吹き飛ぶ。

燃える。

崩れる。


火炎の勢いはとどまる止まることを知らない。

集落を飲み込む。


家屋が砕ける。

石壁が弾け飛ぶ。

火の粉が空を埋める。


全てが炎の中へ飲み込まれていく。


『……っ!』


アリシアは声を失う。


目の前で。

故郷が消えていく。


存在していた景色が。

笑い声が。

日常が。


全て。


炎に呑まれていく。


『ああ……』


涙が零れる。


『あ……ぁ……』


止まらない。


どうして。

どうして。

どうして。


何度、思っても答えはない。


逃げ惑う人々の列は次第に散り散りになる。


丘の森へ。

少しでも遠くへ。


少しでも生き延びるために。


父親は走る。

息を切らしながら。

母親も必死に走る。


そして、森の奥。

父親がアリシアを下ろす。


茂みの枝が擦れる。

土埃が飛ぶ。

白いワンピースが汚れる。


父親の肩が大きく上下している。

母親も同じだった。


だが。


瞳だけは揺れていなかった。

父親と母親が顔を見合わせる。

二人は静かに頷いた。


覚悟を決めた者同士の目。


「どうしたの…?パパ…?ママ…?」


あの時と同じ言葉。


返事はない。


父親が掌を向ける。

母親も同じように手を差し出す。


術式が展開される。


白い光。

複雑な魔法陣。

足元へ広がる紋様。


アリシアの身体が光り始める。


光が強くなる。

視界が白くなる。

両親の姿が遠ざかる。


今のアリシアなら分かる。

これは、転移魔法だ。


父親が微笑む。

母親も微笑む。

泣きそうな笑顔だった。


けれど。


最後まで優しかった。

最後まで。

娘を安心させようとしていた。


『待って!置いていかないで!』


そう言いたかった。

叫びたかった。


しかし。


あの時と同じように。


「パパー!ママーー!」


泣き叫ぶことしかできなかった。


手を伸ばす。

届かない。


どれだけ伸ばしても。

届かない。


世界が白に染まっていく。


最後に見えたのは。

涙を堪えながら微笑む二人の姿だった──。



* * *



柔らかな朝日が地平線から顔を出し始める頃。

レヴィン達はようやくカルディアへ帰り着いていた。


夜通しの移動だった。


世界樹の森から中央都市セントラル。

そこからカルディアまで。


少しでも早くアリシアの元へ帰るために。

少しでも早く黒蝕封環(ノワール・イクリプス)を解呪するために。


誰も弱音は吐かなかった。


だが、さすがに疲労は隠せない。

自宅のリビングへ入った途端。

スリアがソファへ倒れ込んだ。


「つ、ついたぁぁ……」


髪がだらりと垂れる。

完全に力尽きた様子だった。


無理もない。


ここまでの移動はほとんどスリアの風飛翔(レイウィング)によるものだった。

五人分の飛行を維持し続けるなど、本来なら簡単なことではない。


「わたし、頑張ったもん!」


スリアは胸を張った。


どこか誇らしげな顔。

子供のような笑顔。

その様子にカイルが思わず笑った。


「確かにな。今回一番働いたのはスリアかもしれないな」


ハーティアも頷く。

スリアはさらに胸を張った。


「えっへん!」


すると、レヴィンが苦笑しながら頭へ手を置く。


ぽん。

ぽん。


優しく撫でる。


「助かったよ」


「えへへ……」


少しだけ照れたように笑う。


疲れているはずなのに。

その顔はとても嬉しそうだった。


「それじゃあ」


レヴィンがアイハを見る。


「行こう」


その言葉にアイハが頷いた。


空気が変わる。

和やかな雰囲気が消える。

全員が目的を思い出す。


アリシアを救う。


そのためにここまで来たのだ。


二階。

静かな廊下。


朝日が窓から差し込み、床へ長い影を落としている。


レヴィンとアイハは並んで歩く。

誰も喋らない。

扉の前へ辿り着く。


アリシアの部屋。


レヴィンは一瞬だけ立ち止まった。


深呼吸。


そして、ゆっくりと扉を開ける。



* * *



変わらない部屋だった。


猫のぬいぐるみ。

熊のぬいぐるみ。

壁に飾られたドライフラワー。


甘く優しい香り。

女の子の部屋。


そして。


眠り続けるアリシア。


薄いカーテンが揺れる。

朝日が差し込む。

舞い上がる小さな塵が光を反射していた。


レヴィンはアリシアを見る。


首筋まで伸びる黒い紋様。

痛々しい痕跡。


まだ消えていない。

まだ終わっていない。


「……っ!?」


レヴィンが目を見開く。


アリシアの頬。

一筋の涙。

静かに流れていた。


「……泣いて、いるのか…」


掠れた声。


眠っているはずなのに。

意識はないはずなのに。

涙だけが零れている。


胸が締め付けられる。


「……パパ……」


小さな声。


「……ママ……」


寝言だった。


かすかに。

本当にかすかに。

だが、確かに聞こえた。


レヴィンは何も言えなかった。


アリシアが今どんな夢を見ているのか。

どんな記憶を辿っているのか。


それでも。


辛い夢なのだろうと分かった。


涙が全てを物語っていた──。


しばらく沈黙が続く。

やがて、レヴィンは静かに振り返った。


アイハを見る。


「アリシアを頼む」


短い言葉。

だが、その中には全てが込められていた。


祈り。

願い。

希望。

兄としての想い。


アイハは真剣に頷いた。


「お任せくださいませ」


アイハがベッドの傍へ立つ。


両手を胸元へ。

ゆっくりと目を閉じる。


そして。


淡い七色の粒子が集まり始めた。


光。

光。

光。


無数の粒子。

やがて、一つの光球になる。


世界樹で見たものと同じ。


優しく。


神秘的な光。


次の瞬間。

光球が眩く光ると弾けた。


ぱぁん。


七色の粒子が部屋中へ広がる。

まるで祝福の雨だった。

光がアリシアの身体へ降り注ぐ。


優しく。


包み込むように──。


変化はすぐに現れた。


首筋の黒い紋様。

それが、少しずつ粒子へ変わっていく。


黒が崩れる。

光へ変わる。

消えていく。


「……!」


レヴィンは息を呑む。


黒い模様は首だけではない。

身体へ広がっていた呪い。


全て。


全てが粒子となって昇っていく。


まるで夜が明けるように。

闇が消えていく。


やがて、最後の黒が消えた。


静寂。

部屋を包む朝の光。


そして。


「……んっ」


小さな声。


アリシアの睫毛が震える。


ゆっくり。

本当にゆっくり。


瞳が開かれる。


ぼやけた視界。

白い天井。

差し込む朝日。


そして、目の前にいる人。


「アリシア!」


レヴィンだった。


今にも泣きそうな顔。

必死に堪えている顔。


そんな顔を初めて見た。


「……お兄……ちゃん……?」


掠れた声。


だが。


確かに届いた。


「ああ!」


レヴィンが膝をつく。


「ああ……!」


声が震える。

感情を抑えきれない。


レヴィンは堪らずアリシアを抱き締めた。


強く。

失わないように。

確かめるように。


「お兄ちゃん……」


アリシアの瞳から涙が溢れる。


「お兄ちゃん……!」


堰を切ったように流れる。


止まらない。


怖かった。

寂しかった。

会いたかった。


全部が溢れる。


「大丈夫」


レヴィンは優しく頭を撫でる。


「もう大丈夫だ」


その声は。

昔と同じだった。


海辺で出会った日。

涙を拭いてくれた日。

あの日と同じ。


優しい声だった。


「ありがとう……」


アリシアは泣きながら呟く。


「ありがとう……お兄ちゃん……」


レヴィンは何も言わない。

ただ、優しく髪を撫で続けた。


(あの時──)


アリシアは目を閉じる。


(声を掛けてくれて)


海辺。

風。

ハンカチ。

優しい笑顔。


(ありがとう)


窓の外では風が吹いていた。


柔らかな朝の風。

カーテンを揺らす優しい風。


まるで。


祝福するように。

「おかえり」と言うように。

その風は静かに部屋を包み込んでいた──。

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