希望
アリシアの部屋には静寂が満ちていた。
窓から差し込む昼の陽光が、白いレースカーテンを柔らかく透かしている。
整えられた木製の机。
その上には、可愛らしい猫と熊のぬいぐるみが仲良く並んでいた。
壁には丁寧に束ねられたドライフラワー。
淡く甘い花の香りが部屋全体に漂っている。
誰が見ても分かる。
ここは女の子の部屋だ。
明るくて。
温かくて。
少しだけ可愛らしい。
その部屋の主は――今もベッドの上で眠り続けていた。
アリシア。
規則正しい寝息。
穏やかな寝顔。
ぱっと見れば、少し寝坊しているだけにも見える。
だが、その首筋に刻まれた黒い紋様だけが異様だった。
細い首から肩口へ。
まるで生き物のように絡みつく漆黒の模様。
黒蝕封環。
黒衣の魔導士が残した呪い。
レヴィンはベッドの横に立ったまま、しばらく妹の顔を見つめていた。
昨日から何度も見ている。
それでも。
目を離すのが怖かった。
次に見た時には、もっと悪くなっているのではないか。
そんな考えが脳裏をよぎる。
「……アリシア」
呼んでみる。
返事はない。
分かっている。
それでも呼んでしまう。
もし目を覚ましたら。
きっとこう言うだろう。
『お兄ちゃん、そんな怖い顔してどうしたの?』
あるいは。
『あれ? 私、寝ちゃってた?』
そんな呑気な声が聞こえてきそうな気がして。
レヴィンは苦笑した。
少しだけずり落ちていた毛布を肩まで掛け直す。
「……行ってくる」
返事はない。
静かな部屋。
聞こえるのは時計の音だけだった。
レヴィンはそっと部屋を後にした――。
* * *
――時は少し遡る。
昨夜。
青霊草盗難事件は終結した。
だが、誰一人として勝利を喜べなかった。
カルディアの夜道を歩くレヴィンの背には、意識を失ったアリシアがいる。
小さな身体。
軽い。
あまりにも軽い。
普段はあれほど元気に動き回っているのに。
今はまるで人形のようだった。
隣を歩くスリアも珍しく静かだった。
いつもなら絶えず喋っている彼女が、一言も発しない。
俯きながら歩いている。
精霊である彼女は、人の感情に敏感だ。
だからこそ。
今の状況がどれほど深刻なのか理解していた。
やがて家へ辿り着く。
玄関扉が開いた。
「おかえりなさい――」
迎えに出たミレナの声が止まる。
視線は自然とアリシアへ向いた。
そして。
一瞬だけ表情が凍る。
「……アリシア?」
母親としての本能だった。
何かが起きた。
それだけは瞬時に理解した。
しかし。
ミレナは取り乱さなかった。
ゆっくり息を吸う。
そして静かに言った。
「二階へ運びましょう」
その声は少しだけ震えていた。
* * *
アリシアをベッドへ送った後。
レヴィンは部屋を出た。
「スリアちゃん、手伝ってくれる?」
「……うん」
元気のない返事。
ミレナとスリアは部屋に残る。
レヴィンは廊下で待つことしかできなかった。
扉越しに聞こえる小さな物音。
布の擦れる音。
時折聞こえるミレナの声。
何もできない。
それが一番苦しかった。
剣は振れる。
魔物とも戦える。
街だって守れる。
なのに。
一番守りたい相手を助ける方法が分からない。
拳を握る。
爪が掌へ食い込んだ。
しばらくして扉が開く。
ミレナとスリアが出てきた。
スリアはもう限界だったらしい。
眠気でふらふらしている。
けれど、それ以上に疲れが顔へ出ていた。
精神的な疲労。
大切な友人を失うかもしれない恐怖。
レヴィンは簡単に今日の出来事を説明した。
地下シェルター。
黒衣の魔導士。
黒蝕封環。
全てを聞き終えたミレナは静かに目を閉じる。
そして。
「今日はもう遅いわ」
そう言った。
「詳しい話は明日にしましょう」
「でも――」
「レヴィン」
優しい声だった。
だが、有無を言わせない母親の声でもあった。
「今は休みなさい」
レヴィンは何も言えなくなる。
その夜。
誰も深く眠れなかった――。
* * *
──そして翌日。
昼。
リビングダイニングには重苦しい空気が流れていた。
テーブルにはアオイ、ナナミ、ハーティア、カイル。
ソファにはスリア。
キッチンカウンターの向こうにはミレナ。
そして、空席がひとつ。
誰も口にしない。
だが全員が分かっている。
本来、そこに座っているはずの少女がいないことを。
最初に立ち上がったのはカイルだった。
深く頭を下げる。
「俺のせいでこんなことになっちまって、すまねぇ!」
その横でハーティアも立ち上がる。
「申し訳ありません……」
兄妹揃って頭を下げる姿に、誰もすぐには言葉を返せなかった。
空気は重い。
重苦しいままだ。
アオイが静かに口を開いた。
「まずは、自警団で判明したことから話すわ」
そう言って、午前に行われた事情聴取について語り始めた。
アオイの声と共に、一同の視線が自然と彼女へ集まる。
普段のアオイなら、もう少し柔らかい導入をしただろう。
だが、今は違う。
この場にいる誰もが、アリシアの寝顔を見てきた。
だから余計な前置きはなかった。
「午前中、自警団でカイルの事情聴取が行われたわ」
アオイは腕を組みながら話を続ける。
「そこで、教会にいる子供達がやって来たの」
その瞬間、カイルが少しだけ目を伏せた。
* * *
――午前。
カルディア自警団詰所。
事情聴取は終盤に差し掛かっていた。
カイルは椅子に座り、自警団員の質問へ答えている。
魔素精製設備。
黒衣の魔導士。
盗難事件。
一通りの確認が終わりかけた、その時だった。
ばたばたと慌ただしい足音が廊下から響く。
扉が勢いよく開いた。
「カイルお兄ちゃん!」
数人の子供達だった。
教会で預かっている子供達。
その中の一人。
茶色の髪をした少年が前へ出る。
そして、突然深く頭を下げた。
「僕がいけないんです!」
部屋の空気が止まった。
誰も意味が分からない。
少年は泣きそうな顔で続ける。
「僕のせいなんです……!」
* * *
――それは事件が起きる少し前。
カルディア北区近くの出来事だった。
休日。
子供達はかくれんぼで遊んでいた。
よくある子供達の遊びだ。
その少年は、勝ちたい一心でどんどん奥へ進んでしまった。
気付けば見慣れない場所。
青霊草管理区域近く。
本来なら近付いてはいけない場所だった。
その時だった。
少年は見てしまう。
黒い何かを。
人のようにも見える。
だが、人ではない。
輪郭が曖昧で。
まるで煙が人の形を真似ているような存在。
思念体──黒衣の魔導士だった。
少年は恐怖で固まった。
逃げようとした。
だが、足が動かない。
黒い霧が伸びる。
身体を掴まれる。
声が出ない。
涙だけが溢れた。
その時。
「その子から離れろ!」
怒声が響いた。
駆け付けたのはカイルだった。
偶然、異変に気付いた彼が現場へ辿り着いたのだ。
黒衣の魔導士は興味深そうに首を傾げた。
『ほう』
その視線が少年からカイルへ移る。
嫌な予感がした。
カイルは理解していた。
目の前の存在は危険だ。
この子供が狙われている。
「……その子の代わりに俺がやる」
少年が顔を上げる。
黒衣の魔導士が笑う。
『代わりに?』
「ああ」
カイルは迷わなかった。
「子供を巻き込むな」
沈黙。
そして、黒い霧がゆっくりと伸びた。
『良いだろう』
それが全ての始まりだった──。
* * *
リビングダイニングに沈黙が落ちていた。
カイルは拳を握り締めていた。
「……結果的に利用された」
自嘲気味に笑う。
「格好つかねぇよな」
その声には後悔が滲んでいた。
レヴィンは静かに首を振る。
「あれは仕方なかった」
真っ直ぐな言葉だった。
「俺でも同じことをした」
スリアも頷く。
ミレナも複雑そうな表情で微笑んだ。
責める者は誰もいない。
むしろ。
誰もが理解していた。
カイルもまた被害者だったのだと。
重くなった空気を変えるように、ナナミが口を開いた。
「そういえばさ」
頬杖をつく。
「昨日の地下の設備だけど」
「うん?」
「あんな、どこにでもあるような物で精製なんて出来るだね?」
「私も驚いたわ」
アオイも同意する。
「精製方法なんて聞いたこともなかった」
青霊草で魔素精製が出来ることは知っていた。
だが、精製方法は情報漏洩防止のため、一部の上層部しか知らない。
すると。
「音を使うんだ」
ふいにカイルが答えた。
一同の視線が集まる。
「音?」
ハーティアが首を傾げる。
カイルは頷いた。
「静鳴歪化っていう技術だ」
聞き慣れない言葉だった。
「この精製法最大の条件は“残響以外の音を存在させないこと”」
一同が顔を見合わせる。
カイルは続けた。
「地上では“世界の音”が多すぎる。…だから、地下シェルターを使った」
確かに、あそこほど静かな場所はない。
封鎖中とあれば、なおさらだ。
「青霊草を細裂きにし、鉄皿へ円状に並べる。そして、中央へ水盆。これは空気振動を安定化させるため」
一同が聞き入る。
「部屋の中央へ吊るした金属鐘を、一度だけ鳴らす。たった一回」
カイルは指先で机を軽く叩いた。
「その後は、完全沈黙」
指を口に添えて俯く者。
腕を組みながら空を見る者。
一同はカイルの説明を聞きながらシミュレートしていた。
「青霊草内部の高純度マナは“最後に受けた音”を内部残響として保持する性質を持つ。静寂空間では、その残響が減衰せず、長時間内部反射を繰り返す。」
だんだんと、答えが見えてくる。
「すると、内部循環が少しずつ歪み始め、やがてマナが“正常形状”を維持できなくなる」
レヴィンが眉をひそめる。
「それが魔素か」
「ああ。全部、アイツの入れ知恵だけどな」
カイルは頷く。
崩壊したマナ。
魔素。
その説明を聞きながら、全員の表情が少しずつ険しくなっていく。
理論は理解できた。
だが。
理解できたからこそ危険性も分かる。
「……悪用されたらまずいな」
レヴィンが呟く。
アオイは静かに頷いた。
「だからお願いがあるわ」
全員を見る。
「この事は他言無用で」
真剣な声だった。
「模倣する人間が現れたら取り返しがつかない」
誰も異論はなかった。
アリシアの姿が脳裏を過ったからだ。
全員が静かに頷く。
* * *
再び本題へ戻る。
黒蝕封環。
部屋の空気が自然と重くなった。
最初に口を開いたのはハーティアだった。
「……黒蝕封環」
その言葉だけでレヴィンの拳が僅かに握られる。
「知っているのか?」
問い掛ける。
ハーティアは小さく頷いた。
「少しだけ」
そして言葉を選びながら続ける。
「禁忌…。呪法です」
その場の空気が冷える。
「あれは、対象者とマナの接続を断つ封印術」
レヴィンは思わず顔を上げる。
「接続?」
「はい」
ハーティアの表情も苦しかった。
「マナと魂を結ぶ経路を封じる呪法です」
つまり、魔法が使えない。
という単純な話ではない。
アリシアという存在そのものから、マナとの繋がりが奪われている。
だから目覚めない。
だから反応しない。
レヴィンの胸が締め付けられる。
「解呪は?」
ハーティアは申し訳なさそうに首を振る。
「ごめんなさい……」
声が震える。
「私の力では……」
沈黙。
レヴィンは隣のカイルを見る。
だが、カイルも俯いた。
「すまねぇ」
腰のショットガンへ軽く触れる。
「俺は悪霊退治の方が専門だ」
空気が再び沈む。
誰も言葉を発しない。
ただ重い沈黙だけが流れていた。
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
時計の針の音だけが妙に大きく聞こえた。
誰も悪くない。
誰も諦めたくない。
だからこそ苦しい。
解決方法が見えないという事実だけが、全員の心を少しずつ削っていた。
そんな空気を変えたのはナナミだった。
「それにしてもさ」
わざと明るい声を出す。
全員の視線が向く。
「レヴィンって結構すごいことしたよね?」
「……何がだ?」
「何がって」
ナナミは肩を竦める。
「あの黒い奴、倒したじゃん」
黒衣の魔導士。
思念体。
あの異様な存在。
誰もが忘れられない相手だった。
「普通に考えておかしいからね?」
ナナミが言う。
「思念体なんて私達じゃどうにもならないし」
「確かに」
アオイも頷く。
昨日の戦いを思い出しているのだろう。
レヴィンは少しだけ視線を落とした。
腰に掛けているシグムンドへ手を添える。
「……俺の力じゃない」
静かな声だった。
「ココのお陰だ」
その言葉にスリアが頷く。
「うん」
彼女も知っている。
長い付き合いだ。
シグムンドへ宿る戦乙女の精霊、ココ。
「アイツの精神は断った」
レヴィンは続ける。
「精神の死は、魂の死だ」
誰も口を挟まない。
「仮に肉体が残っていたとしても」
一拍置く。
「今頃は、もぬけの殻だろう」
植物状態。
誰もその言葉を口にはしなかったが、意味は理解した。
黒衣の魔導士は消えた。
少なくとも、あの思念体は。
だが。
それでもアリシアは目覚めない。
その事実だけは変わらなかった──。
再び沈黙が落ちる。
誰も次の言葉を探していた。
その時だった。
ソファに座っていたスリアが突然顔を上げる。
「あっ!」
全員がびくりとする。
スリア本人も驚いた顔をしていた。
「……そうだ!」
勢いよく立ち上がる。
「アイハ!」
「アイハ?」
レヴィンが首を傾げる。
聞き覚えのない名前だった。
「うん!」
スリアの瞳が僅かに輝く。
「アイハなら何か分かるかもしれない!」
部屋の空気が変わる。
絶望しかなかった場所へ、小さな光が差し込んだようだった。
「誰なんだ?」
レヴィンが問う。
スリアは当然のように答える。
「世界樹の森を守ってる精霊」
世界樹。
世界中央に存在する超巨大樹。
世界そのものを支えるとまで言われる神域。
その周囲に広がる世界樹の森。
そして、そこを守護する精霊。
「深緑の精霊、アイハ」
スリアは真剣だった。
普段の彼女からは珍しいほどに。
「アイハなら世界樹の恩恵を使える」
「恩恵……?」
ハーティアが小さく呟く。
「エルフはね…」
スリアはゆっくり説明する。
「昔、世界樹から生まれたんだよ」
神話にも残る話だ。
「だから、世界樹には生命と魂に関する力があるの」
全員が耳を傾ける。
「黒蝕封環を解けるかは分からないけど…」
一度言葉を区切る。
「でも」
そして真っ直ぐレヴィンを見る。
「今ある希望の中では、一番可能性があると思うの」
レヴィンは拳を握る。
藁にも縋る思いだった。
それでも構わない。
可能性があるなら。
どこへでも行く。
「行こう」
即答だった。
「世界樹の森へ」
しかし。
「待って」
アオイが割って入る。
全員が彼女を見る。
「世界樹の森は誰でも簡単に入れる場所じゃないわ」
レヴィンが眉をひそめた。
「許可が必要なのか」
「ええ」
アオイは頷く。
「セントラルで発行される正式許可証」
それだけでも面倒そうだった。
だが、続く言葉はもっと重い。
「取り寄せるのは簡単じゃない」
空気が再び沈む。
神域。
当然といえば当然だった。
そう簡単に立ち入れる場所ではない。
「……そうか」
レヴィンが小さく息を吐く。
せっかく見えた希望。
それがまた遠ざかったように感じた。
その時。
「私に伝手があるわ」
柔らかな声が響いた。
全員が一斉に振り返る。
キッチンカウンターの向こう。
ミレナだった。
「え?」
ナナミが目を瞬く。
ミレナは微笑んでいる。
「昔ね」
少し懐かしそうな顔。
「セントラルの領主館で働いていたの」
沈黙。
数秒。
全員の思考が停止する。
「……え?」
レヴィンが最初だった。
「えぇぇぇぇ!?」
次にナナミ。
「領主館!?」
ハーティアも驚いている。
スリアですら目を丸くしていた。
「ミレナ、そんなこと一回も言ってなかったよ!?」
「話す機会がなかったもの」
ミレナは苦笑する。
だが、全員の驚きは収まらない。
カルディアの優しいお母さん。
そんなイメージしかなかったからだ。
「紹介状を書いてあげるわ」
ミレナは続ける。
「それを持って行きなさい」
その言葉に。
部屋の空気が一気に変わった。
希望が繋がった。
今度こそ。
確かな形で──。
* * *
昼食後。
慌ただしく準備が進む。
旅支度。
保存食。
水筒。
替えの衣服。
必要最低限の荷物。
アオイとナナミはカルディアへ残る事になった。
事件の後処理がある。
自警団との連携も必要だ。
「任せたわよ」
アオイが言う。
「ああ」
レヴィンは頷く。
自宅前。
穏やかな風が吹いていた。
ミレナから紹介状を受け取る。
丁寧に封蝋された一通の書状。
「気を付けてね」
「行ってくる」
短いやり取り。
だが互いの想いは十分伝わっていた。
スリアが前へ出る。
両手を胸の前で重ねた。
風が集まる。
柔らかな緑の光。
「――風飛翔」
風の精霊魔法。
次の瞬間。
レヴィン達の身体がふわりと浮き上がる。
足が地面から離れる感覚。
何度経験しても慣れない。
空へ続く旅が始まる。
中央都市セントラル。
そして。
世界樹の森へ向けて──。
カルディアの街並みが少しずつ遠ざかっていく。
屋根。
運河。
港。
見慣れた景色。
それらが小さくなっていく様子を、レヴィンは黙って見つめていた。
風飛翔による長距離移動。
スリアの精霊魔法は非常に優秀だが、万能ではない。
飛行速度も高度も安定している反面、術者の負担は決して軽くない。
特に今回は四人分だ。
スリアもかなり集中している。
風が身体を包む。
頬を撫でる上空の空気は地上よりも冷たかった。
眼下には広大な緑が広がっている。
森。
草原。
川。
遠くには山脈も見えた。
カルディア周辺しか知らない人間が見れば、それだけで旅に出たくなるような景色だった。
「綺麗ですね……」
ハーティアが小さく呟く。
その横でカイルも頷いた。
「あぁ」
巡礼者である二人は旅慣れている。
それでも、この景色は何度見ても飽きないのだろう。
しばらく飛行を続けた頃。
「……むぅ」
スリアの眉がぴくりと動く。
レヴィンが心配して声を掛けた。
「スリア?」
「だいじょーぶ」
即答だった。
だが怪しい。
「本当にか?」
「うん」
数秒後。
「……ちょっと休憩」
やっぱりだった。
小さな泉のある草原へ降り立つ。
青空の下。
透明な水面が陽光を反射して輝いていた。
スリアは近くの岩へ腰掛ける。
額にはうっすら汗が浮かんでいた。
さすがに四人同時飛行は疲れるらしい。
ハーティアが水筒を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとー」
スリアは両手で受け取る。
そして、ごくごくと飲み始めた。
その様子を見ながらレヴィンは空を見上げる。
青い。
どこまでも青かった。
こんな穏やかな景色を見ていると。
昨日の出来事が嘘のように思える。
だが。
脳裏にはアリシアの寝顔が浮かぶ。
首筋に刻まれた黒い紋様。
静かな寝息。
返事のない呼び掛け。
胸が少し痛んだ。
「……助けないとな」
誰に言うでもなく呟く。
すると。
「助かるさ」
隣から声がした。
カイルだった。
レヴィンは視線を向ける。
カイルは泉を見ながら続けた。
「妹さん、強いからな」
その言葉に少しだけ笑みが浮かぶ。
確かに。
アリシアは簡単に諦めるような人間ではない。
だからこそ。
助けなければならない。
──再び空へ。
太陽は西へ傾き始めていた。
長い飛行。
やがて。
地平線の向こうに巨大な影が見え始める。
「見えたぁ」
スリアが声を上げる。
レヴィンも目を細めた。
中央都市セントラル。
世界最大級の都市。
人類圏の中心。
無数の灯りが夕闇の中で輝いている。
近付くにつれ、その巨大さが分かる。
高い外壁。
幾重にも張り巡らされた街道。
運河。
塔。
広場。
そして人の営み。
全てがカルディアとは桁違いだった。
* * *
──夜。
セントラル中央広場。
人、人、人。
夜になっても街は眠らない。
露店の呼び込み。
楽師の演奏。
商人達の値段交渉。
馬車の往来。
様々な音が混ざり合っている。
まるで巨大な生き物の腹の中にいるようだった。
レヴィンは小さく息を吐く。
「相変わらず落ち着かないな」
以前ギルドの引き継ぎで訪れた事はある。
だが、好きにはなれない。
人が多すぎる。
情報が多すぎる。
カルディアの方が落ち着く。
すると隣から声がした。
「わかる」
スリアだった。
「カルディアがいい」
真顔だった。
ハーティアが苦笑する。
「都会が苦手なんですね」
「大嫌い」
迷いのない返事だった。
少しだけ空気が和む。
それだけでありがたかった──。
その後、一行は宿屋へ向かった。
石造りの三階建て。
旅人向けとしてはかなり大きい部類だ。
一階には食堂が併設されている。
木の香りがする温かな内装。
長旅の疲れを癒すには十分だった。
席へ案内される。
テーブルの上へ次々と料理が並んでいく。
香草焼きの鶏肉。
具沢山の野菜スープ。
焼き立ての丸パン。
川魚の香草蒸し。
果実酒。
そして果汁水。
空腹だった事もあり、全員よく食べた。
特にスリアは。
「おいしい♪」
幸せそうだった。
昼間の疲労がかなり回復したらしい。
──食後。
部屋割りが決まる。
レヴィンとカイル。
スリアとハーティア。
男女で自然と分かれた。
レヴィン達の部屋は二人部屋だった。
窓の外には夜のセントラル。
無数の灯りが広がっている。
しかし。
部屋の中は妙に静かだった。
互いに何を話せばいいか分からない。
そんな空気。
先に口を開いたのはカイルだった。
「……妹さん」
レヴィンが振り向く。
「大事なんだな」
当たり前の質問だった。
「大事だよ」
レヴィンは即答した。
「家族だからな」
沈黙。
少しして、カイルが苦く笑う。
「俺も同じだ」
窓の外を見る。
「ハーティアは昔から身体が弱くてな」
レヴィンは黙って聞いていた。
「だから、余計に心配だった」
兄として。
守る側として。
その気持ちは痛いほど分かる。
「……守れなかった」
カイルの声が小さくなる。
レヴィンは首を振った。
「違う」
短く言う。
「お前は守った」
カイルが顔を上げる。
「子供達も。ハーティアも。結果的に利用されたとしても」
レヴィンは続けた。
「守ろうとした事実は消えない」
部屋が静かになる。
しばらくして。
カイルは苦笑した。
「不思議だな」
「何がだ?」
「少し楽になった」
その言葉に。
レヴィンも僅かに笑った。
兄同士だから分かる事もある。
そんな夜だった──。
一方、その頃。
隣室。
スリアはベッドへ倒れ込んでいた。
「つかれたぁぁぁ……」
完全に溶けている。
ハーティアが苦笑する。
「お疲れ様でした」
「むり」
「まだ何も終わってませんよ?」
「むりぃ」
ベッドへ顔を埋めるスリア。
しかし、その顔は少しだけ穏やかだった。
希望が見えたから。
アリシアを助けられるかもしれない。
その可能性があるから。
だから。
明日も頑張れる。
窓の外ではセントラルの灯りが静かに瞬いていた。
長い一日が終わる。
世界樹の森への旅は、いよいよ本番を迎えようとしていた──。




