黒蝕封環(ノワール・イクリプス)
階段を降りるたび、空気は冷たくなっていった。
壁に取り付けられた古い燭台には、いくつか新しい蝋燭が灯されている。
それが、この場所が“今も使われている”ことを何より雄弁に語っていた。
「……誰かいる」
ナナミが小さく呟く。
床には足跡。
壁際には、何かを運んだような擦れ跡。
そして、通路を進むほどに、香りが強まっていく。
青霊草の匂いだ。
レヴィンは表情を引き締めた。
「間違いない。ここで何かしてる」
狭い通路を進む。
蝋燭の火が揺れ、通路の奥を赤く染めた。
やがて辿り着いた最深部で、一行は息を呑む。
「……これって」
アリシアの声が、震えた。
そこには、積み上げられた大量の青霊草があった。
しかも、ただ山積みにされているだけではない。
その周囲には、器具がいくつも並んでいる。
試験管。
鉄皿。
水が入った瓶。
金属鐘なんて物まである。
そして、まだ完全には仕上がっていないであろう、淡黒い靄。
「これは……魔素……?」
アオイが呟く。
「青霊草を盗んでた理由は、これか」
レヴィンは、目の前の光景を見据える。
青霊草は特殊な方法で精製すると魔素になる。
つまり、この地下では盗まれた資源を使って、魔素を精製していた。
ただの盗難ではない。
これは、明確な意図を持った準備だ。
「何のために……」
アリシアが踏み出す。
その時だった。
「……っ!」
スリアがアリシアの袖を掴んで制す。
──パァン!!
銃声と共に、足元の床が抉れる。
「……来るんじゃ…ねぇ…!」
暗がりの奥から、低い声が響いてきた。
全員の視線が、一斉にそちらへ向く。
そこに立っていたのは、黒いローブの男だった。
カイル。
その目に宿る色は鋭く、どこか壊れかけていた。
「兄さん……?」
ハーティアが息を呑む。
その声には、驚きと、信じたくないという感情が混ざっていた。
「ハーティア…か…?」
カイルは、わずかに肩を震わせた。
だが、それは動揺ではない。
むしろ、理性の糸をぎりぎりで保っているような、危うい揺れだった。
「来るな、ハーティア」
低く、掠れた声。
「兄さん、どうして……っ」
「来るなと言った!」
カイルの声が、突然荒れる。
次の瞬間、彼は懐からショットガンを抜き、躊躇なく引き金を引いた。
轟音。
床が吹き飛ぶ。
「っ!」
レヴィン達が咄嗟に飛び退く。
破片が散り、石床に穴が空いた。
「本気で撃ってくるなんて……!」
ナナミが叫ぶ。
ハーティアはその場に固まったまま、震える瞳で兄を見ていた。
「兄さん……どうして……」
だがカイルは答えない。
まるで、彼自身が何かに操られているように。
「……下がって、ハーティア」
アオイが庇うように前へ出る。
レヴィンはすでにシグムンドへ手を掛けていた。
「スリア、頼む」
「うん!」
スリアは頷くと、すぐさま動く。
「風障壁」。
シェルター内の空気が震え、目に見えぬ壁が展開された。
間髪を要れず、カイルは引き金を引く。
幾重もの風壁が飛来した散弾を押し返し、軌道を逸らした。
「…何か、使えるものは?」
アリシアは周囲を見渡す。
彼女の視線は、戦場そのものを見ていた。
「蝋燭の火。それにこの空気……風も回ってる」
その瞳が、僅かに鋭くなる。
緊張していないわけではない。
けれど、戦うと決めた時のアリシアは強い。
(──よし。いける)
アリシアは両掌を向かい合わせた。
火のマナが揺れる。
風のマナがそれを押し上げる。
掌でマナが紡がれ、地下の空気が一瞬だけ熱を帯びた。
「火球!」
放たれた火球は、炎そのものでは終わらない。
風を纏い、加速し、カイルの足元へ炸裂する。
爆炎。
「くっ……!」
衝撃でカイルの身体がわずかに仰け反る。
レヴィンはその隙を逃さない。
「今だ!」
一気に踏み込む。
シグムンドの刃が閃こうとした、その時――。
黒い魔力が、闇の奥から飛来した。
空気が変質する。
温度が落ちる。
それは、ただの魔法ではなかった。
より濃く、より冷たい、嫌な何か。
レヴィンの背筋に、ぞくりとした感覚が走る。
闇が、形を持って集まり始めていた。
そこにいるのは、ただの敵ではない。
“もっと奥”から来た何かだ。
そう理解した瞬間、地下シェルターの空気は、完全に別のものへ変わった。
さっきまでただの冷たい闇だった場所が、今はもっと薄汚く、もっと嫌な重みを帯びている。
肌を撫でるだけで、何か大事なものが削られていくような――そんな感覚すらあった。
「……っ、何だ、この感じ」
レヴィンが剣を構え直す。
闇の奥から滲んだ黒い魔力は、床へ落ちるより先に霧となって広がり、地下通路の隅々へまとわりついていく。
その中心に、ひとつの影が立っていた。
黒いローブ。
だが、先ほどまでのカイルとは違う。
輪郭はどこか曖昧で、足元は床に触れていないようにも見える。人の形をしているのに、人ではない。
アオイが目を細めた。
「……思念…体?」
影が、かすかな笑みを浮かべるように揺れた。
「ご名答」
低い声だった。
耳に入るだけで、体温が数度下がるような声音。
レヴィンは、カイルを一瞬だけ見た。
男は床へ膝をつき、苦しげに肩で息をしている。
意識があるのかないのかも曖昧だった。
だが、今この場を動かしているのは、彼ではない。
目の前の黒い存在だ。
「……お前が、全ての元凶か」
レヴィンの声は低かった。
「盗難事件も、青霊草も、カイルも」
「そうだとも」
思念体──黒衣の魔導士は淡々と答える。
「青霊草は魔素の媒質として優秀でね。あれを集め、精製し、蓄積する…」
「魔素……研究してたってこと?」
アオイが身構えたまま問う。
「研究、か」
黒衣の魔導士は小さく笑う。
「そう言ってもいい。それに、私は知りたかったのだ。人が、どこまで耐えられるのか。どこまで壊れるのか」
その言葉には、狂気があった。
それも激情ではない。
静かで、冷え切っていて、だからこそ恐ろしい狂気だ。
「……気持ち悪い」
ナナミが吐き捨てる。
「人を実験みたいに言うな!」
「実験だ」
即答だった。
「未完成の計画を完成させるためには、試すしかない。私はただ、その過程に立ち会っているだけだ」
ハーティアが、はっとして顔を上げる。
「……兄さんを、使ったの?」
「使った?」
黒衣の魔導士は薄く首を傾けた。
「いや、彼は自ら望んだのだよ。絶望した心は、とても扱いやすい」
「嘘よ!」
ハーティアが声を震わせる。
「兄さんはそんな人じゃない!」
「だったら、確かめるといい」
黒衣の魔導士は、片手を持ち上げた。
その瞬間、淡黒い靄が、ひとつ、ふたつと鈍く光り出す。
「来い」
短い命令。
すると、淡黒い靄が霧状に噴き上がり、形を得る。
歪んだ腕。
裂けた口。
目のない顔。
魔素で作られた魔物だ。
「っ、増えた!?」
アリシアが息を呑む。
「前衛、俺とアオイ、ナナミで受ける! アリシア、スリア、後衛を頼む!」
レヴィンが声を張る。
「了解!」
返事と同時に、戦いが始まった。
* * *
最初に動いたのはレヴィンだった。
シグムンドが淡く輝く。
光が刀身をなぞり、ココの意志が重なるように刃先へ流れ込んでいく。
『いくぞ、レヴィン』
脳裏に響くのは、凛々しい精霊の声。
常時発動型の『身体強化』が、彼の筋肉へ自然な加速を与えた。
踏み込み。
一閃。
魔物の腕が切り裂かれ、黒い霧へ戻る。
その隣では、アオイが静かなまま敵の懐へ入っていた。
月下美人が抜き放たれる。
鋭い抜刀。
銀の軌跡が、魔物の首元を断つ。
「斬りやすい相手ね」
表情ひとつ変えず、彼女は次の敵へ視線を送った。
ナナミは正反対だった。
「うわ、気持ち悪っ……!」
嫌そうに言いながらも、動きは速い。
ベク・ド・コルバンが大きく振るわれ、斧刃が魔物の胸を砕く。
薙ぎ払い、刺突、引っ掛け、を得意とする変則機動型武装。
「数で来るならこっちも遠慮しない!」
まるで嵐だった。
三人の前衛が敵の進行を止める間、スリアは後方で両手を広げる。
透明な風壁が何層にも重なり、魔物の飛びかかりを弾いた。
「こっち来ないで!」
普段はふわふわしている声なのに、今は真剣そのものだった。
風の流れを読む瞳が鋭い。
攻撃そのものは得意ではなくとも、守る力では誰よりも頼もしい。
「レヴィンさん、危ない!」
ハーティアが叫ぶ。
その声に、魔物と対峙していたレヴィンが、はっと後ろを見る。
──パッ、パァン!
ハーティアが双銃を、両手に構えていた。
デュアルハンドガン。
腰のホルスターから抜かれた銃口が、魔物へ向けられる。
撃つ。連射。
乾いた銃声が反響し、魔物の動きを鈍らせる。
「助かる!」
レヴィンの一閃。
黒い霧へと化す魔物。
(隙ができた!)
その一瞬を、アリシアは見逃さなかった。
彼女の視線は、すでに地下全体へ広がっている。
蝋燭の炎。
回る風。
飛び交う塵。
足元に残る湿気。
すべてが、ひとつの魔法へ収束できる材料だった。
「……いける」
小さく呟く。
火のマナを起こす。
風のマナを重ねる。
そこへ、地のマナとほんの少しの水のマナ。
揺れる蝋燭の火を導線にして、マナを紡いでいく。
彼女の才能は、ただ魔法を放つことではない。
環境を読んで、最も効率的に、最も確実に、力を通すことだ。
掌を前へ突き出す。
「雷撃!」
様々なマナを媒介にして発現した雷が、地下を一直線に駆け抜けた。
白い閃光。
轟音。
魔物群が一斉に焼き切られ、黒い霧となって霧散する。
「っ、やった……!」
アリシアの息が荒い。
だが、その瞳には確かな手応えがあった。
マナ魔法は、ただの力ではない。
世界にある流れを繋ぎ直す技術だ。
その感覚が、彼女の中で確かに芽吹いていた。
そして、雷光に巻き込まれたカイルが大きくよろめく。
「今だ!」
そのままレヴィンが一気に踏み込む。
シグムンドの柄が、剣ではなく“救出のための一撃”として振るわれた。
鈍い音。
カイルの身体が崩れ、床へ倒れる。
気絶しただけだ。
「……これで、ひとまず止まった」
レヴィンは短く息を吐き、カイルを見下ろした。
だが。
まだ終わっていない。
* * *
地下の最奥で、黒衣の魔導士は静かに立っていた。
魔物を失っても、まるで痛痒を感じていない。
むしろ、その黒い輪郭の奥で、冷たい感情が静かに濁っているのが見えた。
「見事だ」
拍手すらせず、ただ声だけを落とす。
「黙れ」
レヴィンが低く言う。
彼の横へ、アオイ、ナナミ、スリア、そしてハーティアが並ぶ。
アリシアも、まだ呼吸を整えながら横へ立っていた。
全員で、黒衣の魔導士を睨みつける。
だが――。
レヴィンの剣が黒い霧を裂いた瞬間、その刃は何も斬れずに通り抜けた。
「……っ」
アオイも、ナナミも同時に眉を寄せる。
物理攻撃が、通じない。
相手は実体そのものではなく、思念体だ。
「無駄だ」
黒衣の魔導士は淡々と言った。
「お前達の剣も槍も、私には届かない」
次の瞬間、スリアの風壁が揺れる。
だが、それを見て黒衣の魔導士は視線をアリシアへ向けた。
「……鬱陶しい」
低い声だった。
苛立ちが、はっきり混じっていた。
「お前だけは、面倒だ」
アリシアが息を呑む。
「なに……?」
「世界に触れ、マナを繋ぎ、術式を通す。実に厄介だ」
黒衣の魔導士は、ゆっくりと両腕を広げた。
空気がざらつく。
地下全体が、黒い環に包まれる。
「ならば、封じればいい」
嫌な気配。
レヴィンが叫ぶ。
「アリシア、下がれ!」
だが、遅かった。
「――黒蝕封環」
黒い封環が、アリシアの身体へ絡みつく。
鎖ではない。
輪でもない。
まるで“世界そのものから切り離すための枷”のような、嫌な圧だった。
「っ……!」
アリシアの足元が揺らぐ。
黒い紋様が、腕から肩へ、胸元へ、全身へとじわじわと侵食していく。
「やだ……なに、これ……」
声が震える。
「火が……」
アリシアは、自分の手を見た。
「風が……」
両手を伸ばしても、何も感じない。
「地が……水が……」
繋がっていたはずの感覚が、ひとつ、またひとつと剥がれていく。
マナ魔法を扱う者にとって、マナは呼吸と同じだ。
見えなくても、常にそこにあるもの。
触れられなくても、ずっと自分を支えているもの。
それが、消えた。
「……なんで」
アリシアの瞳が揺れる。
「感じない……」
震える指先が、空を掴もうとする。
だが、掴めるものは何もない。
「マナが……感じない……っ」
彼女の膝が折れる。
「……いや……いや、やだ……」
涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
アリシアはこれまで、どんな時でも前へ出ようとしてきた。
怖くても、失敗しても、笑って立ち上がってきた。
けれど今は違う。
世界の輪郭が失われていく恐怖に、ただ怯えるしかない。
「お兄…ちゃん……」
小さく呼ぶ声は、もうほとんど掠れていた。
次の瞬間、黒い雷が全身を走り、床へ崩れ落ちる。
レヴィンの顔から、血の気が引いた。
「アリシア!」
彼はすぐに駆け寄り、妹の身体を抱き起こす。
だが、返事はない。
瞳は閉じられ、呼吸だけが微かにある。
そして、身体に刻まれた黒い紋様だけが、冷たくそこにあった。
「……お前が」
レヴィンは、ゆっくりと顔を上げた。
怒鳴らない。
叫ばない。
ただ、静かだった。
それなのに、その声は誰よりも恐ろしい怒りを含んでいた。
「……お前がやったのか」
黒衣の魔導士が、わずかに沈黙する。
「そうだとしたら?」
その返答に、レヴィンの中で何かが切れた。
ココの声が、剣の奥で静かに響く。
『レヴィン……』
「わかってる」
レヴィンはアリシアをそっと地面へ寝かせる。
その指先が一瞬だけ震えたが、すぐに止まった。
彼は立ち上がる。
シグムンドを手に歩み入れる。
「俺は、誰かを憎むのが嫌いなんだ」
一歩。
床を踏む音が、やけに静かに響く。
「だけど――」
もう一歩。
「今だけは」
剣先に、光が集まる。
「お前を許せそうにない」
ココが、剣に精神の輝きを付与する。
淡い光が刃へ走り、目には見えない“意志”が形を持つ。
霊想斬破!
それはただの斬撃ではない。
精神と心象を断ち切る、精霊の刃。
レヴィンは踏み込んだ。
最短距離。
一気に間合いへ入り、剣を振り抜く。
黒衣の魔導士は霧のように身を引いたが、間に合わない。
精神そのものへ叩き込まれた一閃が、黒い思念体を裂いた。
「……ぐっ……!」
黒衣の魔導士の輪郭が激しく揺れる。
黒い霧が崩れ、叫びにも似た歪な音を立てて消えていく。
「……まだ……終わ……」
最後まで言い切る前に、思念体は霧散した。
残ったのは、ひどく冷えた空気だけだった。
* * *
事件は、ひとまず終わった。
カイルは保護され、ハーティアもそれに連れ添う。
地下シェルターに残っていた魔素精製器具も押収された。
青霊草盗難事件も、ようやく全容が見えた。
だが。
勝ったはずなのに、誰も勝利を口にできなかった。
ギルドへ戻った夜。
カルディア支部の中には、重い沈黙が落ちていた。
アリシアは寝台に横たえられている。
呼吸はある。
けれど目は開かない。
あの黒い紋様は、まだ消えていない。
「……解けないの?」
ナナミが小さく呟く。
アオイは静かに首を振った。
「今のところ、方法は分からない」
スリアは窓辺に立ったまま、何も言わず外を見ている。
レヴィンはベッドの傍らに座り、アリシアの手をそっと握った。
あたたかい。
けれど、返事はない。
あの明るい声も、ふくれっ面も、今はどこにもない。
「……アリシア」
名前を呼んでも、ただ静かな部屋が返ってくるだけだった。
レヴィンは、目を閉じた。
事件は終わった。
青霊草の盗難は止まった。
カイルも見つかった。
それでも。
何ひとつ、終わった気がしない。
むしろ、ここから始まるのだと、誰もが理解していた。
失ったものを取り戻すための戦いが。
アリシアを救うための旅が。
その夜、カルディアの灯りはいつも通り静かに揺れていた。
だが、ギルドの中だけは、深い夜の底みたいに重かった。
レヴィンはアリシアの手を握ったまま、誰にも聞こえない声で呟く。
「……必ず、起こすからな」
返事はない。
けれどその言葉は、確かに夜の中へ落ちていった──。




