第92話 来たるべき時
その日の夜。
七海は居間で、父であり佐倉忠義と向き合っていた。
卓の上には、一本の杖が置かれている。
ブリムスラーヴス。
月を象った意匠の、美しい杖。
普段は奥にしまっているそれを、七海は出していた。
忠義は湯呑みに口をつけないまま、じっと杖を見ている。
長い沈黙のあと、七海が口を開いた。
「今日、しずくが二層ボスで異常に巻き込まれたわ」
忠義の眉がわずかに動く。
七海は、今日起きたことを順に話した。
二層ボス部屋が、協会データベースと違っていたこと。
土と岩の広場ではなく、円形の闘技場だったこと。
夜空があり、模様のない月もどきが浮かんでいたこと。
最後に、しずくが倒れたこと。
忠義は、話の途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、湯呑みを持つ手に少しだけ力が入っていた。
七海は続ける。
「しずくは、倒れている間に声を聞いたそうよ」
「声?」
「幼い少女の声。やる気がなくて、面倒くさそうな声だったって」
そこで忠義の目が細くなった。
七海も、静かに頷く。
「私もそこが引っかかってる」
「セレネか」
七海は少しだけ視線を落とす。
「思い返せば、あの魔女もそういう声だったわ」
「眠そうで気だるげで、こちらを相手にするのも面倒だと言いたげな声」
あの日の光景が、二人の間に沈む。
人類が到達した最深部、月の魔女の圧倒的な力。
七海は、卓の上の杖へ目を向けた。
「でも、私達が会ったセレネは大人の女性だった」
「しずくが聞いたのは幼い少女の声、そこが違う」
忠義は湯呑みを置いた。
「姿などあてにならん相手だ」
「そうね」
七海は否定しなかった。
「その声はしずくを助け、ほのかちゃんも守った」
「そして、しずくに月の剣という夜の魔法を付与した」
忠義は黙ったまま、目だけで続きを促す。
七海は、ブリムスラーヴスにそっと触れた。
「お父さん、覚えてる?」
「ああ」
忠義の返事は早かった。
「忘れるわけがない」
「あの時セレネは、これを私に渡した」
「仮の証だ時が来るまで持っていろ、と言ったわ」
忠義の顔に、深い皺が刻まれる。
「あの女の言う時が、来たというのか」
「ええ」
七海は、杖から手を離さなかった。
「来たのかもしれない」
その言葉が、居間に重く落ちた。
忠義はしばらく何も言わなかった。
昔、自衛隊の探索者部隊として深層へ潜った男。
数えきれない戦場を経験し、命のやり取りの中で生き延びてきた男。
その忠義でさえ、月の魔女の話になると表情がわずかに硬くなる。
「しずくは巻き込まれたのか、それとも選ばれたのか」
七海はすぐには答えなかった。
風呂場の方から、かすかに水音が聞こえる。
その音だけが、今ここにある日常の証みたいだった。
「分からない」
七海は正直に言った。
「でも、赤い月もどきに認識されたのは事実よ」
「そして今日、別の何かがしずくに手を貸した」
「赤い月と、月の剣か…」
「たぶん、同じ月でも違う側ね」
「協会はどう動く」
「本部だけじゃない、防衛省に内閣府まで上がると思う」
「もう二層の異常で済む話じゃないわ」
「しずくは調査対象になるな」
「ええ」
七海の声が少しだけ硬くなる。
「でも、モルモットにはさせない」
忠義が七海を見る。
「必要な協力はするわ。でも、しずくを道具みたいには扱わせない。協会にも、国にも」
忠義は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
だが、少しだけ満足したようにも見えた。
「お前がそう言うなら、そうしろ」
「言われなくても、そのつもりよ」
「俺も動く」
七海が顔を上げる。
忠義は腕を組み、短いが力のこもった声で言った。
「昔の連中に連絡を取る」
「九層、十層に関わった者で、まだ口が利ける奴らがいる」
「無理しないで」
「年寄り扱いするな」
「もう、年寄りでしょう」
「まだ動ける」
その返答に、七海は少しだけ苦笑した。
だが、すぐに表情を戻す。
「なら、お願いするわ」
「月に関する古い記録が知りたい。特に、セレネと似た存在の記録が」
「幼い少女の姿で現れたとか、そういうものがないか」
「それと、名前に制限がかかる現象だな」
忠義の目が鋭くなる。
「本人の中には残ってる。でも口にも文字にもできない。あれは、ただの記憶違いじゃない」
「封印か」
「あるいは、保護かもしれない」
七海はそう言って、少しだけ目を伏せる。
「無理に知れば壊れる情報。そういうものを、向こうが隠している可能性もある」
忠義は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「気に入らんな」
「私もよ」
「だが、しずくを助けた」
「だから余計に厄介なの」
七海はブリムスラーヴスを見下ろした。
「敵なら、敵として扱えばいい。でも、助けてくる相手は判断が難しい」
「あの月の魔女もそうだった」
忠義の声に、わずかに苦みが混じった。
「俺たちを叩き潰しておいて、お前に杖を渡した」
「ええ」
「未来を見せ、恐怖を植えつけ、それでも道具は残した」
「だから、今もこうして考え続けてるわ」
七海は、そっと杖を持ち上げた。
月を象った先端が、部屋の明かりを受けて淡く光る。
「お父さん。私は、しずくを海外へ置いていかなくてよかった」
忠義の表情が少しだけ変わった。
「例の夢か」
七海は頷く。
黒髪の少女と赤いメッシュ。
赤い刀に裂かれる銀の盾。
しずくの絶望した顔。
それは、今も七海の奥底に焼きついている。
「しずくの盾があの子を守った。ほのかちゃんも守った」
「でも私が見た記憶では、その盾は赤い刀に斬り裂かれる」
忠義は黙って聞いている。
「今日の赤い月もどき。発話できない名前。夜の魔法。全部、あの記憶へ近づいている気がするわ」
「なら、変えればいい」
忠義の返事は、驚くほど単純だった。
七海が顔を上げる。
忠義は、いつもの無骨な顔で言った。
「お前が見たものが未来だろうが、夢だろうが、関係ない」
「見たなら備えろ。まずい道があるなら、別の道を作れ」
「お父さんらしいわね」
「探索も戦も同じだ。嫌な予感がしたら罠を疑う。罠があるなら踏まない。踏むしかないなら、踏んでも死なない準備をする」
七海は、少しだけ笑った。
「そうね」
「しずくには稽古を増やす」
「怪我が治ってからね」
「当たり前だ」
「私も魔法面を見るわ。月の剣がまた出るかは分からないけど、夜の魔法に触れた以上、最低限の知識は教えておいた方がいい」
「高校の勉強はどうする」
「もちろんやらせる」
忠義が少しだけ意外そうに七海を見る。
「日常を手放したら、あっちに飲まれる。学校も、テストも、友達とお弁当を食べる時間も、全部必要よ」
忠義は数秒黙り、それから短く頷いた。
「それも必要か」
「しずくを人間の側に繋ぎ止めるためにはね」
七海はブリムスラーヴスをそっと布に包んだ。
「今夜、しずくに話すのか」
「今日は休ませるわ、今のあの子にする話じゃない」
「そうだな」
「でも、近いうちに話すわ。セレネのことも、私が見ている記憶のことも、少しずつ」
忠義は湯呑みを持ち上げると、すっかり冷めたお茶を一口飲んだ。
「来たるべき時、か」
「来てしまったのかもしれないわね」
長く眠っていた何かが、とうとう動き始めた。
忠義は窓の外へ視線を向ける。
庭の向こう、夜空には月があった。
白く静かで、模様のある月。
その月をただ綺麗だと思うことは、忠義はもうできなかった。
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