第93話 日常は地味でいい
翌日、しずくは学校を休んだ。
正確には、七海に休まされた。
歩けるし、意識もしっかりしている。
それでも七海は、病院へ連れて行くと言って譲らなかった。
車の中で、七海が静かに言った。
「ヒーラーの治療は万能じゃないの」
「…うん」
「傷が塞がっても、身体の中で何が起きているかは別。出血もあったし衝撃も強かったわ。ちゃんと診てもらいなさい」
しずくは素直に頷いた。
反論できるほど、昨日のことを軽く見てはいなかった。
病院での検査結果は、幸い大きな問題なしだった。
切り裂かれた傷はほとんど塞がっており、跡もすぐに消えるだろう。
骨にも内臓にも異常はない。
ただ、数日は安静。
激しい運動は禁止、栄養のあるものをしっかり食べること。
医師からそう告げられた時、七海は隣で静かに頷いた。
「分かりました」
その返事は、娘より母の方が重く受け止めている声だった。
しずくは少しだけ肩を縮める。
「…大丈夫だよ」
「大丈夫でも、休むの」
そこは逆らえなかった。
切り裂かれた銀兎のジャケットについても、すぐに動きがあった。
太田工房へ相談したところ、太田は裂けたジャケットを見て渋い顔をした。
「悪いが、こいつは俺の専門外だな」
金属や盾の補強ならともかく、特殊繊維と魔物素材を組み合わせた防具の修復は畑が違うらしい。
そこで七海が伝手を使い、三天堂へ話を通した。
条件はひとつ。
銀兎ジャケットの損傷データと修復データを取らせてもらうこと。
三天堂側は、それで快く引き受けた。
快くというより、むしろ食いついてきた。
「銀兎素材の実戦損傷データ、それも二層ボス相当の大型刃物による斬撃痕なんて、企業からしたら喉から手が出るほど欲しいのよ」
七海はさらっとそう説明した。
しずくは、少しだけ複雑な気持ちになった。
自分が斬られた跡が、企業の研究データになる。
探索者の世界は、やっぱりどこか現実的だった。
学校を休んでいる間、ほのかとミコトは毎日ノートを持って来てくれた。
放課後になると、二人でしずくの家へ寄る。
ほのかはいつも通り明るく入ってくるが、最初の一言だけは必ず同じだった。
「しずく、生きてる?」
「…生きてる」
「よし」
そこでようやく、ほのかはいつもの顔になる。
ミコトは丁寧にノートを並べ、授業の進み具合を説明してくれた。
「数学はここまで進みました。英語は小テストがありましたので、問題用紙を持参しました」
「…現実が強い」
しずくがぽつりと言うと、ほのかが深く頷いた。
「ボス戦より数学の方が逃げ場ない時あるよね」
「逃げないでください」
ミコトが真顔で突っ込む。
そんなやり取りが、少しだけありがたかった。
二層ボス戦の異常は、しずくの中にまだ残っている。
でも、ほのかが持ってきたコンビニスイーツを三人で分ける時間は、確かに日常だった。
その日常があるから、しずくは息ができた。
不思議なことに、二層ボス戦の異常は、思ったほど大きな話題にはなっていなかった。
配信は確かにされていた。
視聴者も多く、コメントも流れていた。
にもかかわらず、外の反応は妙に鈍い。
切り抜き動画はいくつか上がったらしいが、伸びない。
掲示板でも少し話題にはなったが、すぐ別の話題に流される。
探索者系のまとめでも、取り上げたところはあるのになぜか大きく燃え広がらない。
見た人は騒いでいる。
けれど、見ていない人にはうまく伝わらない。
映像を見せても、反応が薄い。
「演出じゃないの?」
「配信エフェクトでは」
「二層ボスでそんなこと起きるわけない」
「話盛りすぎ」
そんな言葉で、すぐに片づけられていく。
まるで、情報そのものが薄い膜に包まれているみたいだった。
ほのかは、それをスマホで確認しながら首を傾げていた。
「なんかさ、変なんだよね」
「…なにが?」
「普通、もうちょい燃えると思うんだよ」
「二層ボス部屋が謎の闘技場になって、月が赤くなって月の剣とか出したんだよ?」
「…うん」
「なのに、外から見るとなんか変なボス戦だったくらいで止まってる」
ミコトも静かに頷いた。
「情報が拡散しきらない感じはあります。動画も、なぜかおすすめに乗りにくいようですし」
「アルゴリズムのせいって言われたら、それまでなんですけど」
ほのかは、声に不信感が滲んでいた。
「前のラボの写真の件があるから、偶然って言い切れないんだよね」
しずくも同じことを思っていた。
赤い○に認識されています。
あれ以来、記録や情報が何かに選別されているような気配がある。
見た人間の記憶までは消えない。
けれど、記録は変わる。
映像は薄れ、話題は広がらない。
そういう力が、どこかで働いている気がした。
そして、しずくが学校へ復帰する前日の夕方。
いつものように、ほのかとミコトがノートを持って来た。
しずくは居間で二人を迎えた。
顔色はもうかなり戻っている。
七海特製の栄養たっぷりの食事を食べさせられ続けた効果もあった。
「明日から学校?」
ほのかが聞く。
「…うん」
「図書準備室、しずくいないとちょっと静かすぎるんだよね」
「…私、そんなに喋らないけど」
「いるだけで違うんだよ」
しずくは、その言葉に少しだけ目を伏せた。
ミコトがノートを机に置く。
「明日は無理せず、午前だけでもいいと思います」
「…たぶん、大丈夫」
「大丈夫でも、無理はしないでください」
「…はい」
ミコトの真顔には逆らいにくい。
その時、七海が居間に入ってきた。
お茶と、小さく切った果物を載せた皿を持っている。
いつものように穏やかな笑顔だったが、目は少し違っていた。
しずくは、その表情に気づいた。
何か話すつもりだ。
七海は三人の前にお茶を置くと、自分も向かいに座った。
「ちょうど三人そろったから、少し話しておきたいことがあるの」
ほのかとミコトの表情が、すぐに引き締まる。
しずくも、背筋を伸ばした。
七海は、まず静かに言った。
「今のところ、二層ボス戦の異常は思ったほど大きな話題にはなっていないわ」
ほのかがすぐに反応する。
「やっぱり、おかしいですよね?」
「ええ」
七海はあっさり頷いた。
「普通なら、もっと広がっているはず」
「少なくとも探索者界隈では、しばらくその話題で持ちきりになってもおかしくない」
「でも、そうなってないんですよね」
ミコトの声が少しだけ低い。
七海は湯呑みに手を添えた。
「協会が完全に抑え込んだ、というわけでもないと思う」
「もちろんある程度の誘導や沈静化はしているでしょうけど、それだけでは説明できない」
「…何かが、広がらないようにしてる?」
七海はしずくを見る。
「その可能性はあるわ」
ほのかの目が細くなり、思わず声がでていた。
「うわ、やっぱりそういう話になるんだ…」
「断定はしないけど…」
七海は一呼吸おいてから続ける。
「ゴブリンラボの写真と動画、そして今回の拡散の鈍さ。情報そのものに干渉する何かがあると考えた方が正しいわ」
ミコトは首を少しだけ傾げる。
「見た人の記憶までは消さない、記録や拡散には干渉する…」
「今のところは、そう見えるわね」
七海の声は落ち着いていた。
「だから、あなたたち三人の記憶と証言は重要になる」
「記録が変わっても、人の記憶だけが残ることもある」
しずくは、膝の上で手を握った。
あの月もどき。
月の剣と幼い少女の声。
忘れないようにしなければならない。
でも、思い出しすぎると怖い。
七海はそんな娘の気配を察したように、少しだけ声を柔らかくした。
「無理に全部を抱え込む必要はないわ」
「思い出したこと、違和感があったことを三人で共有する。それだけでいい」
「…三人で?」
「そう。あなた一人の話にしないこと」
七海は、ほのかとミコトを見る。
「ほのかちゃん、ミコトちゃん。二人には負担をかけることになるけど、しずくが何か言いにくそうにしていたら、無理に聞き出すんじゃなくて、まず一緒にいてあげて」
ほのかもミコトも、すぐに頷いた。
「ありがとう」
それから、改めて三人を見回す。
「それと、もう一つ」
空気が、少しだけ重くなる。
「しずくが聞いた声について」
しずくの肩が、わずかに動いた。
ほのかとミコトが、居ずまいを正すように背筋を伸ばした。
七海は続ける。
「私は、その声の正体が月の魔女セレネに近いものだと考えている」
「セレネ…」
ミコトが小さく呟く。
「でも、しずくさんが聞いたのは幼い少女の声でしたよね?」
七海は頷いた。
「私が十層で会ったセレネは、大人の女性の姿だった。そこが一致しない」
「別人の可能性もあるってことですか?」
ほのかが聞く。
「あるわ」
七海は否定しなかった。
「あるいは、同じ存在の別の側面かもしれない。月に関する存在は、姿や声が固定されているとは限らない」
しずくは、膝の上に置いた銀盾へ触れた。
七海も、その盾を見る。
「その銀盾は、今のしずくにとって大事な接点になっていると思う」
「だから、しばらくは必ず近くに置いておきなさい」
「…うん」
「それと、大鋏剣も」
「…これも?」
「ただの武器とは限らない。使えるようにしておいて損はないわ」
ほのかが少しだけ笑う。
「見た目はあれですけど、意外と高性能ですもんね」
「…説明文に書かれてたやつ」
しずくが小さく返すと、ほのかがまた笑った。
重い話の中で、その笑いは少しだけ救いだった。
七海はそこで、しずくをまっすぐ見た。
「明日から学校へ戻るなら、まずは普通に過ごしなさい」
「…普通に?」
「高校生らしく学校生活を楽しみなさい。ダンジョンのことを考えるのは、その後」
「でも…」
「しずく」
七海の声が、少しだけ強くなる。
「あなたは探索者だけど、その前に高校生よ」
しずくは目を伏せた。
「ダンジョンのことばかり考えていると、向こうに引っ張られる」
「まず、こちら側の日常を大事にしなさい」
ミコトが静かに頷いた。
「それは、わたしも大事だと思います」
ほのかも言う。
「じゃあ明日、図書準備室で復帰祝いする?」
「…復帰祝い?」
「お弁当のおかず一品多めとか」
「地味」
「地味でいいの。日常だから」
日常。
ほのかが、わざと軽く言ったのかもしれない。
でも、その軽さが今はありがたかった。
七海も少しだけ笑う。
「日常は地味なくらいがちょうどいいのよ」
「ただし、何かおかしいことがあったら、すぐに私か月島さんへ連絡すること」
三人は揃って頷いた。
七海はそれでようやく、少しだけ表情を緩めた。
「なら、難しい話はここまで」
ほのかが、ほっとしたように息を吐く。
「よかった。そろそろ頭が重かったです」
「中間テストもあるものね」
七海がにっこり言うと、ほのかの顔が固まった。
「そこで戻します?」
「戻すわよ、大事だから」
ミコトは、すでに鞄からノートを取り出していた。
「では、復帰前に今日の範囲だけ確認しましょう」
「ミコト、容赦ない」
「安静中でも、軽い確認ならできます」
しずくは、そのやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
明日から学校へ戻る。
二層ボス戦の異常も、言えない名前も消えたわけではない。
でも、戻る場所がある。
それを手放さないことが、今の自分にできる一番大事なことなのだと、しずくは思った。
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