第78話 自分のものではない記憶、母が残った理由
夜の庭は、静かだった。
虫の声が遠くで細く鳴いている。
風は弱い。
薄い雲の向こうに、月が出ていた。
佐倉七海は縁側から庭へ降りると、そのまましばらく月を見上げた。
昔から月は綺麗だと思っていた。
けれど、あの日以来。
十層で月の魔女と出会った日以来。
七海にとって月は、ただ綺麗なものではなくなった。
遠くにあって、静かで何も語らない。
なのに、こちらを見ているようなもの。
そう感じるようになってしまった。
七海は、ゆっくりと息を吐く。
十層、月の魔女。
そして、あの時見せられた未来。
あれは本当に未来だったのだろうか。
今でも、七海にはわからない。
未来の幻だったのか。
ダンジョンが見せた可能性だったのか。
あるいは、もっと別のものだったのか。
ただ一つだけ確かなのは、あの出会いを境に、七海は時折夢を見るようになったということだ。
夢、そう呼ぶしかない。
けれど、ただの夢にしてはあまりにも生々しかった。
匂いがあって、温度があった。
生活の細かな手触りがあった。
そして何より。
そこにいる自分が、自分でありながら自分ではないような感覚があった。
佐倉七海の記憶でありながら、佐倉七海のものではない記憶。
最初は、ただの悪い夢だと思った。
けれど、何度も見るうちに七海はそれを否定できなくなった。
夢の中の七海は、今の自分と少しだけ違う人生を歩んでいた。
夫の海外赴任。
現実にも、そういう話はあった。
だが夢の中の七海は、それに同行していた。
高校生になったしずくを、父である忠義に任せて。
もう大丈夫だと。
しずくはもう、自分がずっとそばにいなくても平気だと。
そう自分に言い聞かせるようにして。
七海は、夫とともに海外へ渡っていた。
そこから先の記憶は、いつも途切れ途切れだ。
見知らぬ街、異国の空気。
夫との日常と日本から届く短い連絡。
その生活の中で、夢の中の七海は少しずつ知る。
しずくが、ダンジョンへ潜り始めたことを。
最初は、軽い気持ちだったのかもしれない。
学校の友人に誘われたのかもしれない。
配信を始めたのが先だったのか、探索者になったのが先だったのかも、そこは曖昧だ。
理由はいつも、霧の向こうにある。
ただ、そこから先だけは妙に鮮明だった。
しずくが潜る、しずくが戦う。
しずくが傷つく、しずくが強くなる。
母である自分が知らない場所で。
知らない仲間たちと。
知らない表情をしながら。
画面越しに見た娘は、七海の知るしずくとは少し違っていた。
怖がりで人付き合いが苦手で、すぐに前髪の奥へ隠れてしまう子。
そのはずなのに。
ダンジョンの中のしずくは、前へ出ていた。
銀の盾を掲げて。
細い身体で、誰かの前に立って。
震えながらも、逃げずに戦っていた。
その姿を見て、夢の中の七海は誇らしく思った。
同時に、どうしようもなく焦った。
なぜ自分は、あの子の側にいないのか。
なぜ、あの子があんな顔をして戦っていることを、こんな遠くからしか知れないのか。
なぜ、もっと早く気づかなかったのか。
後悔は、いつも遅れてやってくる。
七海は目を閉じた。
その先の記憶が、また胸の奥を掴む。
最後に見る光景は、いつも同じだ。
暗い場所。
夜のようでもあり、地下のようでもある。
湿った空気に崩れた石畳。
天井の見えない広い空間。
そして、赤い光。
それは炎の赤ではなかった。
夕焼けにも似ている。
もっと冷たく、もっと不吉な赤だった。
そこで、しずくが誰かと対峙している。
しずくはひどく傷ついていた。
銀の盾は欠け、縁に刻まれたミスリルの光も弱い。
ジャケットは裂け、頬からは血が流れている。
右手に握った武器も何度も打ち合ったあとらしく、ところどころ歪んでいた。
それでも、しずくは立っていた。
肩で息をしながら。
膝が震えそうになるのを必死に堪えながら。
それでも前を見ていた。
そのしずくの前に、少女がいる。
長い黒髪。
艶のある、深い夜のような黒。
その中に、一房だけ赤いメッシュが混じっている。
その赤だけが、周囲の赤い光と呼応するように静かに揺れていた。
顔は、なぜかはっきり見えない。
けれど、美しいのだとわかる。
整っているのだとわかる。
人目を引く、気品と華やかさを持った少女なのだとわかる。
そして同時に、七海は理解する。
あれは、ただの少女ではない。
少女は、赤い刀を持っていた。
刀身そのものが、夕焼けを閉じ込めたような赤。
けれど、美しいだけではない。
あれは血の赤ではない。
炎の赤でもない。
星の底に沈んだ、古い怒りの色。
そう思わせる赤だった。
しずくの足元には、何かが倒れている。
小さな影。
直感的に、月の魔女セレネと認識した。
いや、あれは月の魔女そのものではないのかもしれない。
しずくのそばにいた、月に繋がる何か。
怠そうに笑い、面倒くさいと言いながらもしずくの隣に立っていた存在。
その影が、壊れた人形のように転がっていた。
赤い糸のような光に絡め取られ、動けなくなっている。
少女は、それを一瞥もしない。
ただ、しずくを見る。
その目には、怒りも憎しみもなかった。
むしろ穏やかだった。
穏やかすぎて、恐ろしかった。
少女の唇がゆっくり動く。
声は拾えない。
けれど、七海にはなぜか意味だけが伝わってくる。
『〇も、赤い〇も、結局は力でしかないでしょう?』
『願いなんて、持ち主が使えなければ意味がない』
『だから、わたしが使ってあげる』
しずくが何かを叫ぶ。
声は届かない。
それでも、その顔だけでわかる。
怒っている、怯えている。
それでも、引くつもりはない。
しずくは銀の盾を構え直した。
左腕の盾。
あの子の手に馴染み、支え、何度も命を救ってきたはずの盾。
しずくの戦い方そのものと言ってもいい盾。
少女が一歩踏み出す。
しずくも動く。
銀の盾が、赤い刀の軌道へ滑り込む。
受け止めるのではない。
流すための角度、崩すための一瞬。
あの子らしい、綺麗な盾の入り方だった。
けれど、赤い刃はそこで止まらなかった。
音もなく、抵抗もなく。
赤は、銀の盾を斜めに裂いた。
まるで紙細工を切るみたいに。
七海の呼吸が止まる。
盾の縁が割れ、中央のミスリルが砕ける。
蒼銀の光が、赤い光に呑まれた。
しずくの目が見開かれる。
驚愕。
理解不能。
そして、その次に来る絶望。
あの盾は、しずくにとってただの装備ではなかった。
自分を守るものであり、仲間を守るもの。
前に立つための理由。
それが、何の意味も持たないみたいに切り裂かれた。
しずくの身体が、ほんの一瞬だけ止まる。
その隙を、少女は見逃さない。
赤いメッシュが揺れ、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
そこに浮かんでいたのは、勝利の喜びではなかった。
もっと冷たいもの。
予定通りに駒が動いた時のような、静かな納得。
赤い刀が返る。
しずくが反応しようとする。
壊れた盾を、それでも前へ出そうとする。
右手の武器を引き上げようとする。
だが、間に合わない。
赤い刃が、しずくへ迫る。
七海は叫ぼうとする。
『しずく!』
そう叫びたいのに、声が出ない。
夢の中の自分は、そこにいない。
ただ見ているだけだ、何もできない。
しずくの顔が、七海の方を向いた気がした。
こちらを見ているはずがない。
それでも、確かにそう見えた。
助けて、と言ったわけではない。
恨んだわけでもない。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
どうして、そばにいてくれなかったの。
そう言われた気がした。
そこで、いつも記憶は途切れる。
救われたのか、間に合ったのか。
それとも…。
答えはない。
だからこそ、その終わり方が何よりも恐ろしかった。
七海は、庭石の上で静かに拳を握った。
夫の海外赴任の話が出た時、周囲は同行するものだと思っていた。
夫婦なのだから当然だと。
しずくも高校生になるし忠義もいる、何も問題はないはずだと。
理屈では、その通りだった。
だが七海は、同行するのをやめた。
夫には随分不思議がられた。
自分でも、説明の仕方に困った。
夢を見たから、とは言えない。
自分のものではない記憶を見たから、とはなおさら言えない。
けれど、確信だけはあった。
しずくから、離れてはいけない。
理由はわからない。
論理もない、証明もできない。
それでも。
母としてというにはあまりにも強く。
探索者としての勘というにはあまりにも深く。
骨の髄で、そう理解していた。
離れたら駄目だ。
あの子の側にいなければいけない。
月を見上げる。
静かな夜の月だ。
何も語らない。
何も変わらないように見える。
なのに、七海にはもうわかってしまっている。
あれはただの月ではないかもしれない。
少なくとも、自分たちが信じているだけの月ではないのかもしれない。
そして今夜。
しずくたちは、二層で赤いものに触れた。
月の魔女に繋がるかもしれない何か。
自分が若い頃、十層で覗き込んでしまったものの欠片。
そして、あの黒髪の少女へ繋がるかもしれない赤。
七海は、ゆっくりと息を吐いた。
あまり時間はないのかもしれない。
まだ、何も起きていない。
けれど、何かは確実に近づいている。
赤い刃。
黒髪の少女。
一房だけの赤いメッシュ。
砕ける盾。
あの絶望の表情。
あれを、現実にはしない。
七海は、月から視線を外すと庭の暗がりを静かに見渡した。
家の中には、しずくがいる。
今夜は友達を送り出して、少し疲れた顔をしながらもきっと考え込んでいるだろう。
忠義もいる。
この家には、まだ守るべき日常がちゃんとある。
だからこそ、守る。
理由はあとでいい。
理屈も、証明も、全部あとでいい。
あの子に、あんな顔をさせない。
それだけを胸の中で、静かに誓う。
そして七海は、もう一度だけ月を見た。
月は変わらず、白くそこにあった。
けれど七海には、その白の奥にほんの一瞬だけ赤が滲んだように見えた。
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