第75話 お茶とケーキと月の話
帰り道は、三人とも少し静かだった。
協会を出て、夜の空気の中を歩く。
人通りはある。
車の音もする。
信号の電子音も聞こえる。
なのに、さっきまで見ていた赤い光と壊れたシステムウィンドウのせいで、世界の輪郭が少しだけ薄くなったみたいだった。
信号の赤がいつもより滲んで見える。
しずくは少しだけ目を逸らした。
赤。
その色を見るだけで、胸の奥がざわつく。
ほのかも、珍しく俯きがちに歩いていた。
いつもなら何かしら喋って空気を動かすのに、今日は考え込んでいるのが分かる。
ミコトも同じだった。
歩き方はいつも通り丁寧なのに、どこかぎこちない。
信号を渡り終えた時、ほのかが何かを決めたみたいに顔を上げた。
「しずく」
「なに」
しずくが振り向くと、ほのかは少しだけ真面目な顔で言った。
「今から、しずくの家行ってもいい?」
しずくの足が止まる。
「…え?」
ほのかは、冗談っぽく笑わなかった。
「しずくママに、私も話を聞いてみたい」
ミコトもすぐに頷いた。
「わたしも、行きたいです」
しずくは目を瞬かせた。
自分の家。
そこに友達が来る。
それだけで、心臓がどくんと大きく鳴った。
ほのかは、そんなしずくの表情を見てから少しだけ言い方を和らげた。
「もちろん、無理なら全然いいんだけど」
それから小さく息を吐く。
「たださ…今日のあれ、もうしずく個人の話だけじゃない気がするんだよね」
その言葉に、しずくは何も返せなかった。
ほのかは続ける。
「月の魔女の話も、赤い丸も、月が離れる未来も…たぶん、私たちも巻き込まれてる」
ミコトも静かに言葉を重ねる。
「お母さまが何を見て、何を聞いて、何を渡されたのか「
「できれば、直接伺いたいです」
そのまま、少しだけ間を置く
「わたしたちがどこまで知っていて、何に気をつけるべきかを考えるためにも」
しずくは、二人を見た。
軽い好奇心じゃない。
面白がっているわけでもない。
ちゃんと、自分たちのこととして考えている顔だった。
でも、やっぱり緊張する。
家に友達、それも二人。
母に月の魔女の話を聞きに。
状況だけ見るとだいぶ変だ。
けれど、今日のことを一人で抱えて帰るのも怖かった。
母にまたあの話を聞くなら、自分も一人より二人がいてくれた方がいい気がした。
しずくは少しだけ視線を落として、それから小さく言った。
「…いいよ」
ほのかの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「…うん」
ミコトも、ほっとしたように胸の前で手を揃えた。
「ありがとうございます」
しずくは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、スマホを取り出した。
母に短くメッセージを打つ。
『今から、友達二人連れてくるけどいい?』
すぐに返信が来た。
『もちろん。お茶の用意しておくわ、ケーキもあるわよ』
しずくは、その文面を見て少しだけ目を細めた。
「…いいって」
「しずくママ、仕事早い」
ほのかが笑う。
ミコトも小さく微笑んだ。
母はきっと、全部わかっている。
今日、自分たちがただ遊びに来るわけじゃないことも。
重い話を持って帰ることも。
それでも、まずお茶とケーキを用意すると返してくる。
そういうところが、母らしかった。
三人で帰り道を歩き出す。
いつもの分かれ道を、今日は曲がらない。
ほのかもミコトも、そのまま隣にいる。
「しずくの家、初潜入だ」
「…潜入って言わないで」
「だって緊張感あるし」
「…ないとは言わない」
ミコトが小さく笑う。
その笑い声を聞いて、しずくも少しだけ肩の力が抜けた。
家が近づく。
見慣れた道、見慣れた塀。
なのに、今日は少しだけ違って見えた。
自分の世界に二人を連れていく。
そのことがくすぐったくて、でも嫌じゃなかった。
「…ここ」
玄関の前に立った瞬間、ほのかとミコトは揃って足を止めた。
まず、門が大きい。
そして、門をくぐった先にある母屋がもっと大きい。
和風だ。
しかも、ただ広いだけの家じゃない。
どこか古い武家屋敷みたいな空気がある。
ほのかが、家としずくを交互に見た。
「しずくって、お嬢様なの?」
しずくは全力で首を振った。
「ちがう」
ぶんぶん振る。
本当に違う。
「この家、おじいちゃんの趣味だと思う」
「趣味でこうなるの?」
「…なる人は…なると思う」
ほのかが、なんとも言えない顔をする。
ミコトも、門柱や庭を見ながら小さく言った。
「品がありますね…」
「お父さん、ただの公務員だし…私はお嬢様じゃない」
ほのかがにやっと笑う。
「じゃあ武家の娘?」
「ちがう」
しずくが即答すると、ミコトが思わず小さく笑った。
「でも、なんとなく雰囲気はあります」
「ミコトまで…」
しずくが少しだけ恨めしそうに見ると、ミコトは「すみません」と言いながらも、少し楽しそうだった。
その時、玄関の引き戸が開いた。
「おかえり」
母だ。
家の中に入る前から、こちらの空気を全部見ていたみたいなタイミングだった。
いつもの柔らかい笑顔。
でも今日は、しずくの後ろに並ぶ二人を見て楽しそうに目を細める。
「いらっしゃい、ほのかちゃん、ミコトちゃん」
「お、お邪魔します!」
ほのかが、緊張したように背筋を伸ばす。
「お邪魔します」
ミコトも丁寧に頭を下げた。
「どうぞ上がって。お茶とケーキ、もう用意してあるから」
「はやい…」
ほのかが思わず呟く。
「こういうのは段取りが大事なのよ」
三人で靴を脱ぎ、廊下を進む。
板張りの床はよく磨かれていて、歩くたびに静かな音がする。
ほのかはきょろきょろしていた。
落ち着かないのだろう。
それでも、なるべく失礼がないようにしているのが分かる。
「すご…」
ミコトはもっと静かだったが、やはり視線はあちこちへ動いていた。
「おじいちゃんの趣味、全開でしょ」
「私は好きですよ」
通されたのは、客間だった。
和室だが、堅苦しすぎる部屋ではない。
三人が座ると、母も向かいに腰を下ろした。
紅茶を注ぎながら、先に口を開く。
「それで」
声は穏やかだ。
けれど、ちゃんと話を聞く顔になっている。
「何があったの?」
ほのかとミコトが、自然としずくを見る。
しずくは、カップ手を添えながら小さく息を吸った。
そして、小部屋に入るまでの流れを一通り説明した。
「変な小部屋があって、壁に丸と線と矢印みたいなのが描いてあった」
しずくの言葉を、ミコトが補足するように続けた。
「わたしには、太陽と地球と月の位置関係を示しているように見えました」
「そこでしずくさんが、月が地球からいなくなる話を思い出して」
母の眉がほんの僅かに上がった。
それだけで、空気が少し変わる。
しずくはその反応を見て、やっぱり無関係じゃないのだと直感した。
「そのあと、台座が赤く光って」
しずくは続ける。
「小部屋全体が、夕焼けみたいな赤になって…システムウインドウが変になった」
「なにか表示されたの?」
「…赤い○に認識されていますって出た」
ほのかもミコトも、しずく母の反応を見る。
母はすぐには何も言わなかった。
ただ、湯呑みを静かに置いて少しだけ視線を落とす。
昔の何かを思い出すみたいに。
「…なるほどね」
その一言が、思っていたより重かった。
ほのかが身を乗り出す。
「何かわかるんですか?」
母はすぐには頷かなかった。
けれど、否定もしなかった。
「全部はわからないわ」
静かな声でそう言ってから、しずくを見る。
「でも、少なくとも…月の魔女の話と完全に無関係とは、思えないわね」
客間の空気が、また少しだけ張った。
しずくは、自分のカップを見つめる。
湯気が細く立っている。
その白さが、さっきまで見ていた赤い光と妙に対照的だった。
母はそこで、少しだけ表情を和らげる。
「とりあえず、ケーキ食べましょうか」
「え」
ほのかが瞬きをする。
「こういう話は、糖分が必要だから」
その言い方にほのかは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
「しずくママ、やっぱ強い…」
ミコトも小さく頷く。
「たしかに、今は少し落ち着いた方がよさそうです」
しずくは、母のその切り替え方に少しだけ安心した。
全部が怖い方へ転がるわけじゃない。
一度呼吸を整えてからでも、話はできる。
母はケーキ皿を三人の前へ軽く押した。
「食べながらでいいから、もう少し詳しく聞かせて」
しずくは小さく頷く。
「…うん」
そして、フォークを手に取った。
今日はまだ、終わりそうになかった。
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