第72話 記録されない小部屋と赤
三人が小部屋を出ると、嘘のように赤い光は消えていた。
さっきまで小部屋を満たしていた、夕焼けのような不安な赤はどこにもない。
あるのは、いつもの二層。
ゴブリンラボの空気だった。
鉄と油の匂い。
鼻の奥に残る、よくわからない薬品臭。
それらが戻ってきたことで、逆にさっきの小部屋だけがこの場所から切り離されていたように思えた。
ほのかが気配察知を巡らせる。
だが、返ってくるのは妙な静けさだけだった。
「いない」
「ゴブリンですか?」
ミコトがほのかを見る。
「近くにはもう反応ないし、物音もほとんどない」
しずくも耳を澄ませた。
確かに、しんとしている。
三人の呼吸だけが、この空間に存在する音みたいだった。
二層なのは、間違いない。
ラボだって、さっきまでと同じようにそこにある。
けれど、ほんの少しだけ違和感がある。
まるで、少しだけ違う二層に来たみたいな。
同じ形をしているのに、空気の温度か何かの位相だけがずれているような感覚。
「なんかやだな」
ほのかが小さく呟く。
「うん」
しずくも、それしか言えなかった。
その時だった。
配信コメントが、一気に流れ始めた。
今までの比じゃない。
文字の洪水みたいに、端末の画面が埋まっていく。
『戻った!?』
『おい今の何!?』
『ずっと赤かったんだけど!?』
『配信事故かと思った』
『無事!?』
『しずくちゃんたち見えてる!?』
『今の赤画面なに!?』
「…え?」
ほのかが足を止める。
ミコトも、しずくも端末を見る。
コメントは、いつもの実況の熱とは明らかに違っていた。
笑いや茶化しではない、本気で混乱している。
本気で怖がっている。
ほのかが、画面を凝視したまま呟く。
「赤画面?」
しずくは、流れていくコメントを必死に追った。
ボアバリスタ戦の後。
三人が奥の小部屋に入り、ほのかが断りを入れ音声を切ってからしばらくした後。
配信画面が、突然真っ赤になったらしい。
画面全体が赤く染まった。
それも、警告表示のような派手な赤ではない。
視聴者のコメントによれば、夕焼けみたいな不安になる赤。
そして、一部の視聴者はこう書いていた。
『画面の真ん中に丸なかった?』
『いや全体が赤かっただけだろ』
『でも中心だけ濃かった』
『音は無音だったのに、なんか低い振動みたいなの感じた』
『端末が壊れたかと思った』
しずくの背筋が冷えた。
赤い○。
さっきのシステム表示が、頭の奥で蘇る。
【赤い○に認識されています】
自分たちは、ちゃんと見えていた。
壁画も赤い台座も。
壊れたシステムウィンドウも。
隠し扉らしきものも。
でも、配信の向こうには届いていなかった。
届いていないのに。
赤だけは、届いていた。
「遮断された?」
ミコトが小さく呟く。
「完全に切れたわけじゃなくて、赤い画面だけが出ていた?」
ほのかの顔から、いつもの軽さが消えていた。
「なにそれ、怖すぎるんだけど」
コメント欄はまだ止まらない。
『小部屋で何見たの?』
『赤画面の間、コメントだけは打てた』
『配信切れてないのに映像だけ赤』
『これ仕様?』
『運営エラー?』
『ダンジョン配信でこんなの初めて見た』
『危険だし、撤退して』
『マジで帰ろう』
三人にもわからない。
でも、わからないまま黙っているわけにもいかなかった。
ほのかは短く息を吸うと、端末へ向かって声を張った。
「とりあえず大丈夫!こっちは全員無事!」
いつもの明るさを少しだけ無理に乗せた声だった。
「うまく説明できないけど、怪我はない!しずくもミコトも大丈夫!」
そう言って、カメラを少し引く。
しずくも、ミコトも端末へ向かって小さく頷いた。
「…大丈夫」
「ご心配をおかけしました」
コメント欄に、少しだけ安堵の色が混ざる。
『よかった』
『生きてた』
『声聞こえる』
『ほんとに無事?』
『顔色悪くない?』
『撤退してくれ』
けれど、疑問と不安は消えない。
『何が見えてたの?』
『システムトラブル?』
『怖すぎる』
『アーカイブ残るのかな』
ほのかは一度、端末を閉じるように胸元へ寄せた。
「…戻ろう」
「はい」
ミコトがすぐに頷く。
しずくも、左腕の銀盾を握り直した。
「…帰ろう」
いつもより慎重に通路を戻る。
ラボの小部屋を確認し、二層の空気を何度も確かめながら進んでいく。
鍛冶部屋、薬品部屋、ガラクタの広間。
全部さっきと同じだった。
同じなのに、同じに見えない。
赤い画面。
赤い○。
記録されなかった小部屋。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
そして、ようやく帰還ゲートが見えてきた時だった。
ほのかが、ふと思い出したように端末を操作した。
「…あ、そうだ。写真」
しずくの胸が、嫌な音を立てた。
「…どうだった?」
ほのかは、端末の画面を見たまま固まった。
「え…」
その声に、しずくとミコトもぴたりと止まる。
「どうしたの?」
「写真が…」
ほのかが、ゆっくり端末を二人へ向けた。
そこに映っていたのは、普通のゴブリンラボの小部屋だった。
石の台はある。
けれど、壁画がない。
赤い台座の光もない。
隠し扉の隙間もない。
あの異常な赤も、何もかも写っていない。
ただの小さな部屋。
「…うそ」
しずくの口から、かすれた声が漏れた。
ミコトも、端末を覗き込んだまま言葉を失う。
「動画もですか?」
ほのかが、震える指で動画を開く。
ボアバリスタ戦のあと、三人が小部屋へ入る。
そこで映像が一瞬だけ乱れた。
画面全体が、赤く染まる。
ただ、赤だけが続く。
中央に、ほんのわずかに濃い丸が見えるような気がする。
目を凝らすと、それはただのノイズにも見えた。
長いのか短いのか分からない赤い時間。
赤い時間の向こう側だけが、ごっそり抜け落ちている。
「そんな」
ミコトが、ほんの少しだけ息を呑んだ。
「撮ったはずです。壁画も、台座も、隙間も」
「うん」
ほのかの声が低い。
「絶対撮った。私、確認しながら何枚も撮った」
しずくは、端末と自分の記憶と胸の奥のざわつきを見比べるみたいに立ち尽くした。
見た、確かに見た。
あれは幻じゃない。
母から聞いた話を思い出すくらいには、はっきりと。
でも、記録には残っていない。
配信にも残っていない。
ただ、赤い画面だけが残っている。
まるでそこにあったものが、記録されることだけを拒否したみたいに。
コメント欄も、アーカイブ確認を始めた視聴者たちでさらに荒れた。
『アーカイブも赤い』
『小部屋の中だけ見えない』
『写真もないの?』
『これガチの異常じゃん』
『怖い怖い怖い』
『協会案件だろ』
『すぐ報告して』
「…協会」
しずくが、ようやく言葉を絞り出す。
ほのかとミコトが、同時に顔を上げた。
ほのかが頷く。
「これはすぐ報告しよう」
ミコトも、真剣な顔で続ける。
「写真が残っていなくても、わたしたち三人の証言は一致しています」
「壁画の内容も、システムウィンドウの文言も、今のうちに口頭で整理しておいた方がいいです」
「そうだね」
ほのかが即答する。
「忘れないうちに」
しずくは、小さく息を吸った。
怖い。
でも、今はそれを後回しにしないといけない。
謎の壁画。
赤い台座。
赤い○に認識されています。
配信の赤い画面。
写真の不一致。
動画の欠落。
どれも普通じゃない。
ゲートの虹色の揺らぎが、すぐ目の前にある。
いつもなら帰れるという安心感があるはずなのに、今日はそれだけじゃなかった。
ここを抜けたら、さっきまでのものが全部夢みたいに遠くなる気がして、少しだけ怖い。
しずくは、左腕の銀盾に触れた。
相棒はここにある。
全部現実のはずだ。
三人は並んでゲートをくぐる。
協会のロビーの熱気とざわめきが、一気に押し寄せてきた。
あまりにも普通だ。
その普通さが、逆に少しだけありがたかった。
けれど、三人の表情はいつもよりずっと強張っていたのだろう。
受付のお姉さんが、こちらを見るなりすぐに顔を上げた。
「どうしたの?」
その声には、すでにただ事ではないと察した響きがあった。
ほのかの声が低い。
「月島さん、いらっしゃいますか?」
受付のお姉さんの表情が変わる。
「…何があったの?」
ほのかは一瞬だけしずくとミコトを見た。
それから、短く答える。
「二層のラボの最奥で、おかしいもの見つけました」
しずくは、胸の奥にまだ残る赤い光の残像を感じながら小さく拳を握った。
たぶん、ここから話はまた大きくなる。
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