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第44話 寝床の主

寝ぐらのほうへ進む三人の足は、自然と慎重になっていた。

先日、緑の津波みたいなゴブリンに追い立てられた場所。

落石が落ち、罠にはまり、逃げるのに必死だった場所。


あの広場の手前まで来ると、空気が少し変わる。


静かすぎた。

しずくは銀のバックラーを胸元へ寄せながら、小さく呟く。


「…静か」


ミコトも、ローブの袖口を握りしめた。

ほのかは立ち止まり、目を細める。

気配察知を広げているのだろう。しばらく黙ったまま視線を左右に流し、それから少し困ったような顔になった。


「うーん…」


「どう?」


しずくが聞くと、ほのかは首を傾げた。


「出払ってるのかな?今日は反応が少ない」


「…少ない?」


昨日の緑の波を思い出すと、逆にそのほうが不気味だった。


ほのかは頷く。


「広場の周囲とか、通路脇とか、昨日ならもっと小さい反応が散ってた。見張りとか、うろついてるやつとか」


でも今日は、それがない。

まるで、寝ぐらの外縁だけが不自然に空っぽになっているみたいだった。


ミコトが、小さく唇を引き結ぶ。


「よくないですね」


「ただね」


ほのかが、そこで声を落とした。


「奥のほうに、反応がある」


しずくの背筋が少しだけ冷える。


「ゴブリン?」


ほのかが眉を寄せる。


「ゴブリンっぽいんだけど、普通のゴブリンとは違う感じ」


ミコトも、ぴくりと反応した。


「変異個体?」


「あるいは、上位種」


上位種。

その言葉に、しずくの喉が小さく鳴る。


昨日の普通のゴブリンでさえ、数が揃うと厄介だった。

それより上がいるなら、面倒どころじゃない。


しずくは杖を握り直した。

今日はマジシャン型。

銀兎のジャケットの下に、じわりと汗がにじむ。


「…どんな感じ?」


ほのかは少し言葉を探してから答えた。


「たぶん単体。けど、気配が太い」


ミコトが少しだけ考えながら言った。


「群れの頭…みたいな?」


「たぶん、そういうやつ」


寝ぐらのさらに奥。

そこに、何かがいる。


しかも、周りのゴブリンが少ないということは、そいつの周辺に集められているか、あるいは命令で動かされているか。


どちらにしても、あまりいい想像ではない。

ほのかが三人の位置を手で示した。


「ここから先、慎重に行こう」


ミコトが頷く。


「魔力の流れを見ます」


そう言って、瞳を細めた。

魔力調律。床、壁、天井へと視線を走らせていく。


しずくはその間、周囲を警戒する。


静かだ。

だからこそ、どこかから急に飛び出してきそうで落ち着かない。


少しして、ミコトが指をさした。


「あそこ」


広場の縁。

昨日、落石が落ちたあたりの少し手前。


「床の下に、薄い魔力の流れがあります。たぶん踏み抜き系です」


「また罠かぁ…」


ほのかが小さく顔をしかめる。


「やっぱり、静かな時ほど仕込んでるね」


ミコトはさらに天井を見上げた。


「上は…今のところ、目立つものは少ないです」


「オッケー」


ほのかが頷く。


「じゃあ、ミコトが真ん中。私が前で確認しながら行く、しずくは最後尾を警戒」


しずくが少し驚く。


「…ほのかが前?」


「こういうのは気配察知持ちの方がいい。しずくは、いざって時に前へ出て」


それはたしかに合理的だった。

しずくは、小さく頷く。


「…わかった」


三人は隊列を組み直す。


前にほのか。

中央にミコト。

後ろ寄りにしずく。


ゆっくりと広場へ足を踏み入れる。


昨日の落石跡はまだ残っていた。

砕けた岩片。

地面のえぐれ。

乾いたゴブリンの血の跡。


そこを避けながら進む。


音を立てないように。

罠を踏まないように。

気配を拾いながら。


広場の中央付近まで来たところで、ほのかがまた止まった。


「いる」


今度の声は、さっきより低い。


「近い?」


しずくが問う。


「広場の奥、寝ぐらの本室の手前」


ミコトも、息を潜めた。


「わたしも、少し感じます」


「え?」


「なんというか、魔力の質が嫌です」


嫌な魔力。

その言葉だけで、空気がさらに重くなる。


広場の奥には低い岩の段差があり、その向こうにさらに少し大きな空間が続いているらしい。

昨日はそこまで見ていない。


ほのかが右手を上げて、二人を一旦止める。


「たぶん、普通のゴブリンじゃない」


しずくは前髪の奥で目を細める。


「いく?」


ほのかは一拍置いてから、にっと笑った。


「ここまで来て、帰る?」


その顔は、少し怖いけれど、昨日よりずっと頼もしかった。


ミコトも、杖を握り直す。


「準備、します」


しずくは、樫の杖を持つ手に少し力を込めた。

三人なら、昨日より深く踏み込める。


ほのかが小さく囁く。


「じゃあ、そっと覗くよ」


広場の奥、岩の段差の向こう。

そこにいる、ゴブリンのようでゴブリンじゃないものの正体を確かめるために。


三人は息を殺し、さらに一歩だけ前へ進んだ。


ほのかが、そっと岩陰から向こうを覗く。

しずくも、ミコトも、それに続く。


そして、三人は同時に息を呑んだ。

そこにいたのは、巨大なゴブリンだった。


ほのかの口から、本音が漏れる。


「でか」


子どもみたいなゴブリンじゃない。

肩幅も、腕の太さも、明らかに別物だ。


成人男性くらいの体格。

いや、下手をするとそれ以上に見える。

筋肉が厚く、背中も広い。

肌はゴブリン特有の緑だけど、くすんでいて、ところどころ赤黒い。


寝転がっているのに、それだけで圧があった。

足元にはハンマー。

柄は短めだが、頭が異様に重そうで、殴るというより叩き潰すための武器に見えた。


ミコトが、喉の奥で小さく呟く。


「あれは、ホブゴブリンですね」


しずくが目を瞬く。


「…ホブ?」


「ゴブリンの変異種です」


ミコトの声は小さいけれど、はっきりしていた。


「同族のようで、同族ではない…って言われています。群れの上位種というより、別の魔物に近い扱いです」


ほのかが目を細める。


「つまり、強い?」


ミコトは少しだけ迷って、それでも頷いた。


「普通のゴブリン数匹分、じゃ済まないと思います」


しずくは、岩陰からそっとホブゴブリンを見た。


寝ているように見える。


でも、胸の上下は浅いし、手はハンマーの柄の近くにある。

いつでも起きられる姿勢だ。


気を抜いて寝ているわけじゃない。


「ひょっとして」


ミコトが、視線を広場のほうへ向けた。


「ゴブリンたち、これを恐れて出払ってるのかも」


「ありえる」


ほのかがすぐに頷く。


「昨日と違って、広場周りが妙に静かだったし」


見張りも、うろつきも少なかった。

罠だけ残っていて、肝心の本隊がいないみたいな不自然さ。


もしこのホブゴブリンが寝ぐらの中心に陣取っているなら、普通のゴブリンたちは距離を取るか、あるいは使い走りみたいに外へ出されているのかもしれない。


ほのかが、双剣の柄からそっと手を離した。

そのまま小声で言う。


「寝ぐらの宝箱より先に、こいつをどうするかだね」


ミコトも静かに頷く。


「気づかれたら、普通のゴブリンも戻ってくるかもしれません」


しずくは、杖を握る手にじわりと汗がにじむのを感じていた。


昨日の寝ぐら攻略のつもりで来た。

でも、出てきたのはもっと厄介な存在だった。


怖い。

でも、目を逸らせない。


ほのかが、二人をちらりと見た。


「どうする?」


軽く言っているようで、完全に確認だ。

三人の誰か一人でも無理だと思えば、引くべき相手。


しずくは前髪の奥でホブゴブリンを見つめた。

たぶん、正面からぶつかったらやばい。


「…まだ、気づかれてないよね」


しずくが小さく言う。


ほのかが、にっと笑った。


「うん。そこは大きい」


ミコトも、少しだけ息を整えてから言った。


「奇襲なら、たぶん」


三人の視線が、自然と重なる。


昨日までの自分たちなら、ここで引いていたかもしれない。

でも今日は三人いる。

役割もある。

罠も、拘束も、射線も、奇襲も考えられる。


しずくは、小さく息を吸った。


「やるなら、最初で崩す」


「それ」


ほのかが嬉しそうに目を細める。


「しずく、だんだん探索者っぽくなってきたね」


しずくは少しだけ頬が熱くなったけれど、今はそれどころじゃなかった。

ミコトが、ローブの袖の中で杖を持ち直す。

ほのかも機弩を静かに構えた。


岩陰の向こうでは、ホブゴブリンがまだ眠っているように見える。

でも、その静けさが逆に怖い。


しずくは、銀のバックラーをそっと前へ寄せた。

次の一歩で、戦いが始まる。

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