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5-6

いよいよその夜には彼女に彫刻刃で責められるであろうという火曜日の午前中、僕は商談と嘘をついて会社を出、新宿駅から高円寺駅へ向かった。途中、新宿駅でトイレに寄ったが、トイレの鏡を見るとそこには頬がこけ、目の下の隈のひどく目立つ、やつれはてた僕が映った。


 空いている総武線の座席に座って、僕は向かいの窓の外に見えるビル街を眺めていた。両太ももの上には茶色い鞄が乗っている。その鞄の中には、今朝台所から持ってきた包丁が一本、入っている。


とは言ってもこの包丁は、決して凶器のような、彼女を襲うためのものではない。だって彼女に会ったとして、夢の中で毎回そうされているようにあちらから凶器を振りかざして有無を言わさず襲いかかってこられたら、どうすればいいのだ?それに対抗し、抑制するためにどうしたってこちらにも武器がいる。あくまでもこれは、正当防衛のための武器なのだ。


「・・・そうだ、向こうがその気だったら、もうしょうがないじゃないか。・・・その時はサッと包丁を出して、彼女を説得して・・・これまでやられた分を、・・・ふふふ」


 その時、向かいの席に座っていた品の良い中年のおばさんで、それまで目を閉じていたのが、その目を開いてちらとこちらを見てきた。そして嫌そうな顔をしてまた目を閉じた。いけないいけない、口に出ていた、と思った。まるでこれじゃあ、本当に危ない人である。何しろ鞄の中には包丁が、ふふふ、ふふ・・・なぜか笑いがこみ上げてきて、たまらなくなり、僕は周りの乗客に気づかれないよう、わざと咳をしてその笑いを抑え込んだ。


 高円寺に着いた。平日の昼間ということもあり、駅前のロータリーにはあまり人は居なかった。僕はロータリーから南へと向かう大通りを進んだ。通りの右側の歩道を歩き、歩きながら、ビルに入った飲食店の看板を眺める。伝説の若鶏唐揚、鳥貴族、すし三昧・・・。そうか、寿司もいいな、と唐突に思う。彼女を無事説得し、もう夢を見ないようになったら、帰りにここで寿司を食べよう。いや、そんなにうまく行くかな?しかし、今日説得できないと、また今夜彼女に襲われる・・・。いつの間にか僕は再びぶつぶつと訳の分からないことを呟いていた。


 車の行き交う通りを早足で南下し、信号を三つ過ぎ、ビルが多かった道の両側の建物が、マンションや一軒屋が多くなってきたところで、細い路地を右に折れた。その路地をしばらく歩き、コインパーキングが角にあって目印になっている小さな交差点を左へ。この先の住宅地の一画に、彼女のアパートが見えてくるはずだった。緊張と不安で心臓が早鳴りし始めた。


 ――しかし、僕の緊張は意外な形で裏切られた。三階建ての、外壁が茶色をした彼女のアパートがあるはずの土地には、建物が無く、ほこりっぽい土の上に緑色の若草の生えた、空き地になっていたのである。


(おいおい、まさか、嘘だろ、いや、確かにここだったよな)


 その数十メートル手前から空き地が見え始めたところで、僕はそんなことを心の中で呟き、それでも信じられない気持ちで空き地の前まで歩いた。空き地はがらんとして、住宅地の中にぽっかり口を開けるように黙って存在していた。その長方形の地面の手前の隅に、シロツメ草がいくつか咲いて、白い花を春の風になびかせていた。


 結局僕はその夜彼女に彫刻刃で頬を丁寧に削られる夢を見、次の日からもやはり、現実では空き地になっているはずのアパートから、彼女がやって来る夢を見るのだった・・・。

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