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古びているが良く磨かれて鈍く光っている、こげ茶色のバーカウンター。そこに置かれたサイドカーという名前のカクテルを彼女は手に取り、口元へ持っていってスッと静かに吸った。その瞬間、彼女の耳からぶら下がっているピアスが小さく揺れた。僕は隣に座ってそんな彼女に見惚れながら、そろそろ話を切り出さなければ、と考えていた。
そのバーは、椅子も扉も数々の酒瓶の並んでいる棚も、暗い茶色をしたアンティークな木で統一されていた。照明を薄暗く落とした静かな店内で、いくつかの組の客たちが、さわさわという小声の会話を肴に、安くはない酒を飲んでいる。カウンターの中では、白髭を生やし、四角いフレームの眼鏡をかけた年配のバーテンダーが、黙りこくって突っ立っていた。
その夜、新宿でパスタを食べた後、僕と彼女は花園神社の近くにあるそのバーを訪れた。彼女に「結婚を前提に付き合って欲しい」と言い、その後菜奈の妊娠が発覚してから、たった二日後の火曜日のことだ。
僕がウイスキーを、彼女はカクテルを二杯ずつ飲み、この日は特に会話も弾まず、何かが飽和したような空気が漂い始めたところで、僕は口を開いた。
「君には本当に悪いと思うんだけど」
「はい?」
彼女は僕の気まずい気持ちを敏感に察知し、口をつけていたカクテルのグラスの縁をパッと唇から離し、こちらを向いてきた。
「奥さんに子供ができたんだ」
「・・・」
「三ヶ月だって」
彼女は表情をほとんど変えなかった。ただ、唇をキッと横一文字に結んで、その狭い額に血管を浮かび上がらせた。
「前に言っていた通り、俺は奥さんとは仲が悪いんだ。いや、悪かったというべきなのかな。とにかく、うまく行ってなかったし、本当に別れてもいいと思ってたんだけど――生まれて来る子供は不幸にしたくない」
「・・・」
「この間あんな調子の良いことを言って、期待させてしまって申し訳ないんだけど、こうなった以上、別れてくれないかな」
「・・・」
沈黙。彼女は黙ったまま、じっとこちらを睨んできた。やがてその瞳がうるみ、左目の目尻から涙が一粒、こぼれ落ちた。それを手のひらで拭い、口を開いた。
「前にも言ったけど、もう、どうしようもないんです」
「え?」
「気持ちが・・・私の。事情は分かりました。赤ちゃんができたんじゃ、仕方ないんだと思います。でも、頭でそれが分かっても、なんていうか、心が・・・気持ちの収集がつかないんです。本当にもう、だめなんですか?」
答えるのに、僕は数秒躊躇した。しかし、答えはもう決まっていた。
「そうだね。悪いけど・・・。できれば俺も君と一緒にいたい。でも、そうすると、妻と子供は確実に不幸になる。俺は、家庭の幸福は恋愛より優先されるべきものだと思ってる。だからごめん。それに君ならきっと大丈夫だと思う」
だってこんなに美人なんだから、と続けようと思ったが、それはこの場では返って彼女を傷つけてしまうような気がして、僕は言わずにおいた。
彼女はもう本格的に泣きはじめ、ぽろぽろと涙をこぼしだしていた。次々とあふれてくる涙を左手で拭っては、声も無くしゃくりあげ、必死に嗚咽をかみ殺している。
「今までありがとう」
僕はそう一言だけ言うと、財布から五千円を出し、カウンターに置いた。そして席を立ち、店を出た。外は新宿三丁目の雑踏である。狭い道の両側に建ち並ぶ小さな飲食店の看板が、どぎつくライトアップされて道行く人々を誘っていた。
(寒いな)
僕は一人きりでそう思い、春物のコートの襟を立てて首をうずめた。そうして今出てきたバーの前に立ち、行き交う人々を何秒か眺めた。誰一人、今ここで僕が苦しい別れをしてきたことを知らずに足早に歩いていく。僕はそのことがどうしようも無く理不尽に思え、かあっと体内から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。しかし僕はその熱いものを押し殺して、次の瞬間、新宿駅に向かって歩きだしていた。




