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4-1

 その日僕は彼女と夕食前に別れて、マンションに帰った。マンションのリビングでは、菜奈が食事を作って待ってくれていた。菜奈が食事を先にとらずに待っていてくれることは珍しい。僕はそのことをうれしく思うより、不倫を感づかれでもしたかとひやりとした。


「どうだった?河口湖」


 僕が冷蔵庫から発泡酒を取ってテーブルに着くと、菜奈が明るく機嫌でも取るように聞いてきた。


「ああ、良かったよ。富士山が綺麗だった。まあでも行ってそのままとんぼ返りって感じだったけど」


「沼田さん、相変わらず元気だった?」


「あいつはいつも元気だよ。全く、ドライブなんて一人で行くか女の子と行ってくればいいのにな」


「そんなこと言っちゃかわいそうでしょ。お昼は何を食べたの?」


菜奈は珍しく、人懐っこく僕にいろいろと聞いてくる。僕はそれに嘘のボロが出ないように必死に気を配りながら、平静を装って答えた。


 沼田と河口湖へドライブをしてきたという嘘の話題を菜奈が一通り聞き終えて、話が途絶えた。向かいに座った菜奈はサバの味噌煮をつつきながら、やはり機嫌が良さそうだ。その菜奈の表情を見ながら、僕は今離婚の話をしてしまおうかと思った。


・・・結婚する前と新婚時代に僕が愛した、目尻のつりあがった大きな瞳と小ぶりの鼻、ぷっくりした唇。子リスのような愛くるしいその顔を、これから苦悶の表情に変えてしまうかも知れないことへの気まずさと、別れる原因が不倫にあることを、間違ってもばれないようにしなければならないという気配りから、僕は緊張し、気付けにぐっと発泡酒をあおった。


「菜奈、ちょっと話があるんだ」


 そう言った時、自分がどんな表情をしてどんな口調をしていたか、自分では分からなかったが、そんな僕の深刻な心情を菜奈はまるで感じ取れなかったらしい。菜奈は好奇の表情で、


「何、何?あのさ、私も話あるんだけど」


予想外の反応と答えに、僕は驚いた。


「え?」


「友紀斗言ってよ」


「いや、菜奈先に言えよ」


「うん、実は――」


 菜奈はそこまで言いかけると、顔を曇らせて少し黙り込んだ。それからその大きな瞳で上目遣いに僕を見て、僕の表情をうかがってきた。それに対して僕が笑顔を浮かべて無言で話の続きをうながすと、菜奈は思い切ったようにちょっと息を吸い込んで、言った。


「実は、赤ちゃんできたの」


「え?」


「もうすぐ三ヶ月」


 僕の思考が停止した。そうして、菜奈の(赤ちゃんできたの)という、かぼそく高い声が、頭の中で何度も繰り返し響き渡った。(赤ちゃんできたの、赤ちゃんできたの、アカチャン・・・)しばらく経った後、思考能力を取り戻した僕をまず襲ったのは、菜奈への不信だった。


「でも、俺たち、その、してないじゃ・・・」


 そこまで言いかけて、僕は唐突に思い当たった。去年の年末、彼女とお台場で会う夢を見た後の朝、菜奈を犯すように行為に及んだことがあった。確かにあの時、僕は避妊しなかった。


「ああ、あの時か」


ため息をつくように、息を吐き出しながら呟いた。しかし、以前散々望んで子作りに励んで、まるでだめだったのに、たった一回で子供ができてしまうなんて。できる時にはできるものなんだな、と思った。


菜奈は呆然としている僕を見て、小さく笑い、


「そう、あの時。それでね、」


そう言って、また上目遣いに僕の表情を探りながら、


「産んでいい?」


と言った。一瞬のうちに、菜奈とのこれまでの冷え切った夫婦関係への不安と、それからさっき観覧車で自分がプロポーズに近い言葉をかけた彼女のこと、その二つがぐるぐるぐるっと僕の中に駆け巡った。しかし、その二つの他に、ずっと欲しかった子供を授かった喜びと、その子供と、妻と、家庭を、なんとしても守らなければならないのではないか、という責任感がふつふつと湧き上がってきた。


「も、もちろんだよ。産んでよ、当たり前じゃん」


 そう口をついた僕の答えは、菜奈の質問からずいぶん間があいていたし、声は明らかに震えていて、「もちろんだよ」という肯定的な内容とはだいぶ意味合いが違ってしまっているように思えたが、それでも菜奈は笑顔になった。


「本当?ありがとう」


「いやいや、当たり前じゃん。なんでそんなこと聞くんだよ。だいたいなんで、こんな大事なこと、三ヵ月になるまで黙ってたんだよ」


「だって、だって・・・私たち、今こんなじゃん?だから、産んでいいって言ってくれるかどうか、不安で。ずっと言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくって」


 そう言いながら、しゃっくりをあげてもう泣き始めていた。僕はそんな菜奈を黙って見つめて、この人と、もう一度いちから家庭を築き直そうか、と考え始めていた。


 菜奈が落ち着いてから、僕と菜奈は和やかに話しながら夕食の残りを食べた。すると、食べ終えた頃、菜奈が、


「あ、そうだ」


と言って部屋の隅にある棚から、小さな紙袋に包まれた何かを取り出して、戻ってきた。そうして僕に甘えるように、


「あのさ、今日から、また一緒に寝ていい?寝室で」


と言う。


「でも、ほら、俺のいびきが」


「これ」


菜奈は自慢げに紙袋を開けた。中から出てきたのは鼻孔拡張テープだった。


「これ着けてみて、だめだったらお医者さん行って治療しようよ」


「治療って、めんどくさいなあ」


「ええ?いいじゃん、治療費、私のお給料から出すから。あ、そういえばさあ」


「ん?」


「友紀斗の話って、なんだったの?」


「ああ、あれね。・・・いや、なんでもない」


「ええ、気になる」


「それじゃ言うけど」


「うん」


「沼田って、ゲイなんじゃないかと思って」


「は?」


「だって金あるし、見た目も悪くないじゃん?なのに彼女なかなかできないし、できたらすぐ別れるし、俺のことばっかり遊びに誘うし」


「いや、ありえないでしょ」


「今日だってさあ、河口湖の湖畔に立って湖眺めながら、いやに俺の肩とか背中とか、触ってきてさあ」


「ふふ、それマジ?・・・」


 久々に、本当に久しぶりに菜奈との会話の弾む、楽しい夜だった。僕はプロポーズをした彼女のことだけが心の隅に残って、気がかりだったが、それはひとまず放っておいて、発泡酒で押し流し、まずはこのめでたい夜を祝うことにした。

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