旅人の女
土埃ですすけた石畳の四角い広場。その真ん中に、腰を掛けるに丁度よい高さの、石で組まれた囲いがある。
それは井戸を守るように組まれていた。
誰でも利用できる公共の井戸というが、住民が殺到するようなことはないらしい。
それは、この町が発展していくのに支えとなった中心部であり、半ば記念碑的な位置付けだからという。長らくこの広場で露店を営むという男から聞いた話だった。
私はその石垣に腰を下ろしもせずに、傍らに立ったままでいた。
横目で私は、その黒ずんだ石垣を見下ろす。一部に金属製の板が打ち付けてあり、そこには『ノスロンド王国、はじまりの礎』と刻まれてある。
ここはノスロンド王国という小さな国にある一つの町だ。その王国は、この中央大陸の東側を統べるアィビッド連合国の傘下だった。
私がここへ到着したのは今朝のことだが、乗合馬車を降りてこの場所を見たとたんに気に入っていた。
もう一度、井戸を見て会釈する。
それから前方の人垣へと視線を戻すと、軽く腕を広げて挨拶をした。
大きなざわめきが起こり、私は口を開いた。
まずは誰もが知る歌を――。
慣れた歌を紡いでいく内に、取り巻く者達のお喋りは治まっていく。
気が付けば、露店の男が木箱の角を叩きながら拍子を取り、群衆の中から笛の音が上がる。草笛だ。人垣が割れ、笛を吹く男を私の側へと押し出す。
そして誰もが口ずさみ始めた。
私の声は高いが、頭に響くものではなく柔らかな声だと評されてきたことで、これで路銀を稼いでみようかと思い立ってから久しい。
歌い歩いている内に、私の声はただ聞いていて安らぐといっただけではないらしいと知った。声の響きが独特なのだそうだ。わずかに腹に響くような発声だ。人によっては、胸が痺れるように感じ、人によっては赤子に戻り母の胸で心音を聞いているようにも思えると聞いた。
私が生まれ育ったのは、この町よりもずっと西にある砂漠で、連合国とは別の国だ。この大陸の東南を分断するように存在するらしい。
その砂漠は幾つかの部族が治めている。
私の氏族は、大陸北部を塞ぐようにそびえる山脈と高原地帯の中で暮らしていた。ただ私達は家畜らと高原を移動するだけだったから、広大な場所で素早く伝達をするために、反響を利用した発声法を編み出した。
旅に出るまで、それが一風変わったものであるとは知らなかったのだが、そのお陰で今はこうして稼ぐ手段の一つとして利用している。
砂漠の北部に暮らす部族は好戦的な集団であり、砂漠に暮らす人々を外敵から守る争いでは長いこと頼られてきた。彼らは力強きことを尊ぶ部族で、山の麓にいた。同じ北部でも、私達は岩山の合間に隠れるように住んでいたために影が薄く、まとめて彼らの印象で見られることが多かった。
私達も戦えはする。誰もが武に長けていなければ、生き残ることは難しかっただろう。
だが性質としては真逆だと考えている。
長い間を、この連合国と砂漠の民は争ってきた。ある時に互いが疲弊したのか、休戦を宣言した。同盟を組んだわけではない。休戦という名の、充填期間だろうと噂されている。
例え一時の平和であろうとも、こうして私のような旅人と呼ばれる者が行き来できる時代となった。
我らの長は言った。
いずれ、砂漠の方々を行き来することは難しくなる。
家畜任せに共に移動し、織物などを持って行商して暮らす日々は、遠からず失われるだろうと。
故郷やこの地のことへと思いをはせている内に、歌は佳境に入っていた。
一時の胸を焦がすような熱狂が過ぎれば、晴れ晴れとした穏やかな気持ちだけが残る。
心地よい汗を感じながら一礼すると、地面に置いた麻の袋に小銭が投げ入れられる小気味よい音が響いた。
人は散り散りになったが、側にいた男が手を打ちならして気を引いた。
草笛の男だ。
古びたシャツのまくった袖からは、繊細な調べを奏でたとは思えない逞しい腕がのびている。
「旅芸人のことは噂には聞いていたが、実際に聴くとなお素晴らしい」
「あなたも、素晴らしい腕前だった。街人で芸に長けた人なんて聞いたことないわ」
照れたような、気まずいような苦い笑いを浮かべて、彼は目を伏せた。
「君の言う通り、音楽に縁のある者など居ないからな。笛なんか鳴らして変な奴だと思われてるよ。しがない森の番人には打ってつけだと思うんだがね」
森の番人。猟師なのかしら。それとも樵?
視線を戻した彼の目と、正面から向かい合う。
賞賛と羨望。それが私に向けられた眼差しだった。
鼓動が鳴った。
高揚するようでいて、不穏な兆し。
これが、私と彼の出会いだった。
音楽に触れるといった理由に安心してしまったのか、寝床と食事を提供するとの申し出をありがたく受け入れていた。
それとも、この時には、既に惹かれていたのかもしれない。
その晩、私達は一日の仕事を終えたままの汗臭い体を抱き寄せ合っていた。
想いを通じ合わせ、そして出てくるありきたりの問題に私達はぶつかっていた。
「君の国のことを、聞かせてくれないか」
「風の神が住まう処よ」
「神だのと、そんな理由で、俺とは暮らせないと、そう言うのか」
「どこかへ留まろうとすると、風の神は私達の背をそっと押すの。でも、それは昔の言い伝えよ。私達の氏族は、移動を続けてきた。止まることが恐ろしいのかもしれない。だから、止まろうとすると背中を押してくれる神を、求めたのかもしれない」
――私達の魂に刻まれた願いだ。
長は苦悩と疲労を滲ませた声で呟いた。
それが、我ら氏族が最後に開いた集会の、最後の言葉だった。
「あなたには、いえ、他の国の誰にも、理解できないことよ」
心を分けておいて、私は留まれない言い訳を重ねる。
それは、彼にではなく、私自身に連ねる言葉だと分かっていた。
「知ってるわ。旅人の女は、誰にでも体を開く。そういった、街人たちの噂があるってこと」
真実ではないと強弁したとて、何が変わるだろう。
「私は、違うわ」
それでも、そう語りかけたのは、この男に惹かれているからだ。
「君に惚れた。旅人はなんでも見通す目を持つと聞く。俺の真剣さも分かるはずだ」
つい笑いが漏れてしまった。
「何でも見通すだなんて、ただの人間に、そんな力あるわけないわ。噂は知っているけれど、あなたも信じているの?」
「君の笑顔も好きだが、今は、茶化すのはやめてくれ」
そう言いながら、彼の腕が私の腰に絡みつく。ベッドに腰かけている彼は、私を彼の膝に座らせようとした。だけど私は、彼をまたぐようにしてベッドに膝立ちになり、彼の肩へと両手をかける。
ふっと心に隙間風が入り込んだ。
彼の懇願するような瞳を見下ろし、そっと両手で彼の頬に触れる。
ありったけの想いを込め、彼の額に口づけた。
それから、彼から離れて正面に立つ。
「私と、旅に出てくれる?」
差し出した私の手を、男は苦悶に満ちた顔で見入った。それを見れば、無理だと分かる。
「いや、俺は……いいだろう。これも、人生か。旅も悪いものではないだろうな」
どうにか思い切ろうとしている。してくれている。それだけで温かな気持ちが胸に溢れ、潰れそうに捻じれた。
「惑わしてごめんなさい。いいの。あなたは、この地に根付く街人で、私は風の向くままに旅をする流れ者だもの」
「そんなもの構うものか!」
「考えてもみて。旅に出たときはいい。一年が経ち、二年が経ちと、時が過ぎるほどに、あなたは辛いと思うはずよ。これまでに築いたすべてのものを失うのだから」
今の仕事で培ったもの。それによって得た自信や、周囲からの信頼。家族や友達だけでなく、あなたを知っている者も、知らなくとも繋がりのある者。それらを全て断ち切ることになる。少なくとも街人は、理由もなく町を出ていくなら、彼らを捨てていくことだと、そう考える。
「逆もそうよ。私も、一つ所に暮らし続ける事を選べば、世界を見たくて苦しむことになると思うの」
「そんなことは、やってみなくては……」
言いかけた彼を遮って、最も違う価値観であり、恐らく彼と私では乗り越えられないだろうことを説明することにした。
街人と旅人では、何よりも、子供を持ったときにすべては変わってしまうのだ。
旅人としてだけでなく、砂漠の国々に生きる者達が、最も長く一つ所に留まる時期だった。子を産んで数年は、近くの町に留まる。それは子供の体が旅に耐えられるまでの期間。その後は子を伴って、様々なことを教えながら旅を続ける。
大人になれば、子が自ら選んだ道を喜んで送り出し、再び一人か夫婦で旅に出る。
だけど子が生まれた時点で、こちらの国々に住む街人は町に留まろうとする。子が成長し、共に旅に出ようとした時点で、街人との軋轢は避けられない。
街人がどう思おうと、旅人は家族を蔑ろにしているのでも、愛情がないのでもないのだ。
価値観の差だ。
己の原点を出来れば引き継いで欲しい。そういった願いは、どちらの親にもあるだろう。その形の違いを押し付け合えば、互いに険悪になるだけではなく、子供にしわ寄せがいく。
だから、旅人は旅人同士での婚姻を推奨しているが、もし街人との間に子をもうけるつもりならば、その子は諦めなさいと説いている。
それはただ突き放している言葉ではない。子を諦めきれないのならば、旅人としての人生を終えても、その子に伴侶、そして環境があなたにとって必要なものだったということだ。そう、諭しているのだ。
その価値観で育ったからと、目を曇らせてはならない。無理に引き継ごうとする必要はない。
そして、私は。私自信の望みは――。
「泣かないで」
涙を彼の指が拭った。
私は、旅人であることを捨てることはできない。
我らの長は、私の祖父だった。
長ゆえに、私を含む実孫だけの祖父としてふるまうことは多くなかったが、わずかな間に受けた様々な影響は大きすぎた。
新たな時代に我らの子孫が生き残れるようにと、どれだけの支援を続けてきたか、この目て見てきた。幼いながら手伝いもした。
多くの砂漠の民が、神から預かっている土地を守るべく苦渋の決断をした。
隣接する国々に合わせる形で、国として各部族へと割り振った地の管理場所を定めることにしたのだ。
血の涙が流れた。人間が神の地を我が物にしようとするなど許せるはずはない。
周囲だけでなく、仲間同士での争いも絶えなかった。
だが、便宜上でもそうしなければ、近隣の国々は勝手に侵入して来るのだ。
悪びれもせず、だって誰のものでもないのだろうと言って。
そうなるだろうと、祖父の見識は導き出していたのだ。
そして、我らは同じところに居続けるといったことを捨てる。
神から預かる山脈内だけでなく、全ての地を渡り歩くことに決めた。
そして、それらの存在を大地に縛られた人々へ認めさせるための体制づくりに尽力した。
それが、「旅人」と呼ばれるようになった者の存在だった。
祖父は一族としての解散宣言をした後、我らが暮らしていた場所の一部に、旅人を支援する組織を作った。
大人になれば、祖父の願いを忘れまいと旅に出た。
それは、私自信の望みとは言いきれないことがもどかしかった。
もう、彼から引き留める言葉はなかった。言葉はなくとも、彼が強く握った拳が震えているのは見えている。
無言の願いが、私の心の底へと沈んでいく。
風の神は、ただ私の背を押す。
だけど時に、不思議な知らせを届ける。
それは平原に吹きすさぶ風に舞う草のごとく、必ず届くものではないけれど、運が良ければ掴むことができるようなものだ。
その風が教えてくれたことを、彼に伝えていた。
「空から降ってくるものに、気を付けて」
何かなんて分からないし、とても曖昧な知らせだけれど、ただ彼と共有したかったのだろう。私は他の誰にも、この感覚を話したことはなかったから。
彼に背を向けて足を踏み出したところで、笑いが込み上げた。
彼が言っていた街人の噂の一つ、旅人は全てを見通すというものの根拠はこれではないかと気づいたからだ。
そして、込み上げた笑いは歪み、嗚咽となっていた。
誰にも聞かれないようにと口を押さえ、私は彼の家から遠ざかり、この町を出た。
闇神殿の回廊。私はそう呼ばれる場所の前にいた。
別の大陸とつなぐ、海の道だ。彼とより離れるために、大陸を渡ろうとしたのだろう。随分と感傷的になったものだ。
だけど足は鈍く、手前の町パスルーへと引き返していた。
まだ、彼のいる大陸の風を受けていたかった。
朝と夜の二度だけ潮が引き、海に道を作る。
夜には思い切って、海の側まで来ていた。
暗い、闇そのものとしか思えない道。
心の底にこびりついて消えない悲しみが、力を得て正気を飲み込もうとする。
そんな憂鬱を静かに振り払い救ってくれたのは、光だ。
柔らかな月の光だった。
緊張が解けて詰めていた息を吐き出すと、私は海の道を渡った。
背後から優しく抱きしめるように、私を引き留める、甘く、苦い思い出を振り切るために。
南端の国、ハトゥルグラン王国まで流れ着いていた。
もう私の旅は、旅とは呼べないものになっていた。
心ここにあらずで、ただ彷徨うだけ。
何も考えず、道沿いに、町沿いに、そして国沿いにと足を動かしてきた。
でも、それは間違いではなかった。
これもきっと、風の言葉だと、その時になって気が付いた。
もしあのまま彼と過ごそうと思い切っても間違ったとは思わなかっただろう。
だけど、ほんの少しの罪悪感が、いずれは苦しめるときが来るのは避けられなかった。乗り越えられただろうとしても、最適の選択だったかと悩んだことだろう。
あの時に、心と風との声から押し出されるようにして出てきたのは、これが正しい導きだったからだと気が付いていた。
この国に到着したとき、街はお祭り騒ぎだった。
国王が妃を迎えたのだという。
もう二十も半ばの歳でありながら独り身だった王を民は心配していた。
そこへ突然の婚儀の知らせだったとの話だ。
しかも、それが――。
「旅人の女を、娶った……?」
街人からも忌避される相手だというのに、それを国王が。
だというのに、街の中は歓喜に満ち溢れている。
なぜ、どうして?
戸惑いは消えなかった。
これまで受けてきた反応とはまったく違うものだ。
港沿いの街にある、観光者向けに作られた店舗の並ぶ円形の中央広場には、大量のテーブルや椅子が並べられ、人が集っていた。
酒場は外に樽を積み、来訪者へと麦酒を振る舞っている。
ほろ酔いの陽気な人々へと問うていた。
「そりゃあ、聞いた時ゃおったまげたがよ」
「旅人だろうがなんだろうが、俺たちの王が逃がすはずはないからな!」
彼らは笑いながら、そう言ったのだ。
土地柄なのだろうか。
これまで私が渡り歩いてきた国々では、どうだっただろう。
私は、いつの間に、真っ直ぐに物事を見る目を、失っていたのだろう。
半ば呆然として歩いていた広場で、さらなる衝撃を受け、立ち止まっていた。
広場の端にある、乗合馬車乗り場。そこへ隣接する乗車券売り場の前でだ。
旅人支援組合――そう張り紙には書かれていた。
「嘘、でしょう……一体、誰が?」
それは最後の長が、我らの未来に望みをかけた施設を思い起こさせる。
売り場へ駆け込むと、店内の壁を埋めるほどの張り紙があった。
そこには、各街の特徴的な建物の絵と共に、旅に便利な情報が書かれてある。
思わず受付の女性へと詰め寄っていた。
「これは、旅人だった王妃のお考えなのですよ」
誇らしげに微笑みながら女性は説明をしてくれた。
旅人の妃を、誇らしく思ってくれるの?
それには理由があった。
王妃は国を脅かす悪人を捕らえるのに奔走し、経済政策へも知恵を出した。この旅人や行商人に向けた案内所も、その一環だという。そして、この場所へも自ら頻繁に視察へ訪れる驕りのない方だということだ。
少なくとも、欲に目が眩んだような者ではない。
それだけでも救われる思いだ。
一人の悪評が、いつまでもまとわりつくことを知っている。
誰かが盗みを犯せば、殺しを働けば、小さな村からは悪意を向けられるのだ。
それが悪党から着せられた濡れ衣だったこともあったが、一度ついた悪評が消えることはない。
だけど、もしかしたら――。
窓口の女性が記念にと渡してくれた簡易の地図を受け取り、売り場を後にした。
胸が詰まって、礼を述べるのもやっとだった。
零れ落ちそうな涙をこらえるだけで精一杯で、口を引き結んで歩いた。
もしかしたら――王妃は、私達の立場を変えてくれる、いえ、守ってくれる人なのかもしれない。
もう留まる理由はなかった。
帆船への乗車券を買い、乗り込んだ。
この国は、貨物船であろうと観光客用の場所も多めに確保しているとのことで、何日も待つことなく乗り込むことができたのは幸いだった。
甲板に立ち、活気のある港を見渡す。
積み荷や人夫だけでなく、商人や見送りの人々の姿もある。
南の国特有の湿りを帯びた生暖かい風が髪を揺らす。
そこへ、風が声を届けた。
――ありがとう――私は、旅人のために……。
細部は分からない。
桟橋に、懸命に手を振る女性が立っており、彼女の言葉だと気が付いていた。
私に宛てた言葉ではないのだろう。
だけど、私の魂へと届くのが分かった。
同じように手を振り返す。
恐らく、彼女と同じく、私は解放されたのだから。
「長……いえ、お爺様。あなたの心は、確かに後世まで息づいていますよ」
それが、私達には想像のつかない形であったとしても、旅人は存在し続けるだろう。
少なくとも、まだ数世代は。
自らへの失意と、変わりゆく時代への不安と期待。
それらを、まとめて飲み込んだ。
もう、私一人が、意地を張る必要もないのだ。
「彼は、待っていてくれるかしら……」
彼のもとへ、帰れますように。
そっと、風へと願いを乗せた。




