第6話 力を手放した公主
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後宮の誰かが懐妊。
麗珂妃がそんな気配をかぎつけたのは、頭痛に倒れ医官の訪問を受けたからだ。
淑妃である麗珂妃の元には通常、医官の中でも高位の医者が訪れる。なのに今回は顔なじみの医官ではなく下の者が回されてきた。何故なのかそれとなく尋ねてみたら、
「具合いの悪いお方が……」
と言葉を濁されたのだ。
だが淑妃を差し置いて診ねばならない病人とは誰なのか。
その頃、皇后には璃月が目通りしている。麗珂妃以外の四妃――貴妃、徳妃、賢妃はそれぞれみずから杏の花の返礼におもむいたと聞いた。高位の女性たちは皆、健康だったのだ。
ならば、それよりも上の地位――皇帝の血を受けた胎児が存在するのでは、と麗珂妃は考えた。
「ご懐妊なんてずいぶんなかったわ。それとも揺玉宮が気づかなかっただけかしら?」
「麗珂さま……」
苦笑いの碧葉は、やや責めるような目だった。「気づかなかった」のは何故かといえば、生まれる前にいなくなったから。そんな闇に深入りすべきではない。
「だいじょうぶ」
麗珂妃はいたずらっぽく瞳をきらめかせた。
「あの子は皇族ですもの。後宮でも特別な存在だから、表立って危害を加えられたりはしないのよ。今となってはね」
「さようでございましょうけど……」
生まれることができ、帝位争いに加わらない公主だとわかれば危険は減る。さらに十五歳まで育ちどこぞに降嫁するのみとなった璃月など、もう殺す意味もないのだ。
だからといって公主みずから調べ事に歩くのはどうなのだろうか。「女官や下女を探れば、ついでに小翠にも会える」と言われた璃月は張り切って退出した。また彩天の胃がキリキリすることだろう。
「璃月はもう少し世間を知らなければ駄目よ。後宮で生まれ育ったまま嫁いでしまったら先方が苦労するでしょう?」
「それは否めませんが」
我がまま放題の公主を扱いかね名ばかりの夫婦になったり、贅沢をあらためない公主のせいで婚家が凋落したり。そんな話も過去にはあったらしい。璃月の場合なら夫に槍の勝負を挑むぐらいか――それもけっこうな醜聞だ。
「槍も心配だけれど。それよりも後宮の外の暮らし方を少しでも知ってほしいの」
麗珂妃は遠い目をした。
後宮にいる女たちは外の世界からここに納められた者ばかり。貴賤貧富の差はあれど市井の経験者だ。それは璃月が知らないもの。
だから璃月にもわかってほしい。後宮がいかにおかしいのか。
懐妊しても、喜びより殺される恐怖で震えたのは何故。慶事をひた隠さなければならなかったのは誰のせい。
「――璃月にも弟か妹がいたはずなのに、ね?」
景琛と璃月を産み月まで守り抜けたのは麗珂妃の伯父のおかげだ。夢見の名手で、強い閃きと鋭い夢解きにより朱家から危険を報せてくれた。その人が亡くなった後に授かった三人目の子は――揺玉宮の力及ばず失うことになった。夢見の花の香油は強く、妊婦である麗珂妃自身は使えなかったから。
「ずっとずっと繰り返し、赤子を消してきた人がいるのよ。きっとそう。いったいどなたなのかしら」
「やはり璃月さまには危険すぎます」
「わかっているわ。でもあの子が夢見を封じてしまったのは、たぶんそのせいだから」
璃月は三歳の頃、怖い夢を見たのか夜中に泣きじゃくった。その数日後、麗珂妃は陣痛のような鋭い痛みと大量の出血で倒れる。母にすがりついた璃月は泣きながら言ったのだ。
「おかあさま、まだいたかったの?」
まだとは――?
この光景を璃月は知っていたのだろうか。解いて推察するあやふやな夢ではなく、血を流す母の姿を夢に見て泣いたのなら。
それは、とんでもない力だ。
「璃月は夢見を取り戻したいと願っているでしょう? 夢を見ない自分を無能だと感じていて、だから別のこと――槍に打ち込んでみたりする。強くありたいと思っているのね。でも」
麗珂妃は、娘が出ていった扉に目を向けた。閉じられたその先を見透かすように。
「本来の璃月に戻るためには答えを見つけなければ。後宮で何が起こっているのかを知るべきなのよ――璃月自身の手で」
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揺玉宮周辺を巡回中だった春芳は突然の呼び出しに困惑していた。相手が璃月なのはいつものことだが、伺候したのは中庭ではなく居間。璃月の格好もゆったりした裙だ。槍のおねだりではないらしい。
「……どうなさいました?」
素で首をひねった春芳に、大きなため息で応えたのは彩天だった。
「どうか璃月さまをお守り下さい、春芳殿」
「はい?」
どうにも穏やかでない言われよう――きょとんとした春芳だったが璃月は真面目な顔だ。
「ちょっとね、よその宮のことを探りに行きたくて。でも危ないって彩天が泣きそうなの。春芳がいれば安心でしょ」
「はあ……しかし宮へのご訪問に娘子軍が同行するなんて。何事かと思われるのでは」
「ううん、とりあえず洗濯場とかに行ってみようと思ってるから」
「洗濯? いったい何をお調べになるっていうんです」
「懐妊した人がいないか、あちこちの下女から聞き取り調査」
後宮の誰かが懐妊。そう聞いて春芳の血の気も引いた。そんなことどこの妃嬪でもひた隠しに隠すものだし、うっかり探ろうものならあらぬ疑いをかけられる。
「……おすすめしませんね」
「言いたいことはわかるけど。逆よ。その子を害する者があればどうにかしたいの」
璃月の瞳は真っ直ぐだ。
皇帝の末娘である璃月――父はまだまだ後宮に通っているというのに、璃月が何故末の子なのか。その疑問の答えはわかっている。下級妃が出産しないよう誰かが画策したのだ。
皇后や四妃ともなれば実家の力もあるし警備も毒見も厳重にできる。だが女官の数も揃わない部屋住みの女性など陥れるのは簡単なこと。そんな罪が行われるのを見過ごしたくない。
「――そうおっしゃいましても」
「ほら、私って世間知らずでしょ。ついでに下働きのことも知っておきなさいとお母さまが。うまくいけば小翠にも会えるし」
目を輝かせる璃月に春芳は観念した。麗珂妃の口添えがあっての思いつきならば覆すのは難しいだろう。こうなったらなるべくなんでもない視察を装うしかあるまい。
「……洗濯場に武官が顔を出したら下女たちがおびえてしまいますよ。私はやや離れて様子を見るようにいたします。人目のあるところですから危険はないでしょうし」
「本当? ありがとう春芳」
「ですが、けして突っ込んだ訊き方はなさらないで下さい。あくまで下々の暮らしを気づかう体で」
「わかってるわ」
璃月はにっこりとうなずいた。それは彩天からもさんざん言われている。すると考えをめぐらせた春芳がつぶやいた。
「小翠という下女に会うのはいいと思います。懐妊なら碧梧宮の方の可能性は高いですから……」
「そうなの?」
「最近お通いが多かったそうで」
春芳は微妙に歯切れが悪い。いちおう璃月にとっては父親の夜の話だ。でもこの場合は伝えないわけにもいかない。
「碧梧宮で揉め事がないか気にしておけと兄から指示があったんです。お手つきの方が新旧そろっているんだとか」
「暁霄はそんなことまで知ってるの」
後宮の中のことまで把握しているとは。璃月は素直に感心したのだが、春芳は笑って首を横に振った。
「いえ志勇さまの方ですよ。兄は難しいことより武芸の担当なんです」
「そう? とても落ち着いた人じゃない?」
「ああ、門を挟んでお会いになりましたか。まあ真面目で頑固なところがあるのでそう見えるかもしれませんが。実はただの口下手です」
悪口を言われた暁霄だったが武に励んでいるのは本当だった。腹芸を使うのは年長の志勇に任せても、景琛を守るのは自分だという自負がある。もちろん景琛だってけして弱くはない。だが「主を守れなくてどうする」というのが暁霄の言い分。
そして妹の春芳も思っていた。「璃月さまを守るのは自分だ」と。
暁霄と春芳の一族は代々朱家に仕えてきた。なのでその血を継ぐ景琛と璃月を盛り立てるのは当然。だがそれだけでなく春芳は、璃月という少女の奔放な魂を好ましく感じる。その行く末を見ていたいと思うのだった。




