第7話 洗濯場の噂話
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璃月は後宮の北の端へ足を向けた。
そこには浴清殿という湯殿がある。下女たちが使ってよい風呂で、前の広場は共同の洗濯場だ。もちろん妃や上級の女官たちの美々しい衣装はそれぞれの宮で管理するが、下働きの者たちは服も体もこちらで清潔を保つのだ。
「けっこう遠いのね。いつもご苦労さま」
「ふぁっ……ええっと、おそれいりますぅ」
璃月のねぎらいにフニャフニャ答えたのは揺玉宮の下女、明芝だった。宮の洗濯係の一人だそうで今回の視察の案内人として抜擢された。だがそのしゃべり方はあまりに頼りなくて、同行する彩天は気が気でない。十六歳と聞いたが大丈夫なのだろうか。
「公主さまなんかが来たら、みんなびっくりですよぉ」
「なんか、とはなんですか」
彩天の眉がピクリとする。でも明芝のそれは丁寧な言葉遣いに慣れていないだけで不遜な気持ちではなかった。叱られて驚いたようだが、何がいけないのかもわかっていなさそうで目がキョトキョトしている。
「いいのよ。今日は私が無理を言ったのだもの」
璃月は笑って受け流した。悪気などないとわかるから。
「はぁい……なんだか申し訳ありませぇん」
首をひねった明芝は余計なことは言わないと決めたらしい。黙って歩いていく。
このあたりには回廊などはなく、璃月も建物や塀の間を行った。すれ違う人々が驚いて道をゆずってくれるのがなんだか申し訳なかった。
少し先に春芳が立っているのが見えた。そこが浴清殿の入り口のようだ。
到着した浴清殿は塀に囲まれている。はためく洗濯物を人目にさらさないためだろうか。塀の真ん中に門があるが、日中は開けっ放しだと聞いた。
そこにあらわれた璃月はとても場違いに見えた。だが春芳から話が通っていたので門番の宦官は恭しく一礼しただけで何も言わない。明芝が入っていくとすぐにチャキチャキした声が聞こえた。
「今日は遅いじゃない明芝! ……って、えぇ!?」
顔見知りらしき下女がのほほんと声をかけてきたが、横にいる璃月に気づいて真っ青になった。誰だか知らないが高貴な人とわかったのだろう。あわてた下女は洗濯籠を取り落とし、そのまま平伏した。
「し、失礼しました」
「ああそんな、いいのよ」
ざざっと周りから人波が引き、璃月は驚いた。そんなつもりじゃなかったのに。仕方なく、冷たい石畳に手をついている下女にやさしく声をかける。
「ねえ、立って? 私が来るべきところではないのはわかっているの。驚かせたわね。皆はそのまま仕事を続けて」
「ほらほら平気だよぉ、阿香。こちらは私のご主人の公主さま。私らの仕事も知りたいって言っ……あれ? お……おっしゃらる? だっけ」
明芝は友人を助け起こし、得意げだ。やさしい主に仕えているのは幸運なことで自慢に値する。
きちんとした言葉も使えない明芝だったが、その物言いを叱りつけることもなく微笑む璃月と黙って控える女官の彩天。それでやっと皆が安堵したようだ。チラチラと公主の姿を気にしながらも洗濯に戻っていく。
「へええ、すごいね明芝、公主さまをご案内してきたんだ」
「そうなのぉ」
えへへ、と明芝は鼻をかいている。初めて会う阿香という下女に璃月は話しかけてみた。
「あなたはどちらの宮に仕えているの?」
「わ、私ですか。ええと、碧梧宮なんです、けど……」
ぎこちなくかしこまりながら阿香はもごもご言う。妃同士など仲が良くないものだと思っているから不安になったのだ。貴妃と璃月公主の間は良好だったろうか。でも碧梧宮と聞いて璃月はにっこりした。
「本当にあちこちから集まってきているのね。他の宮の人もいる?」
「あっはい! あっちの盥を囲んでるのは徳妃さまの陽寿宮ですし。あっちで物干ししてるのが……ええっと映月宮の子で。あ、小翠!」
阿香は映月宮の主が誰だったか覚えていないらしい。高位の妃と宮の名なら覚えていても、低級妃のことなど知らなくても問題ないのだ。その無知をごまかすためか朋友の名を呼び手招いたのだが――それが例の小翠で璃月は目を見開いた。やはりこの下女とは縁があるのではなかろうか。
「公主さま……!」
向こうも目を丸くすると駆け寄ってくる。そして深く一礼した。
「先日は、ありがとうございました」
「……あれから何事もなかった?」
「はい、公主さまのおかげです」
控えめな笑顔を見せられたが、小翠を呼んだ阿香はきょとんとする。明芝も意味がわからないままキョロキョロしているし、ここは璃月がひと言説明するべきだろう。
「小さな粗相を咎められているのを見かけたので、あまり叱られないよう口添えしただけよ」
また小翠が頭を下げる。とにかく腰を低くすることが身についた少女だった。しかし今日の場合は璃月を恐れない小翠がいてくれてありがたい。話が訊きやすくなった。
「まだ寒いのに水仕事はたいへんでしょう。調子を崩している者などいませんか」
璃月が問うと、周囲がざわめいた。なんだろうと思ったが小翠はぶんぶんと頭を振る。
「お気づかいありがとうございます。しっかり働きますので」
「そんなに気負わなくてもいいわ。碧梧宮の方々はお元気? そちらの宮は大勢ですし、風邪でも流行ったらたいへんね」
「あ……いえ……はい」
水を向けたら小翠は迷うように視線を揺らした。これは何かあったのか。もしや大当たりで懐妊による不調の人物などを知っているのかと璃月は前のめりになる。
「具合いの悪い方でも?」
「ち、違うんです」
「怖いことがあるだけで!」
口ごもる小翠の横から阿香が言い出す。璃月はピクと反応した。
「怖い……?」
「だめでしょ!」
顔色を変えて小翠がさえぎる。口外するなと命じられている事、なのだろうか。言いつけにはそむけないが、黙るのも璃月に失礼となる。板挟みで小翠が青ざめていくのがわかった。
「あ……あの」
「聞かなかったことにした方がいい?」
璃月はおっとり首をかしげてみせる。公主というよりただの少女なしぐさで警戒心を解きたかった。内緒話のようにささやいてみる。
「怖いってなあに? どなたかに叱られたりしているの? だいじょうぶ?」
「違いますよ、怪異です」
黙り込む小翠を放っておいて阿香が乗り出した。こちらは口が軽いらしい。きっと誰かに話したくて仕方がなかったのだろう。
「かい、い?」
「宮の庭に花魄が出るんです」
さも恐ろしげに阿香は言い切った。
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花魄。それは樹の精。
――なのだが、人の魂ともいえる。何故なら首吊りのあった樹木だけにあらわれるものだから。
「碧梧宮でそんな事件あった……?」
自室に戻った璃月は、長椅子に突っ伏してうめいた。視察中は黙々とついて歩いていた彩天がそばに控えており、帰路の途中から静かに合流した春芳もいる。
「私はここ数年しか知りませんが、ないですよ」
娘子軍歴四年の春芳は証言した。後宮内の死者は病死も刑死も自死もそれなりにいるが、碧梧宮での縊死はなかったはずだ。
「よそならありましたねえ。あれは何年前でしたっけ」
「やめてよ彩天!」
心底嫌そうにさえぎった璃月に、春芳は不思議そうにした。
「どうされました。妃嬪も女官も下女も亡くなる者は亡くなります。鬼や花魄の噂ごとき、どこの宮でも出るものでしょうに」
「やだ!」
子どものような物言いをする璃月。ため息をついた彩天が小声で教える。
「璃月さまは怪談が苦手なんですよ」
「え」
春芳は絶句した。それは意外な。このおてんば公主なら怪異など槍で成敗すると言い出しそうなのに。
花魄は木の枝で揺れる美女の影といわれている。白くぼんやりと人を誘い、そして鳥のように鳴くのだ。
放っておいても害がないと春芳は思うのだが、璃月がそんなものを怖がるなんて思ってもみなかった。まあ怪異の得手不得手は人それぞれか。
「そうでしたか。ではその件については娘子軍でお調べしましょう」
「……うん。お願い」
璃月が面目なさそうにつぶやく。その様子がとても悔しそうで、春芳も彩天も笑いをかみ殺した。




