第5話 夢を解くより人を見よ
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景琛の手の中で妹公主からの文がカサと音を立てた。
兵部上将の執務室は窓も戸も閉め切られている。今いるのは他に二人の副官のみ。璃月が書いた書状は娘子軍の春芳に預けられ、その兄である暁霄を経て景琛へという私的な手段で送られてきていた。
「ふむ……悪い推論ではないが」
つぶやきに暁霄は不審な顔をしてしまった。なんの手紙だろう。眉根を寄せた副官たちの方へ景琛は苦笑いで手紙を差し出す。読めというのだ。
璃月が記してきたのは麗珂妃の〈夢見〉、そして貴妃の住まう碧梧宮の下女である小翠にまつわる顛末について。
「……なるほど。景琛さまがその下女に手を出すのではないかと気をもんでいらっしゃるのですか」
志勇の声は笑いをこらえていた。三十五歳で酸いも甘いも噛み分けた副官は、景琛が保身のため非婚を貫いていることに同情している。少し遊べばいいと進言したこともあるが、さすがに後宮の女に入れあげるのは駄目だ。
まあそんな罪を犯す第四公子ではないと副官たちも承知。身内だけの時のくだけた物言いで景琛は苦笑いした。
「あいつは俺をなんだと思っているんだ。そんなに信用できないか」
「兄君を心配なさるのは道理です」
取りなした暁霄の脳裏には、門の向こうにいた璃月の姿が浮かんでいた。
幼少の頃から垣間見てきた璃月。最近ますます美しくなり、先日は春の女神かと見とれた。一瞬交わされたまなざしはやわらかく、やさしい御方なのだろうと推察している。そんな人なら兄を気づかうのも納得だ。
あの瞬間、心臓が跳ねたような気もする。だがそれは後宮の女性をぶしつけに見ていた後ろめたさのせいだ。
暁霄は生真面目な男。乳兄妹に近しい間柄とはいえ、公主に馴れ馴れしくしてはならない。
「あんな子どもに心配されても……機会があれば暁霄もあいつと組手をやってみろ。ちまちまと素早くて楽しいぞ」
先日のくすぐり合いを思い出し笑った景琛だったが、暁霄は生真面目に言い返した。
「あの方がそんなことなさいますか?」
「春芳から話は聞いているだろうに。信じてやれ」
とはいえ景琛も苦笑いした。後宮でひそかに槍の稽古にはげむ公主がいると聞いても眉唾ものだ。半信半疑の暁霄と璃月本人を会わせたらどうなるかと考えニヤニヤした景琛に、暁霄は困惑しきりだった。
「しかしまあ、碧梧宮で何かが起こるというのは信憑性がありますよ」
志勇が話を戻した。心あたりのある言い方に景琛は視線で続きをうながす。
「陛下が今もっとも通われている女人は貴妃さまの女官出身なのです。貴妃さまと同じ杜家の末に連なる方なので、そのために入宮したのでしょう。今は碧梧宮の一角に部屋を賜っています」
「ほう……」
「ですがそちらに寵愛が移ったせいで居づらくなっている同じ碧梧宮の女性がおりますので」
「……何をやっているんだ父上は」
うっかり不敬なつぶやきをもらした景琛だったが、後宮などそんなものだ。一時期手をつけただけの女にいちいち宮を賜るわけにもいかないし、元からいる宮に部屋を持ち女官仕事から解放されただけで僥倖だろう。
だがそんな一時のたわむれで愛されたのち、打ち捨てられ朽ちていく女が何十人といるのだと考えると怖気立つ。
皇帝の血をつなぐ――その目的のためには人を人とも思わぬ後宮という仕組みの中だからこそ、人でなしな事件も起こりかねない。
そしてそれが外朝の力関係にも波及するので目が離せないのだ。後宮のことに志勇が詳しいのは、宦官たちから情報を探れと景琛に命じられているからだった。
暁霄はそういった裏側の権力闘争みたいなものが得意ではなかった。
考えるのは上司と同僚に任せ、敵がいれば叩き斬る。それでいいと思うので、景琛の嫌そうな声を黙って聞いていた。
「自分の宮に側室を何人も置いておく貴妃の方も俺にはわからんがな」
「貴妃さまご自身は、もう身の上を諦観していらっしゃるのでしょうが……」
「あの方は父上と同じ歳だろう。公主を産み貴妃の位にあって不満に思われるのは困る。だが杜家はまだ頑張っているのか? しつこく一族の娘を送り込んでいるとは」
「後嗣がどうこうより、陛下の歓心を買って潭家と張り合うためなのでは」
潭家というのは太子を産んだ皇后の実家だ。第一公子である太子は三十歳。すぐにでも即位できる男盛りなので、今さら男児が生まれたところで赤子に帝位が回ってくるものではない。
貴妃は太子の出生と同時期に女児を産んでいた。だがその後は懐妊することもなく、后位争いから脱落した経緯がある。現皇后と張り合いつつ運命を別にした不運な人ではあった。
「――我が父ながら、神経の太さに恐れ入るよ」
景琛が帝位などいらぬと思っているのは生存戦略だけではなく心底からだ。
今の後宮で子を二人以上なしたのは皇后と麗珂淑妃のみ。その裏で葬られた胎児と妊婦の数は相当なのではなかろうか。麗珂妃の三人目もしかりだ。産まれたものの育たなかった赤子だって幾人もいるが、市井と違い医官がいる後宮でそんなに死ぬものなのかと景琛は疑っていた。
血を分けた子や情けを掛けた女に危害がおよんでも平然としている。それが皇帝のあるべき姿――俺はそうはなれない、と嗤う景琛に暁霄は心から賛成した。
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「お母さま、起き上がれてよかった。私のために夢見なんてしないでほしいわ」
頭痛と吐き気で寝込んでいた麗珂妃が数日ぶりに回復し、璃月はホッとしていた。ゆったりと長椅子にもたれる母はすっかり顔色もいい。女官頭の碧葉が注いだ茶の香りを深く吸い込んで微笑む様子はいつもどおりだ。
母は〈夢見〉を使った後の不調が若い頃に比べ重くなってきているらしい。そんなことをしないで済めばよいのに、と思うが――そのためには璃月自身が〈夢見〉を使えるようにならなくてはいけないのだ。それが璃月の焦りの一因でもある。
「あなたのためでもあるけれど、それだけではないから。気にしなくていいのよ」
「気にするわ。私もお母さまの役に立ちたい」
言い張る璃月の表情はまだ幼さを残す。だがその瞳には意志が宿っていて、麗珂妃はじっと娘を見つめた。
「役には立っていてよ? 皇后さまへの名代を立派につとめたわね。よくできました」
「もうそれぐらいは――ふふ、でもドキドキしたの! 皇后さまは私の槍のこと、まさかご存じじゃないはずだけど」
ほめられて得意げに笑い転げた璃月に麗珂妃は目を細める。
「あらあら。杏の枝はどちらの宮にもお届けがあったのに。心配なら槍などやめればよいでしょう?」
続けたいくせにと笑われ、璃月はごまかすように干し杏をつまんだ。それは別に皮肉で供されたのではなく、たまたまあった物だ。甘さをかみしめながら、散った花と一緒にうずくまっていた小翠のことを思い出した。
「――小翠という下女は、私と同じぐらいの年だと思うの」
「あなたがかばった子ね」
「そう。小翠と私が友人になるのはおかしいこと? 同じ頃に生まれて同じ後宮にいるのに――」
璃月には友人というものがわからない。年齢が近かろうが側仕えの者たちとは上下関係にあるし、姉公主たちだって母が違うという理由で競う相手にしかなれなかった。
きっと小翠には下女仲間がいて、中には友だちと呼べる間柄の者がいるのだ。そう思うと璃月と小翠どちらが幸せなのかわからなくなる。公主の立場を恨んでしまいそうになって璃月は口をつぐんだ。
「――人の縁というのは不思議なものなのよ璃月。身分を超えて何かがあるかもしれないし、ないかもしれない。そこまでは夢にも見えないわ」
さとすような母の声を璃月は心にかみしめた。
麗珂妃も、朱の一族を背負ってこの後宮に入り生き抜いてきた数奇なさだめの人。いや、それを言うならこの世に生きる誰もが、ひとりひとり違う命をたどる特別な存在だろう。璃月だけが苦しいように思うのはおこがましいというものだ。
母は茶器を置くと、娘の物思いを断ち切るように真っ直ぐに向き直った。
「だから夢ではなく人を見なさい。ひとまずは――どなたか懐妊なさったかもしれないので、それを探ってみるなんてどうかしら?」
「え?」
いきなりの提案に、璃月は目を丸くした。




