*閑話1 ベルフォード侯爵夫妻の心配
ベルフォード侯爵夫妻は、しばらく門の前に立っていた。
「……大丈夫でしょうか」
夫人がぽつりと呟く。
「何がだ?」
「リリアです」
侯爵も遠ざかっていく馬車を眺めながら、難しい顔をした。
「……大丈夫、だと思いたい」
「あなた」
「私だって心配なんだ」
侯爵は腕を組んだ。
可愛い一人娘。
しかも、ようやく婚約者が決まったばかりだ。
今日は初めて、男性と二人きりで出かける。
父親としては、心配にならないほうがおかしい。
「クラウス殿なら、何かあってもリリアをきちんと導いてくださるでしょう」
「それは私も信頼している」
侯爵は即答した。
グランディール侯爵家の嫡男。
社交界では『やさぐれ侯爵令息』などと揶揄されることもあるが、紳士の間での評判は悪くない。
聡明で、礼儀正しく、仕事もできる。
何より、先日の顔合わせで見たクラウスの態度には、不誠実なところがなかった。
「問題は……」
「リリアですね」
「そうだ」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時にため息をつく。
「……あの子は、少し天然すぎる」
「ええ……」
夫人は遠い目をした。
幼い頃からそうだった。
悪意を疑わない。
人の言葉を素直に受け取る。
そして、自分が相手にどう見えているのかを、あまり深く考えない。
そして、昔からリリアの優しさや心配りは少しずれている。
ある時は、腰を痛めた侍女が顔色を悪くしていたのを見て疲れているのかと思い、大量の焼き菓子をとどけたり
またあるときは 風邪をひいて熱に震えている兄のもとへ行き、一緒に寝ると温かいからと一緒の布団へ入り込み、風邪をもらっては大変 と兄と侍女を慌てさせてた
謎の配慮である。
「それだけなら、まだいいのですけれど……」
夫人が額に手を当てる。
「最近は、フィオナの影響もありますから」
「ああ……」
侯爵も苦い顔になった。
フィオナ・ハートレイ。
夫人の妹の娘で、リリアの従姉妹だ。
リリアより少し年上のフィオナは、昔から恋愛小説が大好きだった。
暇さえあればあらゆるジャンルの恋愛小説を読んでいる。
貴族令嬢同士のお茶会でも、恋愛小説の話ばかりしている。
そして――リリアと、とても仲がよかった。
『リリア、知ってる?』
『何を?』
『婚約者って、特別な存在なのよ』
『特別?』
『そう。普通の男性とは違うの』
『へえ……』
幼い頃、そんな会話を二人でしていた。
もちろん、フィオナ自身も恋愛経験などない。
知識の出所は、ほぼすべて恋愛小説だ。
『婚約者なら、隣に座ってもいいのよ』
『そうなの?』
『ええ。むしろ、隣に座るほうが自然なの』
『なるほど……』
『それに、婚約者が疲れていたら、優しくしてあげるの』
『優しく……』
『そう。あなたのことを大切に思っています、って伝えるのよ』
『どうやって?』
『それは……抱きしめたり、頭をなでてあげたりかしら?とにかく恋愛小説を読めばなんでも書いてあるわ!!』
そんなやり取りを、二人は何度も繰り返していた。
その結果。
リリアの中には、少々偏った「婚約者像」が出来上がってしまった。
「フィオナも悪気はないのでしょうけれど……」
「恋愛小説から得た知識だけで、リリアに色々教えていたからな」
「ええ」
夫人は遠い目をした。
「それに、あの二人……昔から『いつか自分にも婚約者ができたら』なんて話をしていたでしょう?」
「……していたな」
侯爵は思い出した。
リリアがまだ幼かった頃。
花を摘みながら、嬉しそうに話していた。
『婚約者って、どんな人なのかな』
『きっと素敵な人よ』
フィオナがそう答えると、リリアは目を輝かせた。
『私も婚約者ができたら、一緒にお出かけしたいな』
『もちろんよ。婚約者だもの』
『隣に座ってもいいの?』
『いいに決まってるじゃない』
……。
「……まさか」
侯爵夫人が呟く。
「今日の馬車で、隣に座ってはいないでしょうね?」
「……」
夫人が黙り込んだ。
「……あり得るな」
「……」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
「リリアなら、やりかねない」
「ええ」
「クラウス殿は……」
「きっと驚くでしょうね」
侯爵夫妻は、同時に遠い目をした。
「……フィオナにも、一度きちんと話をしておいたほうがいいかもしれません」
「そうだな」
「恋愛小説は、あくまで物語なのだと」
「それは重要だ」
だが。
その一方で、夫人は小さく笑った。
「でも……」
「何だ?」
「リリアがあんなに嬉しそうにしているのは、久しぶりです」
侯爵は黙った。
確かに。
婚約が決まってからの娘は、どこか楽しそうだった。
クラウスを好きなのかと聞かれれば、まだ本人にも分からないだろう。
けれど。
自分に婚約者ができた。
これから一緒に出かける。
そんなことを、純粋に楽しみにしている。
「……まあ、いいか」
侯爵が小さく笑う。
「クラウス殿なら、きっと大丈夫だ」
「ええ」
夫人も頷いた。
「ただし……」
「ただし?」
「リリアが何をしでかしても、クラウス様が怒らないことを祈りましょう」
「……それは、確かに」
二人は顔を見合わせる。
ご令嬢の間で噂されるやさぐれ侯爵令息を、娘が怒らせてしまわないか祈るばかりだ。
そして、もう一度だけ遠ざかっていく馬車を見送った。
「……何もなければいいが」
侯爵の呟きは、誰にも届かなかった。




