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第6話 婚約指輪と謎の距離感

 ベルフォード侯爵家との縁談がまとまってから、数日。

 二人は晴れて婚約者となった。


 今日は、リリア嬢に婚約指輪を渡すため、俺はベルフォード侯爵家を訪れていた。

 その後、リリアと二人で植物園へ出かける予定である。


「ようこそお越しくださいました、クラウス様」


 出迎えてくれたベルフォード侯爵夫妻に挨拶をすると、二人は揃って穏やかな笑みを浮かべた。


「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


 俺が頭を下げると、侯爵が笑いながら手を上げる。


「そんなに堅くならなくてもいい。今日は仕事ではないのだから」


「……そうですね」


 仕事ではない。


 だからこそ、少しばかり落ち着かない。


 今日、俺は婚約指輪を持ってきている。


 小さな箱の中には、淡いシャンパンカラーの宝石が嵌め込まれた指輪。


 彼女の瞳の色に似ている。


 ……別に、深い意味はない。


 婚約指輪なのだから、相手に似合うものを選んだだけだ。


「リリアは今、支度をしております。もう少しだけお待ちください」


「はい」


 そう答えると、侯爵夫人が嬉しそうに微笑んだ。


「クラウス様にお願いしておきたいことがあるのです」


「私に?」


「ええ」


 侯爵夫人は少しだけ困ったように笑った。


「リリアのことを、よろしくお願いいたします」


「……もちろんです」


 返事をすると、今度は侯爵が口を開いた。


「実はな。あの子は、少々世間知らずなところがある」


「そうなのですか?」


「何しろ、私が可愛がりすぎてしまってな」


 侯爵は照れたように笑った。


「娘には何不自由なく過ごしてほしいと思っていたら、いつの間にか箱入り娘になってしまった」


「あなた。あなただけではなく、私や息子たちもリリアに十分甘かったでしょう?」


「……ああ、そうだな」


 夫婦のやり取りに、思わず口元が緩みそうになる。


「リリアは男性と二人で出かけたこともありませんし……」


 侯爵夫人が少し心配そうに続けた。


「何か粗相があったらと思うと……」


「その点は心配いらないでしょう」


 俺がそう言うと、侯爵夫妻がこちらを見る。


「リリア嬢は、礼儀を知らないわけではありません」


「それはそうなのですが……」


 侯爵夫人が苦笑する。


「少し……天然なところがあるものですから」


「……天然」


「ええ」


 なんとなく、先日の顔合わせを思い出す。


 夜会の東屋で会ったときもそうだった。


 俺を怖がることもなく、自然に隣に座っていた。


 そして今日も、俺がクラウスだと知っていたことをあっさりと明かした。


 ……確かに、少し変わった令嬢ではある。


「ですが、クラウス様なら安心してお任せできると思っています」


 侯爵がそう言って、真っ直ぐ俺を見る。


「どうか、リリアをよろしくお願いいたします」


「……こちらこそ」


 俺は静かに頭を下げた。





 しばらくして、階段から足音が聞こえてきた。


「お待たせしました」


 顔を上げる。


 そこには、淡い色のドレスに身を包んだリリアが立っていた。


「クラウス様」


「……ああ」


 視線が合う。


 リリアは嬉しそうに微笑んだ。


「今日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 俺は持っていた小箱を取り出した。


「これを」


「……?」


 リリアが首を傾げる。


 箱を開く。


 中に収められた指輪を見て、彼女の瞳が大きくなった。


「婚約指輪だ」


「……!」


 驚いたように瞬きをする。


「私に……?」


「他に誰がいる」


「ふふ……そうですね」


 リリアは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます、クラウス様」


 その笑顔を見て、胸の奥がほんの少しだけざわついた。


 ……何だ。


 別に、どうということはない。


「瞳の色に似たものを選んだ」


「私の?」


「ああ」


 リリアは指輪を眺め、それから自分の瞳に指を添えた。


「本当ですね。私の瞳の色に似ています」


「似合うと思っただけだ」


「嬉しいです」


 そう言って、彼女は大切そうに指輪を受け取った。


 その様子を見ていると、侯爵夫妻が微笑ましそうにこちらを見ている。


「では、そろそろ行こうか」


「はい」


 俺たちは連れ立って屋敷を出た。


 待たせていた馬車に乗り込む。


 俺はいつもの癖で、向かい側の席に腰を下ろした。


 当然、リリアも向かいに座るものだと思っていた。


 ……思っていたのだが。


「……」


 隣に座った。


「……リリア嬢」


「はい?」


「なぜ、隣に?」


「え?」


 リリアは不思議そうに俺を見る。


「婚約者ですから」


「……」


 意味が分からない。


 いや、意味そのものは分かる。


 婚約者なのだから隣に座る。


 それは理解できる。


 だが、今まで女性と馬車に乗るときは、一定の距離を保つのが当然だった。


「……向かいに座ってくれ」


「向かいですか?」


「ああ」


「分かりました」


 リリアは素直に立ち上がり、向かいの席へ移動した。


 ……素直なのは助かる。


 ほっとした、そのとき。


「クラウス様」


「何だ?」


「今日は楽しみですね」


「……そうだな」


 何がそんなに楽しみなのか。


 これから行くのは植物園だ。


 婚約者になったばかりの令嬢と出かける。


 ただ、それだけだ。


 ……ただ、それだけのはずだ。


 ふと、以前のことが脳裏をよぎる。


 アデライン。


 甘い香り。


 距離を詰めてくる仕草。


 こちらの反応を確かめるような笑顔。


 あのときの俺は、それを好意だと思っていた。


 そして、信じた。


 結果は――あれだ。


 だからこそ、もう同じ思いはしたくない。


 目の前のリリアは、アデラインとは違う。


 少なくとも今のところ、媚びているようには見えない。


 俺に好かれようとしているというより、本当に何も考えずに接しているように見える。


 だから、嫌悪感はない。


 むしろ――


「……」


 俺は小さく息を吐いた。


 だからこそ、厄介なのかもしれない。


 リリアは何も企んでいない。


 何も求めていない。


 ただ自然に笑って、自然に話しかけてくる。


 そんな相手に、こちらだけが警戒しているのも馬鹿らしい。


 だが。


 もし、俺が彼女に惹かれたら。


 もし、また信じてしまったら。


 もし、また裏切られたら。


 ――そんなのは、御免だ。


 俺は窓の外へ視線を向けた。


「……惚れたら負けだ」


「え?」


「……何でもない」


 危うく口に出していた。


 俺はもう、誰かを好きになったりしない。


 少なくとも、そう簡単に心を許したりはしない。


 そう決めた。


 ……このときの俺は、本気でそう思っていた。

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