第2話 出会い
王都でも指折りの大貴族が主催する、華やかな夜会。
今夜も大広間は、色とりどりのドレスに彩られていた。
淡い桃色、鮮やかな青、深い紫。
きらめく宝石を身につけた令嬢たちが、楽しげに談笑している。
その多くが、今夜の出会いを期待していた。
社交界では、夜会はただの華やかな催しではない。
婚姻相手を探す場でもある。
「ねえ、あの方はどなたかしら?」
「グランディール侯爵家のご嫡男よ」
「クラウス様……?」
「ええ。クラウス・グランディール様」
その名が出た途端、令嬢たちの間に小さなどよめきが起こった。
そして――
大広間の扉が開く。
黒髪に、涼やかなアクアマリンの瞳。
すらりとした長身に、隙のない礼装。
整った顔立ちに、鋭い目つき。
そして、いつものように僅かに寄った眉間の皺。
クラウス・グランディールが姿を現した。
「……素敵」
「今日もいらっしゃったのね」
「お話しできるかしら……」
令嬢たちの視線が、一斉に彼へ集まる。
クラウスは、それを感じ取っていた。
感じ取っていたからこそ――
ますます眉間の皺が深くなる。
またか。
心の中で、小さく吐き捨てる。
どうせ今日も同じだ。
家柄。
侯爵家の嫡男という肩書。
そして、この顔。
自分自身を見ている者など、ほとんどいない。
そう思っていた。
「クラウス様」
さっそく一人の令嬢が近づいてくる。
「今夜もお会いできて嬉しいですわ」
「……そうですか」
「もしよろしければ、今夜は私と――」
「申し訳ありません」
クラウスはにこりともせず、言葉を遮った。
「あなたとお話ししていると、夜会が始まる前に疲れてしまいそうなので」
「……え?」
令嬢の笑顔が固まる。
周囲から、ひそかな息を呑む音が聞こえた。
それでもクラウスは気にしない。
「失礼いたします」
「ク、クラウス様……!」
その場を離れようとすると、別の令嬢が声をかけてくる。
「クラウス様、先ほどのお話ですが――」
「興味がありません」
「まだ何も申し上げておりませんけれど……」
「では、なおさら申し訳ありません。今から伺っても、おそらく興味を持てないでしょうから」
「…………」
見事なまでの塩対応だった。
だが、それでも彼の周囲から女性がいなくなることはない。
「まあ……相変わらず素敵」
「冷たいところも魅力的だわ」
「私なら、あのくらい言われても平気ですもの」
聞こえてくる声に、クラウスは心の中でため息をついた。
――何が魅力的だ。
――こちらは本気で嫌がっているというのに。
これ以上ここにいても、同じことの繰り返しだ。
「……失礼」
クラウスは誰にともなく呟くと、大広間を後にした。
背後から向けられる視線も、囁き声も、もうどうでもよかった。
扉を抜ける。
音楽が遠ざかる。
人の気配も、少しずつ薄れていく。
「……はぁ」
ようやく静かになった。
クラウスは庭園の奥へと足を向けた。
そして――
月明かりに照らされた、小さな東屋を見つけた。
ここなら、誰もいないだろう。
そう思った。
煌びやかな音楽も、絶え間なく向けられる視線も、今夜はいつにも増して煩わしい。
ここなら、しばらく誰にも邪魔されないだろう。
そう思って中へ入り、ベンチに腰を下ろす。
「……はぁ」
無意識に眉間へ手をやり、ぐっと揉みほぐす。
ようやく静かになった。
そう思った、そのとき。
「…………」
「…………」
隣から、妙な気配を感じた。
「…………は?」
ゆっくりと顔を横へ向ける。
そこには、一人の令嬢が座っていた。
月明かりに照らされたチョコレートブラウンの髪。
穏やかなヘーゼルの瞳。
彼女は驚いた様子もなく、ただ静かにこちらを見ていた。
「……っ」
まったく気づかなかった。
クラウスは慌てて立ち上がろうとする。
「失礼。人がいるとは思わず――」
「構いませんよ」
令嬢は柔らかく微笑んだ。
「どうぞ、そのままお座りください」
「……しかし」
「私も静かなところにいたかっただけですから」
あまりにも自然に言われ、クラウスは一瞬言葉を失った。
普通なら、自分のような男が突然隣に座れば、少しくらい警戒するものではないだろうか。
ましてや、自分の顔を見れば。
だが彼女は、特に気にした様子もない。
「……では、お言葉に甘えて」
結局、クラウスは再び腰を下ろした。
隣との距離は、十分に空いている。
それから、しばらく沈黙が続いた。
庭園を撫でる夜風。
遠くから聞こえる音楽。
静かだった。
――悪くない。
そう思ったところで、隣から声がした。
「夜会に、お疲れですか?」
「……」
クラウスは横目で彼女を見る。
「どうしてそう思われるのです?」
「先ほど、眉間を揉んでいらしたので」
「……見ていたのですか」
「少しだけ」
令嬢は申し訳なさそうに笑った。
「すみません。見ないほうがよかったですね」
「いえ……別に」
クラウスは前を向いた。
そして、ふと気づく。
自分のことを怖がっている様子がない。
それどころか、こちらを気遣っている。
「……あなたは?」
「私ですか?」
「ええ。あなたも夜会に疲れて、ここへ?」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
「実は私も、少し疲れてしまって」
「……そうですか」
「人がたくさんいますものね」
「……ええ」
「ずっと笑っているのも、少しだけ疲れますし」
そう言って、彼女は小さく息を吐いた。
「だから、ここへ来ました」
「……なるほど」
また沈黙が落ちる。
けれど今度は、先ほどまでの居心地の悪い沈黙ではなかった。
何かを話さなければならないわけでもない。
ただ同じ場所で、静かに夜風を感じている。
それだけだった。
「……静かですね」
「そうですね」
「ここ、好きです」
彼女が月を見上げながら言った。
「私もです」
思わず答えてから、クラウスは少しだけ驚いた。
こんなことを誰かに話すつもりなどなかったのに。
隣の令嬢は、嬉しそうに微笑んだ。
「では、同じですね」
「……何がです?」
「ここへ逃げてきた理由です」
「逃げてきた?」
「はい」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「私たち、二人とも夜会から逃げてきたのでしょう?」
「…………」
クラウスは、思わず彼女を見た。
そして――
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……そうかもしれませんね」
その夜。
クラウス・グランディールは、彼女の名前すら知らないまま、少しだけ穏やかな時間を過ごした。




