第1話 やさぐれ侯爵令息、爆誕
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グランディール侯爵家とフェルメール伯爵家には、いくつかの取引があった。
そのため、フェルメール伯爵が父のグランディール侯爵と事業の話をするため、屋敷を訪れることは珍しくない。
グランディール家の長女であるアデラインは、よく伯爵について我が家を訪れた。
父親達が話をしている間、アデラインはいつもクラウスの元へやってくる。
「クラウス様、今日はどんな本をお読みになっているの?」
アデラインは、クラウスの向かいに座り、優雅に微笑んでいた。
「経済史の本です」
「まあ。クラウス様らしいですわ」
サラリとしたブロンズの髪が、彼女の動きに合わせて肩を滑る。
彼女はいつもクラウスを「クラウス様」と呼んだ。
柔らかな声で。
嬉しそうに。
そして時折、少しだけ身を寄せてくる。
ふわり、と甘い香りが鼻先をかすめる。
花のような、どこか甘く優しい香り。
それだけで、胸が妙に騒がしくなる。
クラウスは悟られないように、そっと視線を逸らした。
「クラウス様、こちらのお菓子、とても美味しいですわ」
「……そうですか」
「はい。クラウス様も召し上がってみてください」
そう言って、アデラインが小さく笑う。
そのたびに、クラウスの胸は高なった。
侯爵家の嫡男として育てられたクラウスは、人を簡単には信用しないよう教えられている。
自分に近づく人間が、何を求めているのか。
自分の立場を利用しようとしていないか。
常に相手の言葉の裏を読むように、と。
だからこそ、アデラインにも最初は警戒していた。
だが、彼女は父親に連れられて何度も屋敷を訪れ、そのたびにクラウスとお茶を飲んだ。
家の話ばかりをするわけでもない。
クラウスの好きな本の話をしたり、最近王都で流行している菓子の話をしたり。
そんな何気ない時間を重ねるうちに――
クラウスは、少しずつ彼女に心を開いていった。
そして、いつしか。
彼女が訪れる日を、心待ちにするようになっていた。
自分でも気づかないほどの、淡い恋心だった。
そんな二人の様子を、少し離れた場所から見ていた者たちがいた。
「……二人とも、悪くなさそうだな」
そう呟いたのは、クラウスの父だった。
「ええ。アデラインもクラウス様には心を開いているようですし」
フェルメール伯爵も穏やかに頷く。
「本人たちが嫌でないのなら、いずれ婚約を考えてもいいかもしれませんな」
「そうだな」
両家の親たちは、そんな話をしていた。
クラウスも、アデラインとこのまま良い関係を築いていけるのなら。
アデラインと結婚する未来も、決して悪くはない。
そう思っていた。
あの日までは。
とある休日のよく晴れた午後。
王都の街中で、クラウスは見覚えのある姿を見つけた。
貴族令嬢たちに人気のカフェ。そのオープンテラスに、アデラインが友人と座っていた。
「アデライン……?」
思わず足を止める。
こんなところで会えるとは思わなかった。
久しぶりに彼女と話せることが嬉しくて、クラウスは自然と頬を緩めた。
声をかけようと、テラスへと歩み寄る。
ちょうど、テラス席を囲むように並べられた背の高い植栽のそばを通りかかったときだった。
「ところで、アデライン。本当にこのままクラウス様と婚約して、結婚するつもりなの?」
不意に聞こえた自分の名前に、クラウスの足が止まった。
「……ええ。そうするつもりよ」
聞こえてきたのは、間違いなくアデラインの声だった。
クラウスは植栽の陰で立ち止まったまま、テラスの様子をうかがう。
どうやら、二人は自分の話をしているらしい。
声をかけるには、あまりにも間が悪い。
今出ていくべきか。それとも、話が終わるまで待つべきか。
迷っているうちに、友人の声が続いた。
「でも、アデラインには恋人がいるでしょう?」
その言葉に、クラウスは思わず息を呑んだ。
「ええ、そうよ」
「じゃあ、どうしてクラウス様と結婚するの?」
クラウスは、とっさに身を引いた。
テラスの端に置かれた背の高い植栽。
その陰に隠れるように立ち止まる。
聞くつもりなどなかった。
ただ、自分の名前が聞こえたから。
それだけだった。
「どうしてって、恋と結婚は別物でしょう?」
「……まあ、それはそうだけど」
「私が好きなのは、彼よ。でも、彼と結婚できないもの」
「アデラインの恋人って、あの子爵家の三男よね?」
「ええ」
胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。
「三男では爵位は継げないから?」
「その通りよ。伯爵家は兄が継ぐから、私はどこかに嫁入りしなきゃならないわ。ダニエルと結婚できたとしても、平民になるなんて考えられないもの。」
アデラインは、まるで当たり前のことを話すように答えた。
「だから私は、クラウス様と結婚するの」
「……クラウス様のことは?」
「嫌いではないわよ」
その言葉に、クラウスの胸が僅かに揺れた。
けれど――。
「顔も綺麗だし、侯爵家の跡取りでしょう? それに結婚すれば、私は侯爵夫人になれるもの」
「それじゃあ、恋人とは別れるの?」
「まさか、跡取りを産んで義務さえ果たせば、秘密の逢瀬をいくらでも楽しめるでしょう?」
アデラインが小さく笑う。
「クラウス様は私のことを気に入ってくださっているでしょう?大切にしてくださるはずだわ」
「まあ……それは、確かにそうね」
「クラウス様ったら、少し身を寄せるとすぐ耳を赤くなさるの。お可愛らしいでしょう?」
――違う。
クラウスの指先が、ゆっくりと握り込まれる。
「だから、結婚しても問題ないと思うの。クラウス様には侯爵夫人として私が必要でしょうし、私は侯爵夫人になれる」
「でも、恋人とは?」
「跡取りを産み終えるまでの辛抱よ。しばらく会えないのは寂しいけれど、その分再会が楽しみになるじゃない?」
何かが、音を立てて崩れた。
「……それって、クラウス様には?」
「言わなければいいでしょう?」
アデラインは、あまりにも簡単にそう言った。
「恋と結婚は別物なんだから」
ふふふっと楽しげに笑うアデラインが、得体の知れないもののように見えた。
――その後のことを、クラウスは覚えていない。
どうやってカフェを離れたのか。
馬車に乗ったのか。
いつ屋敷へ戻ったのか。
何一つ、記憶に残っていなかった。
気がつけば、自室にいた。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
「…………」
クラウスは椅子に座ったまま、ぼんやりと床を見つめていた。
自分は、アデラインに好かれていると思っていた。
少なくとも、自分自身を見てくれていると思っていた。
けれど、違った。
彼女が見ていたのは――侯爵令息としての自分。
侯爵家の跡取りである自分。
将来、侯爵となる自分。
では、自分自身は?
クラウスという一人の人間は?
自分が何を思っているのか。
何を望んでいるのか。
誰を愛しているのか。
そんなことは、誰にも必要とされていないのではないか。
「……馬鹿みたいだ」
小さく呟いた。
信じていた。
自分だけは、少し違うのだと思っていた。
けれど結局――。
人は皆、侯爵家を見ている。
爵位を。
立場を。
価値を。
自分ではなく。
その日を境に、クラウスは人を信じることをやめた。
特に、女性を。
誰かに好意を向けられても、その裏に何があるのかを疑うようになった。
甘い言葉も。
笑顔も。
好意も。
すべて、何かを得るためのものに思えた。
もちろんアデラインとの婚約の話は立ち消えとなった。
それから数年。
クラウス・グランディールは、冷たく、近寄りがたい男として知られるようになった。
女性には特に厳しく、どれだけ美しい令嬢に言い寄られても、眉一つ動かさない。
社交界では、密かにこう呼ばれている。
――やさぐれ侯爵令息と。
次話は本日17:00投稿です。
本作は2作目の投稿となります。
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前作「彼女が眼鏡を外したら」が日間総合ランキング280位にランクインしました!!皆さんありがとうございます!喜びを噛み締めてます!!
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こちらは、女性嫌いな上司と恋愛に無縁なヒロインが、ゆっくり愛を育むお話です。職場で真面目に働く部活が、休みの日に髪を下ろしメガネを外した可愛い姿を見てから2人の恋が動き出します。仕事は完璧なのに、恋に不器用なふたりを是非見守ってやってください。全42話ハッピーエンド確約です♡
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