第9話 これは恋じゃない
植物園デートの夜。
グランディール侯爵家の自室で、クラウスは寝台に横たわっていた。
目を閉じる。
眠ろう。
明日も仕事だ。
早く眠らなければ、翌日に差し障る。
そう考えているのに、なかなか眠れなかった。
……なぜだ。
別に、何か気になることがあるわけではない。
仕事上の懸案事項は片付いている。明日の予定も頭に入っている。急ぎの案件もない。
それなのに、目を閉じると浮かんでくるのは、今日一日の光景ばかりだった。
『クラウス様、見てください!』
『こちらのお花、初めて見ました』
『今日は、とても楽しいです』
……。
クラウスは勢いよく目を開けた。
「……なぜだ」
なぜ、あの令嬢の声が頭から離れない。
花を見て目を輝かせていた顔。
焼き菓子を分けてくれたときの笑顔。
自分が「悪くはない」と答えただけで、嬉しそうに微笑んだ顔。
思い出す必要などない。
今日のことは、もう終わったのだ。
婚約者と植物園へ出かけた。
それだけのことだ。
それなのに。
『また、ご一緒できたら嬉しいです』
「…………」
クラウスは寝返りを打った。
……次も、あるのか。
いや、婚約者なのだから、今後も出かけることはあるだろう。
別に、おかしなことではない。
ないのだが。
次に会ったら、彼女は何を言うのだろう。
また、あの調子で花を見つけては呼ぶのだろうか。
今度はどんな顔で笑うのだろう。
「……っ」
クラウスは布団を頭まで引き上げた。
何を考えているんだ、俺は。
そもそも、彼女のことを考える必要などない。
考えたところで、何も分からないのだから。
そうだ。
分からないから気になるだけだ。
相手の真意を見極めるのは、今後の婚約生活を円滑に進めるうえでも必要なことだろう。
決して、彼女の笑顔が頭から離れないからではない。
断じて違う。
……そういうことにしておこう。
だが。
その後もクラウスは何度も寝返りを打ち、結局、いつもより遅い時間にようやく眠りについたのだった。
*
翌朝。
「……眠い」
食卓についたクラウスは、珍しく疲れた顔をしていた。
「どうした、クラウス。昨夜はよく眠れなかったのか?」
父に尋ねられ、クラウスはカップを持ち上げる。
「いえ。少々考え事をしていただけです」
「考え事?」
「仕事のことです」
即答だった。
父は一瞬だけ息子を見つめたが、特に追及することなく朝食に戻った。
……危なかった。
まさか、婚約者のことを考えて眠れなかったなどと言えるはずがない。
そんなことを知られたら、何を言われるか分かったものではない。
クラウスは紅茶を飲み干し、屋敷を出た。
今日こそは、余計なことを考えずに仕事に集中する。
そう決意して。
*
王都の執務室。
机の上には、確認を待つ書類が積まれていた。
クラウスはいつものように椅子に座り、最初の書類を手に取る。
数字を確認し、記載内容を読み、問題点を見つける。
……よし。
集中できている。
この調子なら、いつもどおりに仕事を進められるだろう。
そう思った、そのとき。
『クラウス様は、私といて楽しくありませんか?』
「…………」
手が止まった。
いや、待て。
今、なぜその言葉を思い出した?
クラウスは眉間を押さえた。
……違う。
あれは、ただの質問だ。
俺がどう答えたかなど、気にする必要はない。
そう考えながら、書類に視線を戻す。
しかし。
『はい。楽しいですよ』
リリアの声が、また頭の中で響いた。
「……っ」
ペンを置く。
何なのだ。
なぜ、こんなにも思い出してしまう。
そもそも、俺はあのとき、どうして「悪くはない」などと答えたのだろう。
別に、楽しかったわけでは――。
「……いや」
クラウスは口を閉ざした。
楽しくなかった、と言い切るのも違う気がした。
花を見て回るのは、思っていたより退屈ではなかった。
リリアが楽しそうにしているのを見るのも、別に不快ではなかった。
それどころか。
彼女が次に何を見つけるのか、いつの間にか気になっていた。
「…………」
クラウスはゆっくりと椅子の背にもたれた。
これは、よくない。
非常によくない。
あの令嬢の行動には、今のところ不審な点はない。
だからこそ、警戒を解いていいのか判断がつかないのだ。
そう。
これは警戒だ。
相手を見極めようとしているだけ。
決して、個人的な興味などではない。
「……よし」
気を取り直し、再び書類に向き合う。
その直後。
机の端に置かれた、次回の予定を書き込む手帳が目に入った。
次のベルフォード侯爵家訪問は、まだ決まっていない。
……。
いや、だから何だ。
予定が決まっていないのなら、決めればいいという話でもない。
そもそも、なぜ俺が次の訪問日を気にしている?
「……はあ」
思わず、ため息が漏れた。
「……クラウス?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
執務室の入口に立っていたのは、友人のルーカス・アシュフォードだった。
「……何だ、ルーカス」
「いや、何だじゃないだろう。入ってきたときから三回はため息をついていたぞ」
「気のせいだ」
「そうか? さっきから書類を見つめたまま、まったく手が動いていないようだが」
「考え事をしていただけだ」
「へえ」
ルーカスは意味ありげに笑い、向かいの椅子に腰を下ろした。
「仕事の悩みか?」
「違う」
「では、何だ?」
「……お前には関係ない」
「なるほど。仕事ではない、と」
「そうは言っていない」
「じゃあ、何だ?」
「……」
クラウスは黙り込んだ。
しまった。
余計なことを言った。
ルーカスはそんなクラウスをじっと眺め、やがて何かに気づいたように目を細めた。
「……もしかして、婚約者のことか?」
「は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
ルーカスの笑みが深くなる。
「図星か」
「違う!」
「まだ何も聞いていないが?」
「……っ」
しまった。
また、余計なことを言った。
ルーカスはとうとう声を上げて笑った。
「お前、分かりやすいな」
「何がだ!」
「いや、まさかお前がそんな顔をするとは思わなかった」
「どんな顔だ」
「自分では分からないのか?」
「分かるわけがないだろう!」
「まあまあ」
ルーカスは笑いをこらえながら、身を乗り出した。
「それで? リリア嬢とはどうなんだ?」
「どうもこうもない。先日、植物園へ出かけただけだ」
「二人で?」
「婚約者なのだから当然だろう」
「それで?」
「……それで、とは?」
「楽しかったか?」
「…………」
クラウスは口をつぐんだ。
ルーカスはそれだけで、すべてを察したようだった。
「へえ」
「何だ、その顔は」
「いや。お前が女性と出かけて、帰ってきてからため息をつくほど考え込んでいる。しかも、仕事中まで上の空。これはなかなか興味深い」
「だから、考え事をしていただけだ!」
「リリア嬢の?」
「……っ」
「やっぱりな」
ルーカスは楽しそうに笑った。
「クラウス。お前、もしかして――」
「違う」
「まだ何も言っていない」
「どうせくだらないことを言うつもりだろう」
「いやいや。俺はただ、お前が恋をしたのかと思っただけだ」
「…………は?」
クラウスの思考が止まった。
恋?
俺が?
リリアに?
「……馬鹿なことを言うな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「俺は彼女に恋などしていない」
「そうか?」
「ああ」
「では、なぜそんなに気になるんだ?」
「それは……」
言葉が詰まる。
なぜ?
なぜ、気になるのだろう。
リリアの笑顔が頭から離れないから?
彼女が何を考えているのか知りたいから?
次に会ったら何を話そうかと、無意識に考えてしまうから?
……違う。
それは、相手の真意を見極めようとしているだけだ。
そうに決まっている。
「……彼女は、少し変わっているんだ」
「ほう?」
「俺に媚びるわけでもない。気に入られようとしているようにも見えない。それなのに、妙に距離が近い」
「ふむ」
「何を考えているのか分からない。だから、気になるだけだ」
ルーカスはしばらく黙っていた。
そして。
「……それを世間では、気になって仕方がないと言うんじゃないか?」
「違う!」
「そうか。では、リリア嬢のことを考えて眠れなかったわけでもない?」
「…………」
「仕事中にぼんやりして、ため息をついていたのも?」
「…………」
「次に会うのが楽しみで仕方がない、というわけでも?」
「違うと言っているだろう!」
クラウスは机を叩きそうになるのを、どうにかこらえた。
ルーカスは肩をすくめる。
「まあ、本人がそう言うなら、そういうことにしておこう」
「……最初からそうしてくれ」
「ただな、クラウス」
「何だ」
「お前がリリア嬢のことを考えている間、リリア嬢もお前のことを考えているとは限らないぞ」
「……は?」
「彼女はお前に媚びるわけでもなく、執着している様子もないんだろう?」
「……そうだ」
「だったら、お前だけが一人であれこれ考えている可能性もある」
「…………」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
そうだ。
リリアは、俺に執着しているわけではない。
婚約者だから一緒に出かける。
婚約者だから隣を歩く。
婚約者だから気遣う。
彼女にとっては、それだけなのかもしれない。
俺が何を考えようと。
俺がどれだけ彼女のことを気にしようと。
リリアは、いつもどおり笑っているだけなのだ。
「……」
なぜだろう。
そう考えると、少しだけ落ち着かない。
いや、違う。
これは、婚約者としての責任感だ。
そういうことにしておこう。
「……とにかく」
クラウスは咳払いをした。
「俺は、リリア嬢に恋などしていない」
「はいはい」
「本当だ!」
「分かった、分かった」
まるで信じていない返事だった。
ルーカスは立ち上がり、扉へ向かう。
そして、出ていく直前に振り返った。
「まあ、せいぜい頑張れよ」
「何をだ!」
「自分の気持ちを認めることを、だよ」
「だから、俺は――!」
扉が閉まった。
クラウスは一人、執務室に取り残された。
「…………」
静寂が戻る。
机の上には、未処理の書類。
手元には、握りしめたペン。
そして頭の中には、相変わらずリリアの笑顔。
「……くそ」
俺は、彼女に恋などしていない。
ただ、気になるだけだ。
何を考えているのか分からないから。
あまりにも自然に近づいてくるから。
これまで会ってきた女性とは、まるで違うから。
だから、少しばかり気になっているだけだ。
……そうだ。
それだけだ。
クラウスは深く息を吐き、再び書類に目を落とした。
だが、文字はまるで頭に入ってこなかった。
代わりに浮かんでくるのは、リリアの声と笑顔ばかり。
そして、ふと気づく。
昨夜から今まで。
俺は、一体何度彼女のことを考えた?
……。
いや、待て。
これは。
これでは、まるで――
「……俺が、リリア嬢に恋しているみたいじゃないか」
静まり返った執務室に、クラウスの呟きが落ちた。
もちろん。
本人以外には、もうとっくに分かっていた。
――いや、恋してるからっ!
この場に居た全員の心の声が揃った瞬間だった
やさぐれ侯爵令息、恋心を自覚する一歩手前。
ただし本人は、まだ断固として認めない。




