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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第1部「喫茶マンハッタン」

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7/10

第七話 先生の赤ペン

 四時間目。国語。

 日野彩音は教壇に立っていた。

 律は自分の席でいつもどおり背筋だけまっすぐに伸ばして教科書のページを開いていた。けれど、視線の半分は彩音のほうに向いていた。

(先生)

(この時間の先生は別人みたいだ)

 マンションの玄関で寝起きのTシャツとショートパンツで「あっ」と声をあげていた人間と教壇のこの人が同じ人間だとは、どうしても結びつかない。

 声が通る。背筋が伸びている。生徒一人一人の顔をちゃんと一度ずつ見ながら話している。黒板の字も綺麗だった。下半分の罫線が勝手に揃っている。

(……教壇に立つと別の人になる)

(マンションの先生は寝間着で僕にお菓子をくれる人で教壇の先生はこうやって字を綺麗に書く人だ)

(この差はなんだろう)

「はい、今日は太宰治の『走れメロス』」

 彩音がチョークを置いた。教室の前列をぐるりと見渡してから視線がふと律のほうで止まった。

「——瀬尾くん」

 律の心臓が軽く、鞄の取っ手を握り直す程度に跳ねた。

「メロスはなぜ走ったと思う?」

 律は椅子を引いて立ち上がった。

「……約束を守るためです」

「そう。教科書的にはね」

 彩音は黒板の前で半歩、足を踏み替えた。

「——じゃあ、聞くけど。約束を守るだけなら、歩いてもよかったのになぜ『走った』の?」

 ——律の中で答えは、確かに浮かんだ。

 間に合わないと思ったから。間に合わないと思ったけど、走ったから。歩いてしまったら、自分が「もう間に合わない」って認めるから。走っているうちは、まだ、信じていられるから。

 ——浮かんだ。けれど、口の形にならない。

 喉の奥でそれが、上手く言葉に組み上がらない。

 律の顔からわずかに血の気が引きかけた。

 その瞬間、彩音が軽く笑って手のひらを下に向けた。

「座って」

「……はい」

「考えておいて。——感想文に書いてくれればいいから」

 律は椅子に座り直した。教科書のページに視線を落とす。耳の縁が少しだけ熱くなっていた。

(先生の授業はいつもこうだ)

(教科書の答えじゃなくて、「あなたはどう感じた?」を聞いてくる)

(……それが、一番、苦手なんだ)


 放課後。

 彩音は職員室の自分の机で原稿用紙の束をめくっていた。三十六枚。クラス全員分の感想文。赤ペンを片手に左から順に目を通していく。

 一枚一枚に丁寧にコメントを入れていく。「ここの解釈、面白いね」「ここはもう少し具体的に」「メロスの友情の話を自分のクラブの先輩で考え直してるのいいね」。彩音の赤ペンの字は教壇のチョーク字とは違っていた。小さくて丁寧で罫線の中にきちんと収まっている。

 束の真ん中あたりで彩音の指先が一拍、引っかかった。

 原稿用紙の上のほう、名前欄に「瀬尾律」とある。

 四百字詰め原稿用紙。

 一行目。「走れメロスを読んで」。

 二行目。「メロスは友のために走った」。

 三行目。「約束は大切だと思った」。

 四行目——空白。

 以下、最後まで白いまま。

 彩音の赤ペンが紙の上で止まったまま、しばらく動かなかった。

(……三行)

(今回も三行か)

(感じてないわけが、ないのに)

(毎日、誰かのために手を動かしてる子なのに)

(——書けないんじゃ、ない)

(書き方を知らないだけだ)

 彩音は赤ペンのキャップを閉めて原稿用紙を一度伏せた。窓の外を見る。校庭で運動部の声が低く混じっている。

 しばらくして彩音はもう一度、原稿用紙を裏返した。


 空き教室。

 西日が机の天板を斜めに切っている。窓際の机一つに原稿用紙と赤ペンが置かれていた。

「呼び出してごめんね、瀬尾くん」

「いえ」

 彩音は対面の椅子に座っていた。律はその向かいに背筋だけ伸ばして座っていた。

「あのね」

 彩音は原稿用紙を律のほうに向けて置いた。

「感想文って、『正解を書く場所』じゃないの」

「……はい」

「『約束は大切だと思った』。それは正解よ。でも先生が聞きたいのは、あなたが読んでどこが引っかかったか。メロスの気持ちじゃなくて瀬尾くんの気持ち」

 律の耳がまた、熱くなった。

(僕の気持ち)

(……先生に僕の気持ちを書いて出すのか)

(それは——)

(それは、ちょっとまずいやつだ)

 律の喉の奥でまた、言葉が形にならないまま回っている。

 彩音は赤ペンのキャップを外した。原稿用紙の余白にメモを書き始めた。

「たとえばね」

 赤ペンが滑らかに走る。

「『メロスは走った。でも途中で何度も諦めかけた。友を信じたいのに信じ切れない自分がいた』——これはメロスの話だけど、読んだ瀬尾くんが『ああ、わかる』って思ったポイントがあるはずなの。そこを書いてほしい」

 赤ペンの字は教壇のチョーク字と全然違っていた。小さくて丁寧で律の三行の隙間にびっしりと収まっていく。

(先生の字)

(……板書と全然違う)

(この字は僕にだけ、向けられてる)

(クラス全員に向けた声じゃなくて僕だけに向けた赤ペン)

(……なんでこんなに丁寧なんだ)

(僕の感想文、三行しか、ないのに)

 律はその赤ペンの動きをずっと目で追っていた。

 しばらくして自分でも気づかないうちに口を開いていた。

「……先生は感想文、得意だったんですか」

「大得意」

 彩音はペンを止めずに軽く頷いた。

「というか、好きだったの。本を読んで自分の気持ちを書くのが。映画を観て泣いた理由を言語化するのが」

「……」

(それで、宗方監督のドラマにハマったんですね、先生)

 律は口の中だけでそう呟いた。

 彩音がふっと顔を上げた。

「でもね、先生にも苦手なことはあるわよ?」

「……何ですか」

 彩音は赤ペンの先を自分の頬の横に当てた。少しだけ、考える顔をしてそれから笑った。

「自分のことを書くのは、得意なのに自分のことを言うのは、苦手」

 ——空き教室の音が一拍、消えた。

 彩音自身が自分の声にわずかに驚いたような顔をした。すぐにそれを誤魔化すように笑い直す。

「——なんでこんなこと言ったんだろ。忘れて」

 彩音は赤ペンに視線を戻した。原稿用紙の余白の書きかけのメモの続きにペン先を当てる。教師の顔に戻っていた。

 律は原稿用紙を見ているふりをして視線だけ、ほんの少しだけ、彩音の頬の角度に置いた。

(先生)

(……今のは、教壇の声じゃ、なかった)


 夕方。

 彩音は職員室を出た。廊下には、もう誰もいない。窓の外は橙色の空。校舎の影が廊下の床に長く伸びている。

 ヒールの音が廊下にこつこつと響いた。

(疲れた)

(……今日は何コマ喋ったっけ)

(六コマ)

(ずっと、「先生」をやってた)

 校門を出る。

(教壇に立つと切り替わる)

(声が変わって背筋が伸びて生徒の顔を見る。それは、好きだ。好きなんだけど)

(——帰ったら、誰もいない部屋で誰にも向けなくていい声でぼーっとしたい)

(コーヒー、飲みたい)

(マンハッタンのコーヒー)

 彩音の足が駅前ではなく、細い路地のほうへ曲がった。


 マンハッタンのドアを押した。カランとベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

 千影がカウンターの内側から低い声で応えた。柊一は奥でカップを磨いている。閉店間際の店内に客は一人だけ、奥のテーブル席に残っているきりだった。

「ブレンドください」

「お持ちしますね」

 千影が湯を回し始めた。柊一はちらりと千影の手元を見て何も言わずにまたカップを布で撫でる。

 彩音はカウンターの端に座ってぼんやりとカウンターの天板を眺めていた。

(千影ちゃんの淹れ方、最初の頃より、迷いがなくなった気がする)

(マスターに教えてもらってるのかな)

(……それとも自分で覚えたのかな)

 千影が出来上がったカップを彩音の前に置いた。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 千影はカップを置く手を丁寧に引いた。彩音はその手の角度を目だけで追ってしまった。

 ふとカウンターの中に視線をずらすと柊一が千影の手元に視線を落としていた。それはほんの一瞬で千影が彩音の前から下がった瞬間に柊一の目はもうコーヒーミルのほうへ戻っている。けれど、その一拍が彩音には、確かに見えた。

(——マスター、千影ちゃんにちょっとだけ、優しい?)

(……今、手元、見てた)

(あの手つき、どこかで見た手と似てる、とか、そんな顔、してた)

(……気のせい、かな)

 彩音はカップを両手で包んで一口すすった。苦味が舌の上でゆっくりほどけていく。

「マスター」

「ああ」

「今日のブレンド、いつもより、なんか、ちょっと優しい味する」

「……気のせいだ」

「そう?」

 柊一はそれ以上は答えなかった。彩音は笑ってカップに視線を戻した。


 帰り道。校門を出てから駅までの道で彩音はスマホを取り出した。

 LINEに律からのメッセージが届いていた。

 一行目。

 「先生、今日はありがとうございました。感想文、書き直してみます」

 その下にもう一行。

 「あと副菜作りすぎたんで、合鍵で冷蔵庫に入れておきます」

 彩音は画面を見ながら、短く吹き出した。

(瀬尾くん)

(感想文は三行しか書けないのに、LINEは、二行書けるのね)

(……二行で十分、伝わるわよ、あなたの気持ちは)

 彩音はスマホをポケットに戻して口元の笑みを残したまま、マンションへの最後の角を曲がった。


 帰宅して風呂を済ませて髪をタオルで挟んだまま、彩音はソファに沈んだ。

 リモコンで録画フォルダを開く。

 『隣の窓』。宗方鉄哉監督の初期作。

 彩音はもう何度目かわからない再視聴で第六話の途中から再生を始めた。隣同士に住んでいる二人の男が毎日、相手に手料理を作り合うドラマ。

(今日は第六話から)

(料理を作る側が、「もう余ってないんだ」って認めかけるところ)

(……ここで号泣するのよね、私)

 律の置いてくれた副菜をレンジで温めながら、画面を見る。出汁の匂いが、リビングに広がる。

(瀬尾くんも料理上手よね)

(……ドラマと現実はまた別だけど)

(料理する男の子っていいわよね、という意味でね)

 テレビ横の棚には、今夜の続きで観るつもりの別のドラマのブルーレイケースが立てかけてあった。彩音にとっては、どれも「切ない恋愛もの」というカテゴリでひとくくりに並んでいる。性別の別枠は彩音の頭の中の棚には、最初から無かった。

 画面の中で隣人の男がもう一人の男に半分泣きそうな顔で手料理の蓋を開けている。

 彩音はレンジから出した副菜のタッパーを膝の上に乗せた。

 箸を割って一口食べる。

(……美味しい)

(瀬尾くんの煮物、味がちゃんと染みてる)

 画面と副菜と彩音のため息がリビングの中でゆっくりと混ざっていった。


 律は自分の部屋で壁にもたれていた。

 スマホはローテーブルの上に伏せて置いている。彩音からの返信が来るかもしれない、という考えと来てほしくない、という考えが、同時に頭の中にあった。

 先生の声がまだ、耳に残っている。

 「瀬尾くんの気持ち」。

 律は机に置いた原稿用紙の白い四行目をぼんやりと思い出していた。


 ——同じ日。

 マンハッタンから二駅離れた千影のワンルーム。

 カーテンの隙間から午後の光が斜めにフローリングの上に落ちていた。

 千影は起きてまだ三十分も経っていなかった。ベッドの上で胡座をかいて髪はボサボサのまま、両肘を膝に乗せている。スウェットの袖が手より長く余っていた。

 手元には、湯気の立つカップラーメン。さっき作ったばかり。

(……美味しい)

(不健康な味がする)

(不健康なのが、美味しい)

 今日は三対三対一の決議の「オフの日」。

 男装モードでもなく、女優モードの白河凛でもない。ただの真白千影。

 スッピン。寝癖。声は誰にも聞かせなくていい。誰とも話さなくていい日。

 ローテーブルの上には、スマホが二台、並んでいた。

 業務用——白河凛の画面は伏せてある。朝からサイレントで新着なし、着信なし。今日は鷹宮社長も社長なりに「休ませる」つもりらしい。

 個人用——真白千影の画面を千影はさっき、横目でちらりと開いた。連絡先はほんの数件。事務所の二人と、高校時代に細く繋がったままの同級生が二、三人。着信履歴も新着メッセージも、ここ最近は空のまま。

(個人用……最近は、ほとんど鳴らないな、この番号)

(こっちから連絡する気力もなかったし、当然なんだけど)

 カップラーメンをずるずると啜る。湯気が唇の前でふわっとほどける。

 最後の一口を口に押し込んでシンクに向かう。残り汁を流して容器を捨ててまた、ベッドに戻る。仰向けになる。

 天井の電球を一つだけ、ぼんやりと見る。

 何も考えない。

 何も考えなくていい時間が週に一日だけ、ある。

(……私の週に一日)

(この日だけは、真白千影でいていいんだよね)

 一拍。

 千影は自分の言葉に軽く引っかかった。

(——あれ)

(「いていい」ってなんで許可みたいな言い方、したんだろう)

(私、元々、真白千影じゃん)

 考えるのをやめた。

 スマホを手に取って動画アプリを開く。おすすめに流れてきた猫の動画を無心で観る。一本観終わって次の動画。さらに次。

 途中で千影は一度、声を出して笑った。

 その声が自分で聞いていて男装モードの「俺」でも白河凛モードの「私」でもなかった。「わたし」というひらがなが似合いそうな、素の声。

(……ああ、この声)

(久しぶりに聞いた気がする)

 そう思ってから千影はもう一度、軽く引っかかった。

(なんで、「久しぶり」なんだろう)

 次の猫動画が引っかかりをふっと押し流した。


 夕方。部屋が薄暗くなった頃、千影はようやく、体を起こした。

 窓の外が橙色から紫色に変わりかけている。

 千影はスウェットの袖に顔を半分埋めて深く、息を一つ、吐いた。

(……明日からまた、男の千影か)

 吐いた息は袖の毛羽立ちに吸われて跡形もなく消えた。

 千影はしばらく、その姿勢のまま、動かなかった。


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