第六話 余ったから
開店前のマンハッタン。
千影は一人でカウンターを拭いていた。柊一はまだ厨房の奥にいてコーヒーミルを回している。低く一定の唸りが、店内の床に染みていく。布巾の動きとミルの音だけが店を満たしている時間。
(マスターの手)
(コーヒーを淹れるときの手。豆を挽くときの手。カップを磨くときの手)
(……全部、力加減が違うのに全部、迷いがない)
窓の隙間からシャッターを通りきれなかった朝の光が一筋、カウンターの端に落ちていた。
(役者としてあの手が羨ましい)
(私の演技はまだ、迷いだらけだ)
布巾を握る指がふっと緩んだ。
(「嘘はついてない」って自分に言い聞かせるたびに少しずつ、言葉が重くなっていく)
(最初は本当に気にしてなかった)
(いつからだろう)
(……気にしてないフリをしてる自分がいる)
(それって演技なの?)
ミルの音がふっと止んだ。
奥から柊一の足音が一歩、こちらへ近づいてくる気配。千影は首を小さく振って考えを切り上げた。
(——演技だとしたら、誰のための?)
柊一がカウンターの奥から顔を出した。
「千影。開けるぞ」
「はい」
千影は声を低く作り直して応えた。自然に。もう慣れた動作で。
——慣れたことが、少しだけ、怖い。
千影は応えながら、足元のバッグを引き寄せようと椅子の脇から手を伸ばした。
その時、バッグの口が肩に引っかけ直す角度でわずかに開いた。内側に押し込んでいた小物ポーチの口も、ついでに半開きになる。
カチン、と軽い音がカウンターの床で跳ねた。
(——あ)
千影の背中が一瞬だけ固まった。
柊一はもう屈んでいた。床のタイルの隙間からそれを掌に拾い上げる。
桜色の花のモチーフがついた可愛らしいデザインの——ヘアピン。
「……これ、お前のか?」
柊一が掌の上でそれを転がしてしげしげと見ている。
(しまった)
(女装モード用の小物ポーチまで、バッグの中で口が開いたままだった)
(昨日のオフ明けで中身を入れ替えるとき、急いだから)
千影は息を喉の奥でひとつ整えた。声を崩さず、平然と。
「あ、すみません。役作り用です」
「役作り?」
「今度、女の役も回ってきそうなんで。小物に慣れておこうかと」
柊一はヘアピンを手の中で一度だけひっくり返した。それから納得したというほど大袈裟ではない、ほんのかすかな頷きを自分の中だけで済ませた。
(……あいつ、役作りで女の役もやるのか)
(面接で「役作りの延長」と言っていたな)
(男役も女役もやれる、ってことか)
(役者は大変だな)
柊一はヘアピンを千影のほうへ差し出した。
「落ちやすい小物は別ポーチに分けとけ。役作りで持ち歩くなら、なおさらだ」
「はい、すみません」
千影が受け取る。指先が一瞬、柊一の手の腹に触れた。何でもない顔を作る。
(——「役作りの延長」)
(面接のときに自分が置いた言葉が今、私を守っている)
(嘘では、ないんだ。男役も女役もある)
(ただ、「本業の女役を毎日やっている」って事実がその言葉の中に紛れて見えなくなる)
千影はヘアピンを小物ポーチに戻してバッグのファスナーを最後まで閉めた。
(マスター)
(あなたのその、「まあ役者だしな」で片付ける、雑な納得が今、私を守っている)
(……ありがたい)
(ありがたいのに胸の奥がちょっとだけ、痛い)
(——なんで痛いんだろう)
柊一はもう厨房の奥に戻りかけている。コーヒーミルの隣でエプロンの紐を結び直している背中だけが見えた。
千影は布巾を握り直してカウンターの天板に視線を落とした。
——夜。隣の部屋。
律はキッチンのコンロの前に立っていた。フライパンの中で豚肉が生姜の匂いを立ち上げている。
今日のおかずは、生姜焼き。
タッパーが二つ。
(……多く作った)
(今日はわざと)
(なんでだろう)
(買い物のとき、勝手に二人分、カゴに入れてた)
火を止める。フライパンの底から肉を一枚一枚、丁寧にタッパーへ移す。タレを上から回しかけて蓋を閉める。
(——先生のあの顔)
(蓋を開けたときの「え!? いいの!?」)
(……もう一回、見たい)
(それだけだ)
(……それだけのはずだ)
律は二つのうちの一つを抱えて部屋を出た。すぐ隣のドアの前に立つ。
チャイムを押す。
ピンポーン。
——応答がない。
もう一回。ピンポーン。
……不在だ。
(いない)
(……帰り、遅いのか)
(今日は部活指導の日だったかも)
(……どうしよう)
(持ち帰って冷蔵庫に入れるか)
(でも出来たてのほうが、美味しいし)
(……ここに置いておくか)
律はドアの前にタッパーを置いた。ポケットからメモ帳を取り出して一枚ちぎり、ボールペンで短く書いた。
「生姜焼きです。余ったので。——瀬尾」
メモをタッパーの蓋の隙間に差し込む。律はもう一度ドアを見てそれから自分の部屋に戻った。
ドアを閉めて靴を脱ぐ。
(大丈夫かな)
(……冷めるよな)
(虫とか、来ないかな)
(先生、ちゃんと気づいてくれるかな)
(喜んでくれるかな……)
律は靴を玄関の隅に揃えながら、しばらく動かなかった。
翌日。学校の廊下。
律が次の授業の教室へ向かおうとしていると後ろからぱたぱたと足音が追いついてきた。
「瀬尾くん!」
振り返る。
日野彩音が満面の笑みで近づいてくる。
「昨日、ありがとう! 生姜焼き、美味しかった!」
律の心臓がどん、と一度跳ねた。
(——あの笑顔だ)
(肉じゃがのときと同じ、ぱっと明るくなる笑顔)
(……やっぱり、この顔が見たかった)
律は無理やり口角を引き締めた。
「あ、いえ。余ったので」
「めっちゃ、ご飯すすんだ。私、明日も食べたいくらい」
「……」
(明日も食べたいくらい)
(……これは、また作っていいやつだ。たぶん。今のは、また作っていいやつだ)
彩音の笑顔がふっとほんの少しだけ曇った。眉の端が申し訳なさそうに下がる。
「でもね——」
律の中でぴしっと音がした。
(え)
(え、なんか、やらかしたか?)
(味付け、失敗してた?)
(醤油、多すぎ?)
(生姜、入れすぎ?)
彩音は廊下の端を見てそれからまた律のほうに向き直った。
「ドアの前に置くのは、ちょっとやめてほしいな、って」
「すみません——」
「冷めちゃうし、虫が来たら嫌でしょ? あと他の住人に見られるのも微妙だし」
律は自分の心臓が一度ほっとしてそれから別の理由でまた鳴り始めるのを聞いた。
彩音の頭上でぴこん、と閃きの音がした顔をした。両手をぱちんと胸の前で合わせる。
「そうだ」
「……はい」
「合鍵、渡すから中の冷蔵庫に入れておいてくれない?」
——律の頭の中が白くなった。
「……え」
「帰りが遅い日も多いし、冷蔵庫に入ってればいつでも食べられるし。あ、なんなら、出来たても食べてみたいから作りに来てもいいよ?」
半分冗談、半分本気の声。
彩音にとっては、完全に実務的な提案だった。温かい料理が冷める。冷蔵庫に入れておけばいい。出来たてなら、もっといい。それ以上の意味は一ミリも込められていない。律にもそれが、はっきり伝わってきた。彩音の目は純粋に生姜焼きの温度のことだけを考えていた。
彩音は鞄からキーホルダー付きの鍵を一本外して律の掌に乗せた。
「はい、これ。なくさないでね」
「……あ、はい」
律の指が鍵をゆっくりと包んだ。
手が震えていた。
(先生の部屋の鍵)
(……僕の手の中に先生の部屋の鍵がある)
(「作りに来てもいい」って言った)
(先生)
(男子高校生に自分の部屋の鍵を渡して料理しに来い、って)
(……先生)
(意味、わかってますか)
(……わかってない)
(この人の頭の中に、「瀬尾律=男」っていう概念がそもそも存在しない)
彩音は「じゃあ、また放課後ね!」と手を振って軽い足取りで職員室の方角へ曲がっていった。
律はその背中が消えてからしばらく、廊下の真ん中で動けなかった。
——その夜。
律は合鍵を握って一度、息を止めた。それから隣のドアに鍵を差し込んだ。
カチャ、といやに大きな音が廊下に響いた気がした。
ドアを開ける。
「……失礼します」
誰もいない部屋に小さく、声をかけた。返事はない。
玄関の電気は点いていた。靴がきちんと揃えられている。リビングのほうからテレビの低い音と暖房の風の音だけが聞こえてくる。
律は副菜のタッパーを抱えてリビングの引き戸を開けた。
——彩音がソファで寝ていた。
うつ伏せ気味の半分体育座りの奇妙な姿勢で。膝の上に赤ペンが転がりかけている。テーブルの上には、採点途中の答案用紙が広げたまま散らばっていた。一枚だけ、彩音の前髪がかかった頬の下でくしゃっと折れている。
(……寝てる)
(……採点しながら、寝た)
律は足音を消してリビングの中へ進んだ。タッパーをキッチンの冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中は彩音らしくきっちり整理されていて一段目が空けてあった。律のタッパー専用の棚みたいに。
(……空けてくれてる)
(昨日のうちに空けてくれてたってことだ)
律は冷蔵庫を閉めた。リビングに戻る。
彩音はまだ寝ている。寝息がソファの肘掛けに小さく落ちている。
律はソファの背にかかっていた毛布を取ってそっと彩音の肩から腰のあたりまでかけた。
彩音の前髪が毛布の風でふわっと頬から離れた。寝顔が近かった。
律の足が止まった。
動けない。
息も止まった。
彩音が寝返りを半分だけ打った。
肩の下で毛布が滑った。
彩音の唇がほんの少しだけ動いた。
「……りっくん?」
律の心臓がどん、と床まで落ちてそれから喉の奥まで跳ね上がった。
——前にも彩音に「りっくん」と呼ばれたことがある。
あのときの「りっくん」は、からかいの声だった。「えー、可愛いのに」と笑いを乗せたいたずらっ子のような、軽い声。
でも今のは——
(……同じ「りっくん」なのに)
(なんでこんなに違うんだ)
(あのときは、恥ずかしかっただけだ)
(今のは——)
(——なんだか、わからないけど)
(この顔がまた、見たいと思った)
(先生のこの無防備な顔を)
(……なんでだろう)
(わからない)
(わからないけど、もう一回、見たい)
律は毛布の端をそっと直して寝息の角度から足音を消して離れた。
リビングの引き戸を音を立てずに閉める。玄関で靴を履く。鍵を内側からかけ直して外に出る。
自分の部屋に戻って後ろ手にドアを閉めた。
その場でしばらく、動けなかった。
手の中の合鍵がまだ、自分の体温よりも少しだけ冷たかった。
翌日のマンハッタン。
律はカウンターの端の席に座ってコーヒーをゆっくりすすっていた。動揺がまだ胸の底に薄く残っている。指先が無意味にカップの取っ手をなぞっている。
ドアのベルが鳴って彩音が入ってきた。
「マスター、こんにちは。あ、千影くんもこんにちは」
「いらっしゃいませ」
千影がいつもの低い声でカウンターの内側から応えた。
彩音がカウンター越しに千影に手を振ってから声をかける。
「千影くん、調子どう?」
「おかげさまでなんとか」
「マスター、千影くんに無茶振りしちゃダメよ」
「……してない」
律はコーヒーを一口飲んで視線をカウンターに戻した。
千影が注文を取ったあとふと柊一の手元を見ている。湯がネルから落ちる動きを目で追っている。柊一は彩音の前にカップを置く。カップの底がいつもより、ほんの少しだけ、ゆっくり、テーブルに触れた気がした。
(……なんだろう)
(この店にいるとみんなが、誰かのことを見てる気がする)
(先生は千影さんをやたら気にしてるし)
(千影さんは、マスターの手をよく見てるし)
(マスターは……わからない)
(でもなんか)
(なんか、引っかかる)
(……気のせいかな)
律はカップに視線を落とした。
言語化、できない。何がどうおかしいのかもわからない。
ただ、この店の空気の中に自分がまだ、読めていない何かがある。そんな感じだけが、舌の奥に残っていた。
律はブレンドをもう一口飲んだ。苦味の余韻がいつもより、ほんの少しだけ、長く感じられた。




