第五話 嘘をつかない男
閉店後のマンハッタンは湯気の匂いと外を通り抜ける春の夜風の音だけになる。
カウンターの上に小皿が五つ並んでいる。それぞれにフォークで一口分だけ切られたケーキの切れ端が乗っていた。色も少しずつ違う。クリーム色、濃い茶薄黄色、淡いピンク、そしてレモン色。
千影はエプロンを外しながらカウンターに歩み寄った。
「マスター、これ全部、今日焼いたんですか」
「ああ」
「五種類?」
「三種類だ。二つは配合を変えた」
「あ、そういう……」
(ケーキを「配合」って言う人、初めて見た)
柊一は厨房の奥で計量カップを布で拭いている。背中向き。例によって表情は読めない。
「食え。感想を聞きたい」
「いいんですか、これ全部」
「全部食わせるために並べた」
「あ、はい」
(まあそうですよね、はい)
千影はフォークを取っていちばん左の切れ端を口に運んだ。
「美味しいです」
「どれが」
「全部」
「それじゃわからん。左から順に食え」
「は、はい」
(怒られた。優しく怒られた)
千影は左から順に小さく口に入れていく。一つ口に入れては、舌の上で転がして飲み込む。間に湯を一口含んで口の中をリセットする。柊一が淹れる白湯はなぜかただの湯のはずなのにほのかに甘い気がする。
(これも気のせいかな。気のせいだとしても、もう、これに慣れてきた気がする)
左から二つ目を口に運ぶ。
「これは……甘い。ふんわりしてて子供が好きそう」
三つ目。
「これは、しっとりしてる。バターのちゃんとした香り」
四つ目を口に入れた瞬間、千影の眉がほんの少しだけ動いた。
「これは……あ、レモンの皮、入ってます?」
「三番目」
「え?」
「明日はそれで行く」
「私の感想、一言で決めていいんですか」
「お前の舌は正直だ」
(舌は正直)
(……全部が正直だったら、いいのに)
千影は笑顔だけ作って頷いた。柊一はもうこちらを見ていない。背中越しに計量カップを片づけて小麦粉の袋の口を留め直して明日の仕込みのメモを取り出している。「日替わり」と名のついたケーキのために深夜まで配合を微調整するつもりらしい。手抜きという言葉が辞書から削除されている人だ、この人は。
(一日だけのために何時間もかける人)
(……怖い顔してこういうとこ、ほんとに)
千影はケーキ皿を下げ始めた。皿を棚に戻す手つき。カウンターを拭く角度。柊一の前を通るときに肘が当たらないように半歩だけ身を引く。柊一にカップを渡すときの腕の運び方。
ふと自分の動きが、いちいち滑らかに繋がっていることに気づいた。
(あれ)
(今、私、何も考えてなかった)
(「男の千影」になろう、って力入れてなかった)
(……してなかったのになれてた)
フォークを布巾に包んでカトラリー入れに戻しながら、千影は自分の手を見た。指の動き。手首の角度。エプロンの紐の結び方。全部、最初の頃は意識して頭の中で台本を読みながらやっていたはずなのに今は——
(場所が勝手に私を役に入れてくれる感じ)
(カウンターという舞台の中にいると自然とそうなる、っていうか)
(……これって何だろう)
まだ言葉にならない。けれど、感覚だけは確かに残っていた。
千影はその感覚を胸の真ん中に小さくしまった。
台本を取り出す。隅のテーブル席に座り、声を抑えて台詞を読み始めた。明日のオーディションがあるわけではない。社長から「二十四時間、役の中に居ろ」と言われている、いつもの自主練だ。
「すみません、うるさいですよね」
「別に。練習なら好きにしろ」
柊一は片付けの手を止めない。布でカップを一つずつ磨いている。布が陶器の丸みをゆっくり撫でて光にかざしてまた撫でる。一つ。また一つ。
千影は息を整えて台詞に感情を乗せた。
「——信じてたのに」
声がわずかに上ずった。自分でも分かる。硬い。台詞が台詞のまま、口の表面で滑っていく。
もう一度。
「信じてたのに」
今度は重くなった。重すぎる。重いだけで何も伝わらない。
(あー、ダメだ。これ、ダメな読み方だ)
(力が入ってる)
通りすがりに柊一がぽつりと言った。
「力が入りすぎだ。コーヒーも同じだ。力を入れすぎると雑味が出る」
千影は顔を上げた。
「マスター、演技のことわかるんですか」
「知らん。コーヒーの話をした」
「……」
(今のは絶対コーヒーの話じゃなかった)
(絶対、私のこと見て言ってた)
(でも本人は本気でコーヒーの話のつもりなんだよなあ、この人)
千影はふっと笑った。喉の奥で押し殺すつもりだったのに口元の力が抜けて声のトーンが上がってしまった。目が細くなって少し照れたように顎が引かれる。男装モードでは、絶対にしない仕草。
——その瞬間。
カップを磨く柊一の手が止まった。
布が陶器の丸みの上で動きを忘れた。ほんの半秒。あるいは一秒。柊一自身もそれを意識していなかった。
ただ、十年間、どんな常連客が何を言っても止まらなかった手が止まっていた。
柊一の視線はカップに落ちている。けれど目の焦点はカップを通り抜けてその向こうの誰かのほうへ向いていた。
(——何だ。今のは)
(いや、何でもない。千影が笑っただけだ)
(笑い方が違っただけだ)
(……違っただけ?)
(何が違った?)
(——いや、何でもない。カップを磨こう)
布がまた動き出す。何事もなかった顔で柊一はカップを布で撫でる。一つ磨いて光にかざしてもう一つ。
千影は台本に視線を落としたまま、柊一の方を見ていない。布巾を持つ柊一の指がほんの一拍、遅れたことも、自分の笑い方がいつもの「男装モード」から外れていたことも、千影の視界の外で起きている。
千影のスマホがテーブルの上で短く震えた。鷹宮社長からのメッセージだった。
『今月の活動レポート提出して。男装モードの写真も添付。イケメン感出てるやつね』
(イケメン感)
(……バイト中に自撮り撮れってこと?)
(マスターの目の前で? 無理です鷹宮さん)
(後でトイレで撮ろう)
千影はスマホをポケットの奥に押し込んだ。台本に戻る。けれど、さっきまで頭にあった台詞の感情がいったんどこかへ逃げてしまった。
(綱渡り、こういう細かいところに出るんだよなあ)
もう一度、最初の行から声を作り直す。
「——信じてたのに」
今度は少しだけ、声が落ち着いた気がした。
しばらくしてドアのベルが鳴った。
常連の男性客がふらりと入ってきた。
「あ、マスター、まだ大丈夫? 遅くなっちゃった」
「ああ。座れ」
「ブレンドで」
「わかった」
千影は台本を閉じてエプロンを取り直した。
(営業時間外なのに追い返さないんだな、この人)
(……常連には甘いのか、ただ単に断るのが面倒なのか)
柊一が湯を回し始めた。豆の膨らみを見ながら、いつもの手つきで湯を落としていく。一杯のコーヒーが出来上がるまでの数分、店内には、湯がネルを通って落ちる音だけが残った。
千影が出来上がったカップを受け取ってトレイに乗せて運ぼうとしたその時。
ドアがもう一度開いた。閉店間際に通り過ぎようとした別の客が戸口で迷っているような、そんな所在のなさで半歩だけ店内に入りかけて千影の背中側を通り抜けた。
千影の肩が後ろから軽く押された。
トレイの上でカップが大きく傾いた。
千影は反射的に空いている手をカップの真下に差し入れた。コーヒーの黒い液体がふちから波打って千影の手の甲に落ちた。
——熱い。
けれど、声は出さなかった。
「あ」
千影は小さく息を吐いただけだった。カップを庇ってトレイの上にきちんと乗せ直す。男性客の前まで運んで両手で差し出した。
「お待たせしました」
「ごめん、俺じゃないけど、なんか、ごめん」
「いえ、大丈夫です。役作りなんで」
「えっ」
「いえ、なんでもないです」
(なんで「役作りなんで」って言ったんだ私は)
(コーヒーが手にかかるのは役作りじゃないだろ)
(また意味不明な言い訳した)
千影が振り返るとカウンターの中にいたはずの柊一がもう氷水を入れたボウルと清潔なタオルを用意していた。
「——手を出せ」
声は低い。普段より、わずかに早口だった。
「あ、いえ、これくらい——」
「出せ」
千影は片手を差し出した。柊一の指が千影の手首をつかんだ。
冷たい水に千影の手の甲が沈んだ。手首の細い骨を柊一の指の腹が押さえている。
(マスターの手が)
(私の手首をつかんでる)
(冷たい水と温かい指)
(……心臓、うるさいな)
千影は視線を水の中に落としていた。柊一の顔は見られない。柊一も千影の顔は見ていない。手首だけを見ている。
柊一の指の腹に千影の手首の骨の細さが、はっきりと当たった。
(——細い)
(男にしては、細いな)
一拍。
柊一の思考がそこで止まった。「男にしては」のあとが、続かない。喉の奥のほうで解釈が形になりかけて——
(……栄養が足りてないんじゃないか)
(飯食ってるか、と聞いたな、初日に。そういえば)
(痩せてるのは、体質か、食ってないからか)
(……ちゃんと食ってるのか、こいつは)
(明日、賄いでも出すか)
解釈がふっと脇道へ逸れた。「男にしては細い」が、「若い男が痩せすぎなのは食生活のせい」になり、「賄いを出そう」へ着地した。柊一は自分がこの数秒のあいだに何を考えかけていたのか、もう覚えていなかった。
手首から指を離す。タオルを千影のほうへ押しやる。
「冷やしとけ。それと——明日、賄い食ってけ」
「え」
「食え」
「あ、はい」
(は、はい、しか言えなかった)
千影はタオルを手の甲に当てたまま、その場でしばらく動けなかった。柊一はもうカウンターの奥に戻って布を取り、何事もなかった顔でカップを磨き始めている。
(……今、絶対、手首めちゃくちゃ見られてた)
(見られてたよね? 絶対見られてた)
(でも——賄い?)
(結論が賄い?)
(マスターの鈍さ、ちょっとすごいな)
(ありがたいけど、すごい)
千影はタオル越しに自分の手首の骨をそっと指で確かめた。柊一の指の感触はもうそこにはない。けれど水の冷たさと指の温かさの差だけが、まだ皮膚の上に残っている気がした。
男性客がコーヒーを飲み終えて帰っていった。ドアのベルが乾いた音を立てる。店内はまた静かになった。
千影はテーブル席に戻り、台本を取り出した。さっき途中だった台詞のページにしおりが挟んだままになっている。
「信じてたのに」
もう一度、口の中で読んだ。さっきよりも声が低くなっていた。なぜ低くなったのかは、千影自身、よくわからなかった。
カウンターの中で柊一はコーヒー豆の袋を一つ手に取った。新しいネルを取り出して湯を沸かし直す。
頭の片隅に別の声がふっと浮かんでいた。
——ちょっと急用で。
あいつの声だった。十年以上前。共同で店を出すと約束した親友の声。物件の図面を一緒に引いた夜、新しい豆の袋を二人で開けた朝、笑いながら次の豆の話をしていたあの男の。
(……あいつの淹れた珈琲は不味かったな)
唐突にその一言だけが浮かんだ。
毎日顔を合わせていた。夢を語った。物件の間取りを一緒に決めた。それでも気づかなかった。あいつが店の口座から金を抜いていたことに。「ちょっと急用で」と言って消えた朝、口座の残高を見て初めて気づいた。
あの日から柊一は人の内側を読もうとするのをやめた。読もうとするから見えていない事実を「見えた」と錯覚する。それが、いちばん怖い。だから今は相手の顔のパターンで距離を測らない。手元の湯温とカップの重心だけを見ている。それで十分だ。それ以上のことは、自分には読めない。
豆を挽く。湯を沸かす。一定の温度。一定の手順。一定の時間。同じ豆を同じ手順で淹れれば同じ味になる。
ネルから湯がゆっくり落ちる。
(……人間は嘘をつく)
(言葉は裏切る)
(でもコーヒーは嘘をつかない)
柊一は出来上がった一杯を自分のために淹れたカップに注いだ。
「……珈琲の味は嘘をつかない」
独り言のつもりだった。誰にも聞かせるつもりはなかった。
しかし、千影はまだ帰っていなかった。テーブル席で台本を閉じかけていた手が止まっていた。
(珈琲の味は嘘をつかない)
(……マスターの信条だ)
(覚えておこう)
千影はその一言を胸の奥に書き写した。柊一は千影が聞いていることにまだ気づいていない。カップを口元に運んで一口、すすっている。表情はいつものとおり、感情のスイッチがどこにあるのかわからない、あの顔だった。
(……もう、何年経ったんだったか)
(何を思い出してるんだ、俺は)
柊一は軽く首を振ってカップを置いた。
翌日の昼下がり。客が一段落して二人だけになった時間。
千影はカウンターを拭きながら、ふと思いついて口を開いた。
「マスター、なんでブレンドに名前つけないんですか」
「名前をつけると名前が味の代わりをする」
「……」
「味で判断してほしい。それだけだ」
(……この人は言葉より、行動を信じるんだ)
(コーヒーに名前をつけないのも口数が少ないのも全部、同じ理由だ)
千影は布巾を絞り直してからもう一つだけ、訊いた。
「マスターって嘘、嫌いですよね。面接のとき、すぐわかりました」
「ああ」
「だから私は正直に答えました」
「お前は正直だった。だから採用した」
柊一はそれだけ言ってカウンターの隅に置いていた請求書の山を無造作に揃え直した。会話はこれで終わりだ、という終わり方だった。
千影は布巾を畳んでシンクの縁に掛けた。
(正直だった)
(……正直だったか)
(「男二人で回す」って言われた日からずっとそのまま)
(言えなかっただけで嘘はついてない)
(……嘘はついてない)
(でもマスターがこうやって信じてくれるたびに)
(言えなくなっていく)
(……なんだ、この無限ループ)
千影は布巾の縁を指先で一度だけ、強くつまんだ。
外から春の昼の車の音だけが聞こえていた。




