第四話 先生は隣人
ピンポーン。
ベッドの中で彩音は薄く目を開けた。
(……ん? 誰?)
(こんな時間に)
昨夜、疲れて服を脱ぎ散らかしたまま寝た。いま着ているのは、グレーの大きめのTシャツ一枚と淡いグレーのショートパンツ。Tシャツの裾は太腿の半ばまで落ちている。髪は寝癖で後ろがハネている。頬には、枕の跡が残っている気がする。
ベッドから下りてガウンを羽織る余裕もなく、そのまま玄関へ歩く。四月の朝の空気が足首に少し冷たい。
ドアを開けた。
瀬尾律が立っていた。
ブレザーの制服、スクールバッグを肩にかけ、登校前の身支度はもうすっかり済んでいる顔。
律の視線が一瞬だけ彩音のほうに向いて——下へさっと落ちて——すぐに戻った。戻った先は彩音の顔ではなく、肩越しの部屋の中だった。
「……おはようございます。朝からすみません」
律は少し俯いたまま続けた。
「——俺宛ての荷物が昨夜の夜、ここに届いたはずなんですけど。配達員の方、部屋番号を間違えたみたいで」
律はスマホの画面を差し出した。配達完了通知の写真。写っているのは、確かに——
「あ、ほんとだ。これ、うちのドアだ」
通知の「お届け先」欄には、律の部屋番号が書かれている。
「昨夜帰ってきたとき、ドアの前に箱が置いてあって——『あら、私こんなの頼んだっけ』って思ってそのまま玄関に入れたままだったわ」
彩音は玄関の内側へ振り返って三和土の脇に置いた段ボールを確認した。
「……瀬尾くんのだったのこれ」
彩音は身を屈めて段ボールに手をかける。Tシャツの裾が太腿を滑って少し上に上がる。
律の視線が天井に飛んだ。
「はい、これ」
段ボールを両手で差し出す。律が両手を伸ばして受け取ろうとする。——広めの襟ぐりから彩音の鎖骨が露わになる。
律の視線が一瞬、鎖骨に落ちて——すぐ、段ボールの箱の角に戻った。
「……先生」
「うん?」
「その格好で玄関開けない方がいいです」
律の目は段ボールの角を見たまま動かない。
「相手が俺じゃなかったら」
彩音は自分の格好をぱっと見下ろした。
Tシャツ。ショートパンツ。下は履いている。鎖骨は——まあ、出ている。
(一人暮らしの朝の部屋着としては、何もおかしくない、はず)
「……あー、ごめんね。寝起きだったから。パジャマよりは、マシかなと思って——」
「いや、パジャマの方が厚着だと思います」
「……そうね?」
「……はい」
沈黙。
律の耳がほんのり赤くなっていた。
「じゃ、これで。朝からすみませんでした」
段ボールを受け取り直す律の指先が彩音の指先に一瞬だけ触れた。
律は反射的に手を引いた。軽く会釈してそのままドアの向こうへ足早に消えていった。
ドアが静かに閉まる。
(瀬尾くんって律くん、だったかしら)
(りっくんって呼んでいい? ……あとで聞こう)
彩音は伸びをしながら、キッチンのほうへ歩いていった。
(——でも「相手が俺じゃなかったら」ってどういう意味だったのかしら)
(瀬尾くんって意外と心配性よね)
彩音はそう結論した。それ以上、考えなかった。
二時間後。教壇。
国語の授業。
彩音はチョークを置いて教室をぐるりと見渡した。
瀬尾律はいつもの席でノートに視線を落としていた。
(瀬尾くん、今日、ちょっと変ね)
いつもの律は教壇に立つ彩音のほうを真っ直ぐ前を見て授業を聞いてくれる生徒だった。板書よりも解説している教師の顔を見ている。だから、質問を当てやすいタイプの生徒だった。
それが、今日はずっとノートの上に視線がある。
(体調、悪いのかしら)
授業が終わり、チャイムが鳴る。彩音は出席簿を閉じて教壇から降りた。
「瀬尾くん」
呼びかけた。律が顔を上げる。
「朝はありがとうね。助かったわ」
彩音は廊下へ出ようとしていた律に軽く手を差し出しかけた。
——律の手がびくっと引っ込んだ。
彩音の指先はまだ律の手には、触れていない。十センチは距離があった。
(?)
(静電気かな? ……あれ、触れてもないのに?)
「……いえ」
律は短くそう言って会釈をすると廊下のほうへ歩いていった。
彩音は少し首をかしげてそれから別の生徒に呼ばれてもうその場を離れていた。
——放課後の廊下。
出席簿を小脇に抱えた彩音はふと思い出して下駄箱へ向かう律の背中を見つけ、声をかけた。
「そうだ、瀬尾くん。ちょっと」
「はい」
「りっくんって呼んでいい?」
「……だめです」
即答だった。
「えー、可愛いのに。りっくん」
「だめです、先生」
律の耳がまた赤くなった。
(あら、また耳赤い)
(今朝もそうだったわ)
(花粉症、かしら)
彩音は手帳に「花粉症?」と書き留めるつもりでポケットのボールペンを探した。
律は黙礼して下駄箱の向こうへ消えていった。
放課後のマンハッタンは春の夕方の光で少しだけ眠そうだった。
彩音はカウンター席の端に座ってコーヒーを一口、含んだ。
カウンターの中では、千影が柊一の横で空いたカップを受け取ってシンクで洗っている。男物のシャツ、腰に巻いたエプロン。声を低く整え、歩幅を広めに手の動きを無駄なく。昨日、秘密を打ち明けてもらったばかりとは思えないほど、完璧に「男の千影」を演じている。
(千影ちゃん、上手ね)
(……上手すぎてちょっと心配になるくらい)
(演じることに慣れすぎてない?)
(あの子、昨日秘密を打ち明けたとき、最後にふっと「少し寂しい」って顔したのよね)
(本人は気づいてなかったけど)
千影が柊一にカップを渡すとき、一瞬だけ、千影の視線が柊一の手元に留まる。指の関節、湯を注ぐリズム、カップを拭く布の動き。
(あの目)
(……千影ちゃん、マスターの手をよく見てるのよね)
(演技の勉強、かしら)
(マスターの所作は確かに綺麗だし)
(……この構図、昨日観返した『沈黙の果て』の第三話に似てる)
(寡黙な年上の男性とその横で働く、若い男の子)
(カウンター越しに受け渡しするときの指の距離)
(——ああでも千影ちゃんは、女の子ね、念のため言っておくと)
(宗方監督の作品だと男同士のパターンなんだけど、現実の千影ちゃんは女の子だから、別の話ね。うん)
彩音はカップを傾けてもう一口コーヒーを飲んだ。
カウンターの奥で柊一が新しい豆を挽いている。ガリガリと低い音。それから湯を落とす。
——千影がカップを下げる動線で彩音の横を通り過ぎた。
彩音はカップの縁に唇を当てたまま、小声で言った。
「ねえ、千影ちゃん」
千影の手がほんの一瞬、空のカップの上で止まった。
「マスターの嘘嫌い、深いのよ」
ちらりと柊一のほうを見る。カウンターの奥、シンクで豆の粉を流している柊一の背中はこちらに向いている。
「昔、何かあったらしい、って常連さんが」
「詳しくは、私も知らないけど」
「……そうなんですか」
千影は短くそう応えてそのまま次のテーブルへ空のカップを載せたトレイを運んでいった。
彩音はもうカップに口をつけていた。
——柊一がカウンターの向こうから新しいコーヒーを一杯、彩音の前に置いた。
「先生。今日は酸味を強めにした」
「え、私のために? ありがとう!」
彩音はカップを受け取って一口含む。
——あ、美味しい。酸がふわっと鼻の奥に抜ける。甘味があとから戻ってくる。
「美味しい。前のより、好きかも」
「……そうか」
柊一は短く応えて次のコーヒーを淹れに戻った。
ネルに湯を落とす手つきが、ほんの少しだけ柔らかかった気がしたが、彩音は気づかずにカップに口をつけた。
カウンター端では、律が学生パスのカードを木の台に置いて静かにコーヒーを飲んでいる。
(あ、瀬尾くん)
(ここにも来てるのね)
(……ちゃんとした子よね)
(朝は誤配達の荷物もちゃんと届けに来てくれたし、勉強も真面目だし)
(一人暮らしなのにしっかりしてる)
(……私より、生活力あるんじゃないかしら)
彩音はカップをゆっくり、口元へ運んだ。
店を出たのは、日が暮れかけた頃だった。
彩音は駅前の商店街をコンビニの袋を提げて歩いていた。袋の口からは、弁当の角が覗いている。肩の鞄には、採点途中のプリントの束。
角を曲がったところでスーパーのロゴが入った袋を提げた誰かとぶつかりかけた。
「あ、瀬尾くん。買い物?」
「はい」
律の手にある袋からは、鶏むね肉のパック、ほうれん草、卵のパックが覗いていた。
「瀬尾くん、自炊するの?」
「……まあ、一人暮らしなんで」
(自炊してるんだ)
(ちゃんとスーパーで食材買って。鶏むね肉にほうれん草に卵……バランスいいじゃない)
(高校生なのに偉いなあ)
(……私なんて帰り道にコンビニ寄るのが精一杯なのに)
彩音は自分のコンビニ袋をちょっと後ろに隠すように右手に持ち替えた。
律の視線が一瞬、その手の動きを追った。ほんの一瞬だけ、眉が下がった気がした。
「じゃあね、瀬尾くん」
「はい。お疲れ様です」
彩音は駅前の横断歩道を渡り、律は別の道へ入っていった。
マンションのエレベーターで二人はばったり、また会った。同じ階で降りる。廊下で会釈をしてそれぞれの部屋のドアを開ける。
彩音はキッチンにコンビニの袋を置いてため息を吐いた。
(……手料理、いいなあ)
(でも今日は無理ね。添削、まだ残ってる)
レンジで弁当を温めながら、採点プリントを出した。
——数日後の夜。
ピンポーン。
彩音はジャージ姿のまま玄関へ歩いた。手には、帰り道に寄ったコンビニの袋。
ドアを開ける。
律が立っていた。両手に湯気の立つタッパー。
「あの」
律は目を合わせず、少し掠れた声で言った。
「肉じゃが、作ったんですけど、作りすぎて。……よかったら」
差し出されたまだ湯気を立てているタッパー。彩音は反射的に受け取って蓋を少しずらした。
——甘辛い煮汁の匂い。じゃがいもとにんじんと糸こんにゃく。一人用にしては、明らかに多い。
「え! 肉じゃが!? いいの!?」
彩音は顔をぱっと上げた。
「ありがとう! 瀬尾くん優しいね!」
「……よかったら、食べてください」
律は深く頭を下げてドアの向こうへ戻っていった。
ドアが閉まる。
彩音はタッパーを両手で抱えたまま、キッチンへ戻った。
律は自分の部屋のドアを背中で閉めてそのまま、壁にもたれた。
玄関の三和土に靴を揃えて置く余裕もない。
心臓がバクバクしている。
(……なんだろう)
(心臓、うるさい)
(先生が嬉しそうだった)
(すごく、嬉しそうだった)
(あの顔)
(……なんであの顔でこんなにドキドキするんだ)
(余り物を渡しただけなのに)
律はしばらくそのまま、壁にもたれていた。
靴をようやく脱いで部屋に上がり、明かりをつける。テーブルの上には、肉じゃがを詰める前の鍋がまだ置きっぱなしになっている。
律は鍋の蓋を開けて自分の分の肉じゃがを皿に移した。
食べる。
味は自分で作ったものなのに知っている味のはずなのに——なんだか、うまく入ってこなかった。
彩音はキッチンでパックご飯をレンジで温めていた。
律の肉じゃがをタッパーからお皿に移す。丁寧に盛られたじゃがいもと煮汁の染みたにんじん、糸こんにゃく。湯気が蛍光灯の下で立ち上がる。
温めたご飯の上に煮汁ごとどんと乗せる。
食べる。
「うまーい!」
一口食べて彩音は目を見開いた。
しょうゆと砂糖のバランスがいい。煮汁がしっかり染みている。コンビニ弁当と全然違う。ほっとする味。家庭の味。
パクパク食べる。あっという間にお皿が空になった。
(美味しかった……)
(瀬尾くん、料理上手なのね)
(高校生なのにすごいなあ。いい子だなあ)
(……また持ってきてくれないかなあ)
(あ、でもそれは期待しすぎか)
(余ったから持ってきてくれただけだし)
彩音は空になったタッパーを水に沈めながら、少しだけ笑った。
窓の外、隣の部屋の明かりが、いつの間にか静かに点いていた。
(……でも美味しかったなあ)




