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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第1部「喫茶マンハッタン」

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3/5

第三話 元教え子

 土曜日の昼前。開店三十分前。

 看板の「OPEN」札は千影の手でもう表に出ていた——「客のリズムは客が決める。十一時半と書いてあっても、十一時に来る客は来る」、面接の翌日に柊一が一度だけ千影に言った言葉。経験の中で身につけた、習慣の重みがある一言だった。

 柊一はカウンターの奥のドアの向こう、厨房でネル布の煮沸消毒をしている。鍋の湯が沸き始める音と、ステンレスのシンクに水が流れる音が、ドア越しに小さく漏れてくる。

 今日はまだ、客は誰も来ていない。

 窓から差し込む春の午前の陽がカウンターの木目を暖めている。

(……マスター、奥で長いな)

(鍋のお湯、まだ沸騰中の音、する)

(——ふぁ)

 千影は片手で口元を覆って小さくあくびを噛み殺した。

(朝、早かったし)

(昨日もシフト、長かった)

(喉の、声を作る筋、ちょっと、疲れてる)

(鷹宮社長は「二十四時間演じろ」って簡単に言うけど、二十四時間って本当に二十四時間なんだよ)

 喉の奥でひとつ、軽く咳払いをして低音を確かめる。保てている、つもり、だった。

 布を取って木の表面をゆっくり拭う。磨く方向、力加減、柊一のやり方を真似しながら。

 唇の先で——昨夜、帰り道で抑えたあのメロディが、一拍、形になりかけて、声にならずに消えた。

 ——カラン。

 ドアベルが鳴った。

 千影が反射的に顔を上げて——反射的に声を出してしまった。

「いらっしゃいませ!」

 ——高い。

 明らかに高い。男装モードの声では、ない。

 千影の素の女の声だった。

 入ってきたのは、彩音だった。

 カーディガンの裾を手で払いながら、普段通りの柔らかい顔で入ってきた——その顔が千影の声を受けてぴたりと止まった。

(——あっ)

 千影は一瞬で固まった。

 慌てて咳払いをして声を無理やり喉の奥へ押し戻す。

「い、いらっしゃいませ。……どうぞ」

 低い声が不自然なタイミングで出た。

 しかし、遅かった。

 彩音は入口に立ったまま、目を大きく見開いて千影の顔をじっと見ていた。ドアを閉めることも忘れてゆっくりとカウンターに近づいてくる。

「……え」

「……待って」

「あなた——」

(やばい、やばい、やばい)

(声だ、声)

(さっきの一声で完全に——)

 彩音はカウンターのこちら側で止まった。

 眉を寄せ、少し首をかしげてそれからその首をゆっくり、ゆっくり逆側へかしげた。

 そして。

「え、もしかして……真白、千影ちゃん?」

「——結咲高校の」

 千影の記憶が弾けた。

 結咲高校。二年生の春。窓際の教壇に立っていた大学生の教育実習の先生。ドラマの話ばかりしていた実習生——

「——日野先生!?」

 千影の声はもう素に戻っていた。隠す意味がなくなっていた。

「やっぱり!」

 彩音は両手をカウンターに置いて身を乗り出した。

「文化祭で主演やってて私泣いたのよ! ——ってあなた女の子だったでしょう!?」

「今も女の子です!」

 千影も同じ勢いで身を乗り出して返していた。

 咳払いも低音も全部どこかへ飛んだ。

 ——同時に。

 二人とも、はっと自分の口を片手で押さえた。

 目だけで、奥のドアの向こう、厨房の方角を確認する。

 鍋の湯はまだ沸騰し続けている。シンクに水が流れる音も、規則正しく続いている。

(……届いて、ない)

(届いて、ない、はず)

 ——二人は数秒、そのままの姿勢で見つめ合ってから、同時に肩の力を抜いた。

 彩音がカウンター席に腰を下ろす。

「……びっくりした」

「私もびっくりしました」

(声だ。声で気づかれた)

(さっき素の声で「いらっしゃいませ」って言っちゃったから——あの声が高校の文化祭の記憶と繋がったんだ)

(……やっちゃった)

(マスターが奥にいるからって油断した)

(一瞬だったのに。……先生の耳、良すぎない?)

 千影はカウンターの内側でそっと息を吐いた。

「文化祭、覚えててくれたんですか」

「そりゃあ覚えてるわよ。……上手いとか下手とかじゃなかったのよ、あなたの演技。目がね、本気だったの」

 彩音は千影の顔を見ながら、少しだけ目を細めた。

「客席から見ててこの子は嘘がつけない子だなって思ったの」

 千影は喉の奥が軽く詰まった気がした。

「……それは、今も変わってないみたいね」

 彩音の声は責めているわけではなかった。ただ、確認するように柔らかく、そう言った。

 千影は小さく頷いた。

「……先生、聞いてもらっていいですか」

「どうぞ」

「私がこうなった経緯を」



 千影は事務所の会議のことから話し始めた。

 彩音はカウンター席に肘をついてコーヒーを一口含んでゆっくり、聞いてくれた。

 ——数週間前。

 事務所の会議室。プロジェクターにスーツ姿の千影の写真が映っている。

 鷹宮麗華社長が脚を組み替え、ネイルの先でスクリーンを差した。

「あのね、分かってないのは副社長のほうよ」

 鷹宮の指先が画面の中の千影の顎のラインを一度なぞる。

「百七十センチ。このジョーライン。女が『推したい』って叫ぶ顔。イケメン女子で打ち出せば初月でフォロワー五十万いくわ」

 副社長・柳瀬静香がカップをソーサーに戻した。

「麗華さん、あなたはいつも打ち上げ花火が好きね」

 スライドが切り替わる。髪を下ろしてワンピースを纏った同じ顔。窓辺で微笑む横顔の一枚。

「この子の骨格、同業の女優が見たら嫉妬で眠れなくなる完成度よ。正統派で王道を歩かせれば十年どころか二十年いける。それをイケメン女子なんてパッケージに詰めるの?」

「王道が通用したのは十年前まで。今はSNSよ。『推せる』が正義の時代に——」

「だからこそ、消費されない軸を作らなきゃ意味がない」

 議論が白熱する。ペットボトルの水を握っている千影はただ壁際に座っていた。

 ——と二人が珍しく声を揃えた瞬間があった。

「方向性以前の問題、気づいてるでしょう」

「ええ」

「演技力。顔は百点。スタイルも百点。でもカメラが回った瞬間、目が死ぬのよ、あの子。台詞回しが板についていない」

「どんな方向で売り出すにしても今のままでは土台が足りない。そこは同意見よ」

 千影は黙って水を飲んだ。

 ぐうの音も出なかった。

「日常生活から——役になりきらせる」

 鷹宮の指が机を叩いた。

「二十四時間、生活そのものを演技にする。コンビニに行くのもバイトに行くのも全部——役として生きる」

「面白いことを言うわね、たまには」

「たまにはって何よ」

「つまり、イケメン女子としての日常と正統派美人としての日常、両方を演じさせると?」

「そう。交互にね。一週間で回す」

 柳瀬が万年筆を走らせた。

「七日で——男装三日、女装四日。正統派をメインに据えるなら、女装を多めにすべきよ」

「待って。イケメン路線をメインにするなら、男装四日にすべきでしょ」

「四日と三日」

「三日と四日」

 空気がぴりぴり張り詰める。マネージャーが入口付近で壁と同化しようとしている。

 ——そこでそれまで黙っていた千影が小さく手を上げた。

「あの。すみません」

 鷹宮と柳瀬が同時に振り返る。

「私、ノンビリする日が欲しいです」

「は?」

「オフです。週に一日。男でも女でもない、ただゴロゴロする日」

「役者にオフはないでしょう」

「私、人間なので。週一でゴロゴロしないと無理です」

 柳瀬がカップをソーサーに置いた。

「麗華さん」

「ん」

「この子、ゴロゴロする時間欲しいって言ってるわ」

「聞こえてた」

「あげなさいよ」

「……うーん」

「若い子をブラック企業みたいに使い潰したら、SNSで炎上するわよ」

「……はあ。分かったわよ。男装三日、女装三日、オフ一日。これでいい?」

「異議なし」

「……ねえ、なんで私が譲らされる流れになってるの?」

「あなたが先に折れたからよ」

「私のイケメン路線推しは、どうなったのよ!」

「ゴロゴロには、勝てなかったわね」

「うるさい」

(人の人生をゴロゴロの一言で決めていいのか、この事務所)

 鷹宮は最後にきちんと背筋を正してから柳瀬のほうを見た。

「——ただし、ビジュアルの出し順と撮影ディレクションは静香が握る。これはいつも通りの契約よ」

「ええ。方向性はあなたが決めて品質管理は私。長年そうしてる」

 会議室の隅で当の本人がペットボトルの水をこくり、と飲み下した。

 ——というわけで。

「男装三日、女装三日、オフ一日、です」

 千影はカウンター越しに両手を広げてまとめた。

 彩音は数秒、言葉を失っていた。

「……オフって何するの?」

「家で何もしないです。それが、私の正気を保つ唯一の方法なんです」

「芸能界って大変ね……」

 彩音はカップをもう一度、口元に運んでそして、ため息を吐いた。



「でバイトの日はちょうど男装モードの日で」

 千影はカウンターを布で丁寧に拭きながら、続けた。

「マスターに『役者志望か』って聞かれて、『はい』って答えてそのまま男だと……」

「面接のときは全然、気にしてなくて帰り道でも気づいてなくて。次の日マスターに『男二人で回す』って言われて初めて『え、男だと思われてる?』って」

「でも鷹宮社長に二十四時間演じろって言われてるし、実際通用してるなら、修行として——」

「ちょっと待って」

 彩音はカップを両手で包んで千影の顔をじっと見ていた。

 笑っていなかった。

「でもさ、今からでも言えばいいじゃない」

「いや、私、これ、演技の修行として続けたいんです。鷹宮社長に二十四時間演じろって言われてて実際マスターに通用してるし——」

「……千影ちゃん」

 彩音は少しだけ声のトーンを落とした。

「マスターのこと知ってる?」

「え?」

「あの人ね、嘘が大っ嫌いなの」

 カップを持つ彩音の手がほんの少しだけ、動きを止めた。

「常連だから、わかる。あの目。嘘を見抜く目。過去に何かあったんだと思う」

「……バレたら、演技とか修行とか、そういう話じゃ、済まないと思うわよ」

 ——千影の表情が変わった。

 面接で言われた「俺は嘘が嫌いだ」という声が急に重みを持って蘇る。

 あのとき、千影は「了解。正直に答えます」と軽く受け取っていた。

 でも彩音の言い方は、——もっと深い。

 何か、触れてはいけない傷がある。そう言っていた。

「……嘘はついてません」

「でも——」

「正直でもない?」

「……はい」

 沈黙がカウンターの木目の上に静かに降りた。

 彩音が腕を組んで考え込む。

 ——そして、息を吐いた。

「こうなったら……演じ続けるしか、ないわね」

「え」

「喫茶マンハッタンでは、男。その演技を完璧にやりなさい。ボロを出さなければバレない。バレなければ誰も傷つかない」

「……先生」

「私は何も知らないフリをする。マスターの前では、今まで通り」

「……先生。もう、ひとつだけ」

「何?」

「活動名は、『白河凛』です。女装モードの日はそっちで動いてます」

「白河凛」

 彩音は口の中でその名前を一度だけ、小さく転がした。

「……覚えたわ」

「それと——」

「わかってる。人前で『千影ちゃん』って呼ばない、でしょ」

「……はい」

「誰が聞いてるか、わからないから」

「気をつけるわ」

 ——奥のドアが開いた。

 柊一が前掛けで手を拭いながら厨房から出てきた。煮沸を終えたネル布の湿った匂いがふわりと漂ってくる。

「終わったぞ」

 千影の声は低く、きちんと男の声に戻っていた。

「お疲れさまです、マスター。——先生、ご来店ありがとうございます」

「ん。お邪魔してます」

 柊一は千影と彩音を一度ずつ順に見た。

「何か、あったか」

「いえ、何もないです、マスター」

(嘘は——ついてない)

 千影はそう、内心で小さく付け足した。



 夜。

 千影は一人で帰り道を歩いていた。

 春の夜風が首筋を撫でていく。昨日とまったく同じ風の温度。なのに今日は鼻歌は出てこなかった。

(マスターの前では、ずっと「男の千影」)

(先生が言った通り、演じ続けるしか、ない)

(マスターは私を女として見ることはない)

(バイトの千影は「信頼できる男のバイト」でそれ以上には、ならない)

 街灯の影が足元で伸びて縮む。

(……なんでそれが、少し寂しいんだろう)

 千影は少しだけ立ち止まった。

 春の夜の街を見渡す。バスの尾灯が遠ざかり、コンビニの蛍光灯が白く光っている。

 答えは、出なかった。

 ——まだ、恋という言葉は千影の中にない。


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