第三話 元教え子
土曜日の昼前。開店三十分前。
看板の「OPEN」札は千影の手でもう表に出ていた——「客のリズムは客が決める。十一時半と書いてあっても、十一時に来る客は来る」、面接の翌日に柊一が一度だけ千影に言った言葉。経験の中で身につけた、習慣の重みがある一言だった。
柊一はカウンターの奥のドアの向こう、厨房でネル布の煮沸消毒をしている。鍋の湯が沸き始める音と、ステンレスのシンクに水が流れる音が、ドア越しに小さく漏れてくる。
今日はまだ、客は誰も来ていない。
窓から差し込む春の午前の陽がカウンターの木目を暖めている。
(……マスター、奥で長いな)
(鍋のお湯、まだ沸騰中の音、する)
(——ふぁ)
千影は片手で口元を覆って小さくあくびを噛み殺した。
(朝、早かったし)
(昨日もシフト、長かった)
(喉の、声を作る筋、ちょっと、疲れてる)
(鷹宮社長は「二十四時間演じろ」って簡単に言うけど、二十四時間って本当に二十四時間なんだよ)
喉の奥でひとつ、軽く咳払いをして低音を確かめる。保てている、つもり、だった。
布を取って木の表面をゆっくり拭う。磨く方向、力加減、柊一のやり方を真似しながら。
唇の先で——昨夜、帰り道で抑えたあのメロディが、一拍、形になりかけて、声にならずに消えた。
——カラン。
ドアベルが鳴った。
千影が反射的に顔を上げて——反射的に声を出してしまった。
「いらっしゃいませ!」
——高い。
明らかに高い。男装モードの声では、ない。
千影の素の女の声だった。
入ってきたのは、彩音だった。
カーディガンの裾を手で払いながら、普段通りの柔らかい顔で入ってきた——その顔が千影の声を受けてぴたりと止まった。
(——あっ)
千影は一瞬で固まった。
慌てて咳払いをして声を無理やり喉の奥へ押し戻す。
「い、いらっしゃいませ。……どうぞ」
低い声が不自然なタイミングで出た。
しかし、遅かった。
彩音は入口に立ったまま、目を大きく見開いて千影の顔をじっと見ていた。ドアを閉めることも忘れてゆっくりとカウンターに近づいてくる。
「……え」
「……待って」
「あなた——」
(やばい、やばい、やばい)
(声だ、声)
(さっきの一声で完全に——)
彩音はカウンターのこちら側で止まった。
眉を寄せ、少し首をかしげてそれからその首をゆっくり、ゆっくり逆側へかしげた。
そして。
「え、もしかして……真白、千影ちゃん?」
「——結咲高校の」
千影の記憶が弾けた。
結咲高校。二年生の春。窓際の教壇に立っていた大学生の教育実習の先生。ドラマの話ばかりしていた実習生——
「——日野先生!?」
千影の声はもう素に戻っていた。隠す意味がなくなっていた。
「やっぱり!」
彩音は両手をカウンターに置いて身を乗り出した。
「文化祭で主演やってて私泣いたのよ! ——ってあなた女の子だったでしょう!?」
「今も女の子です!」
千影も同じ勢いで身を乗り出して返していた。
咳払いも低音も全部どこかへ飛んだ。
——同時に。
二人とも、はっと自分の口を片手で押さえた。
目だけで、奥のドアの向こう、厨房の方角を確認する。
鍋の湯はまだ沸騰し続けている。シンクに水が流れる音も、規則正しく続いている。
(……届いて、ない)
(届いて、ない、はず)
——二人は数秒、そのままの姿勢で見つめ合ってから、同時に肩の力を抜いた。
彩音がカウンター席に腰を下ろす。
「……びっくりした」
「私もびっくりしました」
(声だ。声で気づかれた)
(さっき素の声で「いらっしゃいませ」って言っちゃったから——あの声が高校の文化祭の記憶と繋がったんだ)
(……やっちゃった)
(マスターが奥にいるからって油断した)
(一瞬だったのに。……先生の耳、良すぎない?)
千影はカウンターの内側でそっと息を吐いた。
「文化祭、覚えててくれたんですか」
「そりゃあ覚えてるわよ。……上手いとか下手とかじゃなかったのよ、あなたの演技。目がね、本気だったの」
彩音は千影の顔を見ながら、少しだけ目を細めた。
「客席から見ててこの子は嘘がつけない子だなって思ったの」
千影は喉の奥が軽く詰まった気がした。
「……それは、今も変わってないみたいね」
彩音の声は責めているわけではなかった。ただ、確認するように柔らかく、そう言った。
千影は小さく頷いた。
「……先生、聞いてもらっていいですか」
「どうぞ」
「私がこうなった経緯を」
千影は事務所の会議のことから話し始めた。
彩音はカウンター席に肘をついてコーヒーを一口含んでゆっくり、聞いてくれた。
——数週間前。
事務所の会議室。プロジェクターにスーツ姿の千影の写真が映っている。
鷹宮麗華社長が脚を組み替え、ネイルの先でスクリーンを差した。
「あのね、分かってないのは副社長のほうよ」
鷹宮の指先が画面の中の千影の顎のラインを一度なぞる。
「百七十センチ。このジョーライン。女が『推したい』って叫ぶ顔。イケメン女子で打ち出せば初月でフォロワー五十万いくわ」
副社長・柳瀬静香がカップをソーサーに戻した。
「麗華さん、あなたはいつも打ち上げ花火が好きね」
スライドが切り替わる。髪を下ろしてワンピースを纏った同じ顔。窓辺で微笑む横顔の一枚。
「この子の骨格、同業の女優が見たら嫉妬で眠れなくなる完成度よ。正統派で王道を歩かせれば十年どころか二十年いける。それをイケメン女子なんてパッケージに詰めるの?」
「王道が通用したのは十年前まで。今はSNSよ。『推せる』が正義の時代に——」
「だからこそ、消費されない軸を作らなきゃ意味がない」
議論が白熱する。ペットボトルの水を握っている千影はただ壁際に座っていた。
——と二人が珍しく声を揃えた瞬間があった。
「方向性以前の問題、気づいてるでしょう」
「ええ」
「演技力。顔は百点。スタイルも百点。でもカメラが回った瞬間、目が死ぬのよ、あの子。台詞回しが板についていない」
「どんな方向で売り出すにしても今のままでは土台が足りない。そこは同意見よ」
千影は黙って水を飲んだ。
ぐうの音も出なかった。
「日常生活から——役になりきらせる」
鷹宮の指が机を叩いた。
「二十四時間、生活そのものを演技にする。コンビニに行くのもバイトに行くのも全部——役として生きる」
「面白いことを言うわね、たまには」
「たまにはって何よ」
「つまり、イケメン女子としての日常と正統派美人としての日常、両方を演じさせると?」
「そう。交互にね。一週間で回す」
柳瀬が万年筆を走らせた。
「七日で——男装三日、女装四日。正統派をメインに据えるなら、女装を多めにすべきよ」
「待って。イケメン路線をメインにするなら、男装四日にすべきでしょ」
「四日と三日」
「三日と四日」
空気がぴりぴり張り詰める。マネージャーが入口付近で壁と同化しようとしている。
——そこでそれまで黙っていた千影が小さく手を上げた。
「あの。すみません」
鷹宮と柳瀬が同時に振り返る。
「私、ノンビリする日が欲しいです」
「は?」
「オフです。週に一日。男でも女でもない、ただゴロゴロする日」
「役者にオフはないでしょう」
「私、人間なので。週一でゴロゴロしないと無理です」
柳瀬がカップをソーサーに置いた。
「麗華さん」
「ん」
「この子、ゴロゴロする時間欲しいって言ってるわ」
「聞こえてた」
「あげなさいよ」
「……うーん」
「若い子をブラック企業みたいに使い潰したら、SNSで炎上するわよ」
「……はあ。分かったわよ。男装三日、女装三日、オフ一日。これでいい?」
「異議なし」
「……ねえ、なんで私が譲らされる流れになってるの?」
「あなたが先に折れたからよ」
「私のイケメン路線推しは、どうなったのよ!」
「ゴロゴロには、勝てなかったわね」
「うるさい」
(人の人生をゴロゴロの一言で決めていいのか、この事務所)
鷹宮は最後にきちんと背筋を正してから柳瀬のほうを見た。
「——ただし、ビジュアルの出し順と撮影ディレクションは静香が握る。これはいつも通りの契約よ」
「ええ。方向性はあなたが決めて品質管理は私。長年そうしてる」
会議室の隅で当の本人がペットボトルの水をこくり、と飲み下した。
——というわけで。
「男装三日、女装三日、オフ一日、です」
千影はカウンター越しに両手を広げてまとめた。
彩音は数秒、言葉を失っていた。
「……オフって何するの?」
「家で何もしないです。それが、私の正気を保つ唯一の方法なんです」
「芸能界って大変ね……」
彩音はカップをもう一度、口元に運んでそして、ため息を吐いた。
「でバイトの日はちょうど男装モードの日で」
千影はカウンターを布で丁寧に拭きながら、続けた。
「マスターに『役者志望か』って聞かれて、『はい』って答えてそのまま男だと……」
「面接のときは全然、気にしてなくて帰り道でも気づいてなくて。次の日マスターに『男二人で回す』って言われて初めて『え、男だと思われてる?』って」
「でも鷹宮社長に二十四時間演じろって言われてるし、実際通用してるなら、修行として——」
「ちょっと待って」
彩音はカップを両手で包んで千影の顔をじっと見ていた。
笑っていなかった。
「でもさ、今からでも言えばいいじゃない」
「いや、私、これ、演技の修行として続けたいんです。鷹宮社長に二十四時間演じろって言われてて実際マスターに通用してるし——」
「……千影ちゃん」
彩音は少しだけ声のトーンを落とした。
「マスターのこと知ってる?」
「え?」
「あの人ね、嘘が大っ嫌いなの」
カップを持つ彩音の手がほんの少しだけ、動きを止めた。
「常連だから、わかる。あの目。嘘を見抜く目。過去に何かあったんだと思う」
「……バレたら、演技とか修行とか、そういう話じゃ、済まないと思うわよ」
——千影の表情が変わった。
面接で言われた「俺は嘘が嫌いだ」という声が急に重みを持って蘇る。
あのとき、千影は「了解。正直に答えます」と軽く受け取っていた。
でも彩音の言い方は、——もっと深い。
何か、触れてはいけない傷がある。そう言っていた。
「……嘘はついてません」
「でも——」
「正直でもない?」
「……はい」
沈黙がカウンターの木目の上に静かに降りた。
彩音が腕を組んで考え込む。
——そして、息を吐いた。
「こうなったら……演じ続けるしか、ないわね」
「え」
「喫茶マンハッタンでは、男。その演技を完璧にやりなさい。ボロを出さなければバレない。バレなければ誰も傷つかない」
「……先生」
「私は何も知らないフリをする。マスターの前では、今まで通り」
「……先生。もう、ひとつだけ」
「何?」
「活動名は、『白河凛』です。女装モードの日はそっちで動いてます」
「白河凛」
彩音は口の中でその名前を一度だけ、小さく転がした。
「……覚えたわ」
「それと——」
「わかってる。人前で『千影ちゃん』って呼ばない、でしょ」
「……はい」
「誰が聞いてるか、わからないから」
「気をつけるわ」
——奥のドアが開いた。
柊一が前掛けで手を拭いながら厨房から出てきた。煮沸を終えたネル布の湿った匂いがふわりと漂ってくる。
「終わったぞ」
千影の声は低く、きちんと男の声に戻っていた。
「お疲れさまです、マスター。——先生、ご来店ありがとうございます」
「ん。お邪魔してます」
柊一は千影と彩音を一度ずつ順に見た。
「何か、あったか」
「いえ、何もないです、マスター」
(嘘は——ついてない)
千影はそう、内心で小さく付け足した。
夜。
千影は一人で帰り道を歩いていた。
春の夜風が首筋を撫でていく。昨日とまったく同じ風の温度。なのに今日は鼻歌は出てこなかった。
(マスターの前では、ずっと「男の千影」)
(先生が言った通り、演じ続けるしか、ない)
(マスターは私を女として見ることはない)
(バイトの千影は「信頼できる男のバイト」でそれ以上には、ならない)
街灯の影が足元で伸びて縮む。
(……なんでそれが、少し寂しいんだろう)
千影は少しだけ立ち止まった。
春の夜の街を見渡す。バスの尾灯が遠ざかり、コンビニの蛍光灯が白く光っている。
答えは、出なかった。
——まだ、恋という言葉は千影の中にない。




