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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第1部「喫茶マンハッタン」

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2/6

第二話 男二人

 ——ガシャン。

 陶器が砕ける、鋭い音。

 誰かが息を呑む気配。照明が白くてまぶしい。撮影用のケーブルが足首に触れる。コーヒーの匂い——さっきまで飲んでいたはずの一杯が舌の上にまだ苦く残っている。床に広がる破片の冷たさが、足裏に届く。静まり返った空間に聞こえたのは、たった一つの声だけだった。

「千影」と——あの人が私の名前を呼ぶ声。

 ——ああ、終わった。

 私の嘘じゃない嘘が全部。



 バッ、と千影は跳ね起きた。

 パジャマの背中が汗でひんやり湿っている。心臓がドクドクしている。

(……夢。悪い夢、見た気がする)

 何の夢だったか、輪郭はもう溶けている。ただ、苦いコーヒーの味だけが、舌の奥に残っていた。

 枕元のスマホに手を伸ばす。画面を見た。

 ——二度見した。

 パジャマを脱ぎ捨てる。シャツに腕を通す。第一ボタンなんて結ぶ余裕もない、開いたまま。眉を描く時間は諦める。ウィッグは——今日は地毛でいい。業務用スマホと個人用スマホをポケットに叩き込む。

 喉の下に息を落とす暇もない。鏡に一瞥もくれず、玄関を蹴り開けた。



 四月の朝。

 千影は息を切らして喫茶マンハッタンのドアを押した。

(間に合った——たぶん。たぶんね)

 カランとベルが鳴る。

 柊一がカウンターの中から顔を上げた。

「……走ってきたのか」

「すみません、ちょっと……寝坊気味で」

「……遅刻はしてない」

 それだけだった。

(遅刻してないならセーフ、という人だ、この人)

(その基準、ありがたい)

 息を整えてエプロンを腰に巻く。カウンターの内側に入る。柊一は壁際に積んである段ボールを指さした。

「千影、そっちの荷物、運んでくれ。重いが、男二人なら何とかなる」

(——男二人?)

 一瞬、意味がわからなかった。

 男二人。マスターともう一人。

 もう一人って——私?

(……え)

(私、男だと思われてる?)

(そういえば昨日、性別、言ってなかった)

(履歴書にも性別欄、なかった気がする)

(聞かれなかったし、男装モードの日だったし——)

 とりあえず、段ボールに手をかけた。重い。腕がプルプルする。

「……腕細いな。飯、食ってるか?」

「食べてます」

(食べてる、食べてる。でも筋肉質な男の人と比べないでほしい)

 段ボールを抱え直そうと腕を持ち上げたその瞬間。

 ワイシャツが少しめくれ上がった。上から二つ目のボタンと三つ目のボタンの隙間が浮いた。胸元に巻いた補正インナーの白い布地の端がほんの一瞬——覗いた。はずだった。

(やばいやばい、見えたこれ見えた——)

 急いで段ボールを抱え直し、肘で胸元を隠す。

 柊一の視線がほんの一秒だけ、胸元に落ちた。

(見た。見た。ぜったい見た)

 千影の血の気が引いていく。

「……シャツのボタン、留めろ」

 それだけ。

 柊一は視線を戻し、布を取ってカウンターを拭く作業に戻った。こちらの慌てぶりにも覗いた布地の正体にも、——一切、踏み込んでこない。

(……ボタン)

(ボタンだけ)

(ボタンのことしか、言わなかった)

(マスターの目、ちゃんと胸元、見たよね?)

(見たのに——ボタン?)

 千影は段ボールを運びながら、肘で胸元を押さえつつ、小さく息を吐いた。

(マスターの鈍さを信じろ)

(……信じろ、マスターの鈍さ)

 そして、次の瞬間、千影の思考は普通の人間とは違う方向に静かに曲がった。

(……待って)

(男だと思われてる)

(この人に。あの目で人を見る、嘘嫌いのマスターに)

(つまり——私の演技、通用してる?)

 段ボールを床に下ろしながら、千影は内心でゆっくり拳を握りしめた。

(鷹宮社長に「二十四時間役に入り込め」って言われて正直、まだ全然自信なかったのに)

(面接で「まだ自信がない」って正直に言ったくらいなのに)

(それが——バレてない)

(完全に男だと思われてる)

(……これってすごくない?)

 顔には出さない。

 役作り中だ。

(……よし。このまま、演じ続けよう)

(鷹宮社長に報告したら、褒めてもらえるかも)

(「バイト先の店長を完全に騙しました」って——いや、騙してるわけじゃない)

(演じてるだけだ。役作りだ。社長の指示通りに二十四時間やってるだけだ)

(……うん、何も問題ない)

 千影は自分の手の中にある段ボールを抱え直した。

 なんだか、急に楽しくなってきた。



 午後。

 ドアベルが鳴って一人の女性が入ってきた。

 薄いカーディガン。ゆったりしたスラックス。肩にかけた鞄の口から赤ペンと採点済みのプリントの端が覗いている。

「あれ、マスター。バイト雇ったの?」

「ああ」

 柊一は磨いていたカップをそっと置いて千影を軽く手のひらで示した。

「千影、うちの常連の日野先生だ。——先生、バイトの真白千影。役者志望の男だ」

(「役者志望の男」って紹介された)

(他人にまで)

(……常連さんにも通用してる)

(私の演技力、本物かもしれない)

 千影は喉の下に息を落として一度ゆっくり頷いた。

「真白千影です。よろしくお願いします」

「日野彩音です。よろしくねー」

 カウンターの外から彩音は両手をポケットに入れたまま、千影の顔をじーっと見つめた。

 数秒。

 千影は内心でそっと固まった。

(な、なんだ?)

(この人、めっちゃ見てくる)

(……まさか男装がバレた?)

(いやいや、マスターにも通用してるのに初対面の人にバレるわけが——)

「ねえ、あなた……どこかで会ったことない?」

 彩音が首を少しかしげた。

「なんか、見覚えがあるのよね」

 千影の心臓が跳ねた。

(やばい)

(……いや、落ち着け)

(この髪型、この服装で私だとわかるはずが、ない)

(たまたま、誰かに似てるだけだ。……何かの間違いだ)

「いいえ、初めてです」

 低い声をキープする。

「そう? うーん……気のせいかしら」

 彩音は首をもう一度かしげてそれ以上、追及しなかった。柊一の淹れたコーヒーを受け取ってカウンター席の端にゆったり腰掛ける。

(……危なかった)

(でも大丈夫だ。たまたま、誰かに似てたんだろう)

(男装してるし、今の私を見て女だとわかるはずがない)

(……うん。人違いだ)

 千影は自分の中でそう結論した。

 完全に間違っている。



 放課後になり、常連たちが集まってきた。

 千影はカウンターの中から初めて見る店内の顔ぶれをそっと観察した。

 ボックス席では、男女の二人組が真剣に何か議論している。

(恋愛相談っぽい。……というか、付き合えばいいのに)

 カウンター席の反対側では、別の男女が口喧嘩しているのになぜか隣に並んで座っている。

(いや、なんで隣に座ってるんだ、あなたたち)

 カウンター端。

 一人、静かにコーヒーを飲んでいる男子高校生がいる。制服はきちんと着ていて背筋が伸びていてスマホも机に伏せてある。

(……あの子、一番落ち着いてる)

 そして、サンドイッチ全種とケーキを平らげてそれでもまだ足りなさそうな体格のいい男子高校生がメニューをじっと見ていた。

(……あの人の食費、大丈夫だろうか)

 千影が横目で見ると柊一はこの全員に同じ手つきでコーヒーを淹れていた。丁寧に静かに。客が変わっても湯を落とすリズムは変わらない。

(マスターの手は嘘をつかない手だ)

(……私もあんな風に嘘のない演技ができるようになりたい)

 まだ、役者としての憧れだと自分では思っている。

 柊一は客にコーヒーを出すとき、ほとんど喋らない。「ああ」「……そうか」「……」。注文を受ける。淹れる。出す。それだけ。言葉の代わりにコーヒーで返事をしている。

 ——ところが。

 カウンター席に座った彩音がカップを口元に運びながら口を開くとその無口な男の口数がほんの少しだけ、変わる。

「マスター、昨日のドラマ観ました? あのラストシーンが——」

「……観てない」

「もったいない! 宗方監督の恋愛ドラマは観ないとダメよ。あのね、最終回で主人公が——」

「先生。ネタバレはやめろ」

「えー、聞いてよ」

「……勘弁してくれ」

 短い返事ばかりなのに、——会話が続いている。

 他の客にはほとんど喋らないのに先生にだけは、応答している。迷惑そうに眉を寄せながら、でも突き放さない。

 彩音はボックス席の二人を見てにこっと笑った。

「あの二人、仲いいわねえ。いい幼馴染」

(……どう見ても両想いでは?)

 千影は口には出さない。

 柊一もカップを磨きながら、短く息だけで笑った気がした。

「先生、カウンターの男女は?」

「ああ、あの子たち? 本当に仲悪いわねえ」

「……先生は恋愛に疎い」

「何言ってるの」

 彩音はカップを置いて胸を張った。

「私はね、宗方鉄哉監督の恋愛ドラマを全作観てるの。恋愛に関しては——プロよ?」

(プロ……? ドラマ観てるだけで……いや)

 千影は一拍、言葉を飲み込んだ。

(……この自信、なんか、ある)

(ドラマだけの人がここまで言い切れる?)

(……あ。先生か。大人だ。私より年上だし、普通に……普通にそういうのあってもおかしくないか)

(むしろ、ある方が自然か)

(ドラマも観てて自分でも経験しててその上での「プロ」——だとしたら、納得はする)

(納得はする)

「恋愛ってね、宗方監督の『夜明けのフォルテ』第三話にいい台詞があるの。『好きという感情は相手を見つめる時間の長さに比例する』って。だから、あの二人は——」

 彩音はボックス席を人差し指でさらりと示した。

(……先生、それ、「仲のいい幼馴染」じゃなくて、「好きだから見つめてる」って自分で言ってるのでは?)

(……でも台詞の引用は的確)

(やっぱり、経験ある人の余裕なのかな)

(「あえてドラマで例える」っていう、ちょっと洒落た余裕の出し方、なのかも)

 柊一は何も言わない。目を細めて磨き終えたカップを光にかざしている。

「マスター、聞いてる?」

「……うるさい」

 ——でも、「うるさい」の語尾がほんの少しだけ、柔らかかった。

 千影はカウンターの中でその柔らかさを受け取ってしまった。

(……なんだろう)

(胸のあたりが、チクッとした)

(なんで?)

(——マスターが喋ってる)

(先生とだけ、喋ってる)

(他の客には「ああ」と「……」しか言わないのに先生には「うるさい」って言い返してる)

(先生にだけ、言葉を使ってる)

(……なんでそれが、チクッとするんだろう)

(変なの)

 千影はそれ以上、考えなかった。

 考える理由がないと思っている。

 カウンターの端では、静かな男子高校生がこちらを見ていた気がした。

 いや、見ていたというより——先生と千影のやり取りを目で追っていた。先生の表情が柔らかくなる、その距離感をなぞっているような視線だった。

 千影が視線に気づいて顔を向けるとその子はすっとカップに目を戻した。

(……まあ、高校生だし、暇なんだろう)

 千影はあまり深く考えなかった。



「ねえマスター、新入生大歓迎フェアとか、やらないの? 春だし!」

 彩音がカップを傾けながら、思い出したように言った。

「やらない」

 即答だった。

「えー! 桜のラテとか——」

「ここはコーヒー専門店だ」

 これも即答。〇・五秒だった。

「もう、すぐそうやって……じゃあ、学割……いや、学生パス! 月額制で千五百円。コーヒー一日一杯無料! 放課後のたまり場になってるんだし、常連さんが来やすくなるでしょ?」

 柊一はカップを磨く布巾を畳み直した。

(あれ)

(マスター、ちょっと考えてない?)

(さっきの桜ラテは〇・五秒で斬り捨てたのに)

(……先生の提案だから?)

(いや——コーヒー一日一杯って条件がマスターの「コーヒーで勝負する」方針に合ってるからだ。たぶん)

(……たぶん?)

「……考えておく」

「やった! 考えておくって言った! マスターが即否定しなかったってことは——」

「うるさい」

 彩音はきゃっきゃと笑いながらコーヒーを飲み干した。

 ——三日後。

 柊一がカウンターの端に手書きのPOPを設置していた。

 白い厚紙に黒い油性ペン。

「学生パス。月額千五百円。コーヒー一日一杯。席は自由」

 ——彩音の提案、そのままだった。

(……結局、やるんだ)

(三日悩んでこれか)

「……経営的判断だ」

「はい」

(……「先生の案、採用しました」でいいじゃん)

(……言えないんだ、この人)

 放課後。

 ドアベルが鳴る。

 入ってきたのは、先ほどまでカウンター端にいた静かな男子高校生だった。店の入口にあるPOPの前で足を止めてじっと読んでいる。

 柊一がカウンターの中からその背中を見た。

「……名前は?」

「——瀬尾律です」

 短い。余計なことを言わない。

「……瀬尾。学生パスの第一号だ。コーヒーは一日一杯。席は好きに使え」

「……はい。ありがとうございます」

 律はいつものカウンター端の席に座った。柊一が一杯のコーヒーを静かに出す。律はカップを両手で包んで静かに飲んだ。

(あの子、名前、わかった。瀬尾くん)

(……この店で一番まともな客だと思ってたけど)

(学生パスで毎日、来るのか)

(嬉しそうな顔はしてないけど——足が向くってことは、居心地がいいんだろうな)

 千影は少しだけ口元を緩めた。



 閉店作業の途中。

 椅子をテーブルに上げている手を止めて柊一がこちらを向いた。

「千影」

「はい」

「明日から一人で開店準備を任せる日がある。男手が俺ともう一人いると助かる」

(また「男手」って言われた)

(……信頼されてる)

(役者として認められてる)

(鷹宮社長が言ってた「二十四時間役に入り込め」を実践してちゃんと結果が出てる)

(マスターみたいに人を見る目が厳しい人を相手に)

(……これってすごい経験なんじゃないか?)

 千影は自分の中で一つの結論に至った。

(ここは、修行の場だ)

(マンハッタンで「男の千影」を完璧に演じ続けること——それが、今の私に必要な訓練だ)

(鷹宮社長の指示通り。事務所的にもバイトの日は男装モードだし)

(……うん、何も問題ない)

 椅子を全部上げ終えた頃、柊一がカウンターの中に戻り、静かに湯を沸かし始めた。

 ネルを吊るす。豆を挽く。湯を落とす。

 カップが一つ、カウンターの上に置かれた。持ち手はこちら側を向いている。

「飲んでいけ。今日はよく働いた」

 千影はエプロンの裾で手を拭ってカップを両手で包んだ。

 温かい。

 一口、含む。

 ——苦い。でも雑味がない。やっぱり、正直な味だ。

 カウンターの向こうで柊一はもう、別のカップを磨き始めている。

(……どこかで会ったことない? ってなんで聞かれたんだろう)

(……まあ、人違いだ)

 千影はコーヒーをもう一口、ゆっくり飲んだ。

 閉じかけた瞼の裏にさっきの彩音の首をかしげた顔がまだ残っていた。


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